一般大乗に種多の教系あるも、個別体は因縁生の仮相なり、迷情の所見なり、即ち個体は衆因縁所生なれば、個体に個体本有の自性無く、無自性空を自性となす、この自性の無生空を観じ、我執迷妄を滅尽し、その無自性の空理に還源すべきを説かないもの(大乗教)はない。
約言せば人は仮なり、無自性の法のみ實なりとは、一般大衆の通説である。即ち個体は因縁生の仮相なり、生滅無常の苦相なりと観て、無自性空の非人格の空理に契合する道を説くものである。
此の無自性の理をば、または真如、法性、実相、無相、大空、涅槃、法身、真諦等と称し、これ實に仏教教義の中心観念である。
随って此の真如真理については諸大乗家の説一様ならず、今その詳述を略するも、真如真諦の説、大に分てば、真諦實有の理を明かす唯識系の説と、真諦は空也と見る中観系の説とに帰するが、真諦有の説も、真諦空の説も、真諦真如は一味無相の法にして、真諦界には佛と衆生との仮相を絶すると説くにいたっては一である。
即ち唯識家の説によれば、真如真諦は無分別の聖智所証の妙境にして、我等囚人(覚ってないもの)よりいへば、言亡慮絶、不可思議不可説、一心法界の極妙の体にして、この妙体には生佛の仮相を絶すれば、もとより仮体の存すべきなく、
また真諦空の義を宣帳する中観の無相大乗よりいへば、真如法性とは、萬有の因縁生寂滅の空理である。随って法性といひ真諦真如と云ふも、これ形而上的実態とか、宇宙的精神とか、常住堅実の大我等の意義にあらず、主観も因縁無自性空なれば、客観も因縁無自性空なり、主客冥合の体も空なり、所謂縁観両ながら寂滅の体を真諦法性と称す。しかも此の境地は虚無にあらず、虚無にあらざれども、経論に真諦は無相なり空なり寂滅相なりと説くは、これ凡夫の真諦を妄執して、我体となさんことを恐れ、かかる消極の説示をなせるものである。
かかる教旨はかの大般若等によってもっともよく知り得らる。大般若経には有為空、無為空、畢竟空の玄旨を説く、しからば般若経は一切空義を説くをもって教体となすやと云うにしからず。かの智者大師の法華玄義に般若経は一切種智を以って教体とすと釈するがごとく、またその経額を殊に般若prajñāと称するに依っても知らるるが如く、般若経は無分別の真智を得するを正宗となすものである。即ち空を観じ、分別の妄念を絶するところに無分別の般若の真智を發得し、無上大覚を成する道を説くものである。而も般若経には迷倒の衆生の無上大覚の体を執し、却て成迷の法となさんことを恐れ、般若の智体も空なり、無上大覚の体も空なり、真諦真如も空なり、空と云も空に執すべからず、空と云は空有の分別を超越する意なることを明かす。
約言せば人は仮なり、無自性の法のみ實なりとは、一般大衆の通説である。即ち個体は因縁生の仮相なり、生滅無常の苦相なりと観て、無自性空の非人格の空理に契合する道を説くものである。
此の無自性の理をば、または真如、法性、実相、無相、大空、涅槃、法身、真諦等と称し、これ實に仏教教義の中心観念である。
随って此の真如真理については諸大乗家の説一様ならず、今その詳述を略するも、真如真諦の説、大に分てば、真諦實有の理を明かす唯識系の説と、真諦は空也と見る中観系の説とに帰するが、真諦有の説も、真諦空の説も、真諦真如は一味無相の法にして、真諦界には佛と衆生との仮相を絶すると説くにいたっては一である。
即ち唯識家の説によれば、真如真諦は無分別の聖智所証の妙境にして、我等囚人(覚ってないもの)よりいへば、言亡慮絶、不可思議不可説、一心法界の極妙の体にして、この妙体には生佛の仮相を絶すれば、もとより仮体の存すべきなく、
また真諦空の義を宣帳する中観の無相大乗よりいへば、真如法性とは、萬有の因縁生寂滅の空理である。随って法性といひ真諦真如と云ふも、これ形而上的実態とか、宇宙的精神とか、常住堅実の大我等の意義にあらず、主観も因縁無自性空なれば、客観も因縁無自性空なり、主客冥合の体も空なり、所謂縁観両ながら寂滅の体を真諦法性と称す。しかも此の境地は虚無にあらず、虚無にあらざれども、経論に真諦は無相なり空なり寂滅相なりと説くは、これ凡夫の真諦を妄執して、我体となさんことを恐れ、かかる消極の説示をなせるものである。
かかる教旨はかの大般若等によってもっともよく知り得らる。大般若経には有為空、無為空、畢竟空の玄旨を説く、しからば般若経は一切空義を説くをもって教体となすやと云うにしからず。かの智者大師の法華玄義に般若経は一切種智を以って教体とすと釈するがごとく、またその経額を殊に般若prajñāと称するに依っても知らるるが如く、般若経は無分別の真智を得するを正宗となすものである。即ち空を観じ、分別の妄念を絶するところに無分別の般若の真智を發得し、無上大覚を成する道を説くものである。而も般若経には迷倒の衆生の無上大覚の体を執し、却て成迷の法となさんことを恐れ、般若の智体も空なり、無上大覚の体も空なり、真諦真如も空なり、空と云も空に執すべからず、空と云は空有の分別を超越する意なることを明かす。