福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・6

2017-05-17 | 霊魂論
真諦真有の旨を説く唯識宗も、真諦空を開演する無相大乗も、共に真諦は不可得なり不可思議なり、空なり、無相なり等と説くは、これ凡夫の分別の妄執を断滅するを旨となすゆゑである。これ真言密教より一般仏教は、凡夫の我執迷情を遮遺するを本とする、遮情教(迷いを否定する教え)なり空教なり等と云ふゆえんである。即ち真諦解脱の真境は大我として認むべき無く、いわんや個体の存在を許さないのである

これをかの禅宗の説に徴せんか、禅門にては、衆生の個体は因縁生法にして、虚妄不実なること泡沫の如く影像の如く自性空なりと観、その自性無生、虚玄不思議の妙体を、至道となすものである。

かの支那に於ける禅書の権興とも称すべき、僧璨大師の信心銘に「夢幻空華、何ぞ把握を労せん」(夢幻空華何ぞ把捉を労ん.得失是非一時に放却せよ。夢や幻、虚仮をどうしてつかまえようとするのか。自分の迷いの相対世界を一挙に手放せ。)
との句あり。中峰和尚の義解に着語すらく、義解者教中に道(い)ふを引く「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電、応作如是観」(現象界は夢・幻・泡・影・露・電のようなものとそのようなものと観ぜよ)と。又永嘉の道(いふ)を引く、「四大を放って把握すること莫れ、寂滅性の中、飲啄に隋ふ。諸行無常にして一切空なり。即ちこれ如来の大円覚なり。」(永嘉大師証道歌)


即ち禅門は色心理智双泯(主観客観、真理智慧すべて空とする)せる、不二寂滅の離言の至道を証することを明かすものである。
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