金子みすずの「さびしいとき」という詩がありました。
「わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。」という詩です。
最後の「私が寂しいとき、佛様は寂しいの」というところには深い意味が込められていると思われます。本来仏さまは衆生と一緒におられるのですから我々(金子みすずも)さえ仏さまと一体であると自覚できれば決して寂しいはずはありません、私自身も何か月も求聞持行を独り山中で行じた時も一度も寂しいと感じたことはありませんし、古希を迎える年になり日常生活でも時々仏さまがついてくださっているという感覚に浸ることがあります。そういう時はなんともいえない温かい気持ちで一杯になり一人でいても決して寂しいという気にはなりません。
この詩はみすずが仏様の「同事」をうたったつもりの詩でしょうが、そもそもみすずが「寂しい」というのは仏様とも逸れて孤独であると思うからです。その時、みすずと一緒にいてくださっている仏さまは、「こうして寄り添っているのになぜ分かってくれぬのかのう」と寂しい気持ちを持たれるということでしょう。
高齢社会になり独居老人の存在が問題視されますが、われわれ一人一人が仏さまと一体であるとの感覚を持てばけっして老後の一人暮らしは寂しくはないと思います。