40番観自在寺から41番龍光寺への道も相当あります。50キロくらいです。丁度半分くらいのところ、金剛橋辺りだったと思いますが、遠くの農家の縁側からこちらを見て飛んきたおじいさんからみかんを10個も接待されました。なんともいえない素朴ないいお顔でした。
41番龍光寺に着くと白髪の小柄な80歳くらいの遍路装束のおばあさんが石段を降りてきました。
すれちがいざまにみたその顔がなんともいえず気品に満ちていました。
どうすれば年取ってあのように気品のある顔になれるのでしょうか。
素晴らしい人生の総仕上げの顔です。長いあいだの信仰でそうなるのでしょうか。自我をどんどん消して他人の幸せを祈るからいい顔になるのででしょうか。思い出すと丸亀の祖母もよく山寺に手伝いに来てくれましたが年を重ねるにつれ素朴ないい顔になっていきました。
しかし我執に付きまとわれているままでは人は逆に老醜をさらけ出すことになります。要注意です。若いときからよくよくシミュレーションしておく必要があります。先輩が「^高貴^高齢者」なる言葉を教えてくれました。^後期^でなく「高貴」だというのです。お大師様は高貴寺で「高貴徳王菩薩」を感得され前世は「高貴徳王菩薩」でもあったとされます。われわれもこの龍光寺のお婆さんのように信心を重ねて「高貴」高齢者を目指さねばなりません。
吉川英治 「焚き反古の記」には「 ほんとに人生の苦労らしい苦労をなめたにちがいない人間は、そんな惨苦と闘って来たようにも見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人がらをもつに至るものである。なぜならば、正しく苦労をうけとって、正しく克ってきた生命には、当然、そういうゆかしい底光りと香いが、その人の身についているはずのものだから。」とありました。
41番龍光寺は大同二年初午の日、大師の前に、稲を担いだ稲荷大明神が現れ、「われ、この地に住し、仏法を守護して衆生を利益せん」と告げたので、大師はその尊像を刻んで一宇を建立し、四国霊場の総鎮守としたとされます。その後明治の神仏分離により、本堂は稲荷神社(三間稲荷神社)とされ、稲荷大明神と本地仏・十一面観音は、神社から少し下がった現在地に本の長い石段を上り詰めたところが稲荷社で下に本堂と大師堂がある珍しい境内です。
17年のときはここではかなり年老いて呂律も覚束ない住職らしき方が納経をしてくださいましたが、私を見て「会社を首になって廻って居るのか。」と聞かれます、私は丁度リタイアしたばかりでもありましたので「そうです」と答えました。納経、掛け軸の字を後から見ると相当字体が乱れていました。しかしそれはそれでいい思い出になります。
41番から42番佛木寺までは4キロくらいです。花々の植えられた遍路道を辿っていくとすぐです。ここのご本尊は金剛界大日如来です。御詠歌は「くさもきも ほとけになれるぶつもくじ なをたのもしき きちくにんてん」です。山川草木悉有仏性を詠みこみ、ましてや生命を持つ、餓鬼・畜生・人・天は成仏できるのが当たり前と歌っています。
澄禅「四国遍路日記」には「佛木寺、本堂東向、本尊金剛界大日如来座像、五尺ばかり。一孰山毘盧遮那院と号す、堂の後ろに楠あり、此の枝の落ちたるを拾ひて諸国にて病気を治と云」とあります。「佛木」とはこの事を云うのでしょうか。開創に際しても大師が楠木に唐から投げた宝珠が掛っているのを発見して、この楠木で大日如来を作り、その眉間へ宝珠をおさめ「一果山 佛木寺」とされたといいます。いずれにせよ楠木が霊木としてあったということでしょう。17年のお遍路の時はここのご住職と高野山の共通の知り合いの話で盛り上がりました。
41番龍光寺に着くと白髪の小柄な80歳くらいの遍路装束のおばあさんが石段を降りてきました。
すれちがいざまにみたその顔がなんともいえず気品に満ちていました。
どうすれば年取ってあのように気品のある顔になれるのでしょうか。
素晴らしい人生の総仕上げの顔です。長いあいだの信仰でそうなるのでしょうか。自我をどんどん消して他人の幸せを祈るからいい顔になるのででしょうか。思い出すと丸亀の祖母もよく山寺に手伝いに来てくれましたが年を重ねるにつれ素朴ないい顔になっていきました。
しかし我執に付きまとわれているままでは人は逆に老醜をさらけ出すことになります。要注意です。若いときからよくよくシミュレーションしておく必要があります。先輩が「^高貴^高齢者」なる言葉を教えてくれました。^後期^でなく「高貴」だというのです。お大師様は高貴寺で「高貴徳王菩薩」を感得され前世は「高貴徳王菩薩」でもあったとされます。われわれもこの龍光寺のお婆さんのように信心を重ねて「高貴」高齢者を目指さねばなりません。
吉川英治 「焚き反古の記」には「 ほんとに人生の苦労らしい苦労をなめたにちがいない人間は、そんな惨苦と闘って来たようにも見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人がらをもつに至るものである。なぜならば、正しく苦労をうけとって、正しく克ってきた生命には、当然、そういうゆかしい底光りと香いが、その人の身についているはずのものだから。」とありました。
41番龍光寺は大同二年初午の日、大師の前に、稲を担いだ稲荷大明神が現れ、「われ、この地に住し、仏法を守護して衆生を利益せん」と告げたので、大師はその尊像を刻んで一宇を建立し、四国霊場の総鎮守としたとされます。その後明治の神仏分離により、本堂は稲荷神社(三間稲荷神社)とされ、稲荷大明神と本地仏・十一面観音は、神社から少し下がった現在地に本の長い石段を上り詰めたところが稲荷社で下に本堂と大師堂がある珍しい境内です。
17年のときはここではかなり年老いて呂律も覚束ない住職らしき方が納経をしてくださいましたが、私を見て「会社を首になって廻って居るのか。」と聞かれます、私は丁度リタイアしたばかりでもありましたので「そうです」と答えました。納経、掛け軸の字を後から見ると相当字体が乱れていました。しかしそれはそれでいい思い出になります。
41番から42番佛木寺までは4キロくらいです。花々の植えられた遍路道を辿っていくとすぐです。ここのご本尊は金剛界大日如来です。御詠歌は「くさもきも ほとけになれるぶつもくじ なをたのもしき きちくにんてん」です。山川草木悉有仏性を詠みこみ、ましてや生命を持つ、餓鬼・畜生・人・天は成仏できるのが当たり前と歌っています。
澄禅「四国遍路日記」には「佛木寺、本堂東向、本尊金剛界大日如来座像、五尺ばかり。一孰山毘盧遮那院と号す、堂の後ろに楠あり、此の枝の落ちたるを拾ひて諸国にて病気を治と云」とあります。「佛木」とはこの事を云うのでしょうか。開創に際しても大師が楠木に唐から投げた宝珠が掛っているのを発見して、この楠木で大日如来を作り、その眉間へ宝珠をおさめ「一果山 佛木寺」とされたといいます。いずれにせよ楠木が霊木としてあったということでしょう。17年のお遍路の時はここのご住職と高野山の共通の知り合いの話で盛り上がりました。