福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

両部神道論・・・その9

2014-10-17 | 法話

「神道大意 (吉田兼俱)
夫れ神とは天地に先んじて而も天地を定め、陰陽に超えて而も陰陽を成す、所謂天地に在っては神と云うひ、萬物に在っては霊といふ、人に在っては心と云う、故に神とは天地の根源なり、萬物の霊性なり、人倫の運命なり、神は心なり、形無くして能く形有る者を養うは神なり、人の五臓に託して五神となる、各その臓を守る者なり、故に神字をたましひと読む是也、眼に色を見て眼是を見ず、魂これを見る、耳に音を聞いて耳是を聞かず、神是を聞く、鼻に香を臭ひて鼻是をかがず、神是をかぐ、口に味を知りて口これをしらず、神是を知る、身に寒熱をおぼえて身是をしらず、神是をおぼゆ、まさに知るべし心は則ち神明の舎なり、形は天地と同根たることを、天神七代地神五代を合して、十二の神力を以て天地を建立し、万類を養育す、故に日に十二時あり、歳に十二月あり、人に十二の因縁あり、然れば則ち天道も地道も千変も万化も、神明の所為にあらずといふことなし、況や人は天道の霊気を受けて色身二体の運命を保つものなり、其の證明に云う、頭に七穴あるは天の七星なり、腹に五臓あるは地の五行なり、上下を合わせて十二あり、又是神代の変作なり、日月は天地の魂魄なり、人の魂魄は則ち日月二神の霊性なり、故に神道というものは心を守る道なり、心動くときは魂魄乱れ、心静かなるときは魂魄穏やかなり、是を守る時は鬼神鎮まり、是を守らざる時は鬼神乱れて災難起こる、唯己心の神を祭るにすぎたるはなし、是を内清浄と云う、外清浄とは心を使い七の種あり、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲と是なり、形を用に五の種あり、生・長・老・病・死是なり、合わせて十二あり、即ち是神代の数なり、心を用ふるに神にあらずと云事なく、形を養うに神を離れることなし、喜ぶ心過ぎる時は肝臓神いたむ、怒る心過ぎる時は心臓神痛む、哀れむ心過ぎる時は肺臓の神いたむ、楽しむ心過ぎる時は腎の臓神痛む、愛する心過ぎる時は肝府臓神いたむ、悪む心過ぎるときは大膓腑神いたむ、欲の心過ぎるときは脾臓の神いたむ、故に神道は再見するときは汚しといふは執着の心を忌む義なり、忌むという字は己が心と作れり、これをもって知るべし、しかれどもこのごとくなりといへども、肉身を受ける者は喜ばずんば有るべからず、怒らざればあるべからず、哀れまざればあるべからず、楽しまざればあるべからず、愛さざればあるべからず、悪まざればあるべからず、欲さざればあるべからず、畢竟過ぎず及ばざれば即ち災難となる、過ぎず及ばざれば即ち諸病となる、是を去る者は中なり、中とは神なり、神を知るを悟るといふ、神を知らざるを迷うといふ、迷者は迷を知らず、故に鬼神乱れて道を失う、悟者は迷いを知る、迷いを知る者は鬼神を祭る、鬼神を祀るときは道治まる、道治まる時は他従う、他従うときは功なる、功なるときは名遂る者なり、本文曰く、神を祭る者は安く、神を祭らざる者は危うしといへり、神に三種の位あり、一には元神、二には詫神、三には鬼神なり、初めの元神とは日月星辰等の神なり、その光天に現じてその徳三界に至れり、しかれども直にその妙体を見ること能わず、故に浄妙不測の元神と号す、二の託神とは非情の精神なり、非情とは草木等の類なり、他に着いて気を運び、空にいでて形をあらわし、四季に応じて生老病死の色あり、然れども全く無心無念なり、故に託神と号す、三に鬼神とは人心の動作随をいう、たとえば一念動けば是心他境に移る、故に心に天地を感ずれば天地の霊我が心に皈す、心に草木を感ずれば草木の霊我が心に皈す、心に畜類を感ずれば畜類我が心に皈す、心に他人を感ずれば他人の霊我が心に皈す、字書にいわく鬼とは皈なり、然れば則ち鬼神は心の賓客なり、他より来って他に帰り、家を出でて家に帰るが如し、故に國家を保つものは鬼神おおく集まる、鬼神乱れるときは國家破ると見えたり、これによって伏義は八卦を画して八神を祭り、釈尊は天地の為に十二神を祭り、仏法の為に八十神を祭り、伽藍の為に十八神を祭り、霊山の鎮守に金毘羅神を祭る、則ち十二神のうちにあり、この金毘羅神は日本三輪大明神なりと、伝教大師帰朝の記文に載せられたり、他国この如し、いかに況や神国においておや・・」
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