福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

財閥創始者・経済人の信仰

2020-06-12 | 法話
財閥創始者・経済人の信仰

鈴木正三は「万民徳用」で、どんな職業でも衆生済度の仏行であるとして、「世法即仏法」といいました。つい最近まで財界人・経済人と言われる人たちも今のように拝金主義ではなくまさに「経済活動即仏法」ということをわきまえていました。順不同ですが記録しておきます。

・住友財閥の創始者は涅槃宗僧侶の住友正友です。江戸幕府により涅槃宗(注1)が取り潰されたので、京都烏丸に書物と薬の店を開店、「往生要集」等を出版。薬「反魂丹」も販売。
文殊院旨意書(注2)には「商事は不及言候へ共、万事情ニ可被入候」(注3)とあります。
住友グループは「自利利他公私一如」が社是で、住友財閥の理事には座禅が必須とされ、大阪茶臼山の住友本家には禅堂があったとされます(注4)。

(注1) 安土桃山時代から江戸時代初期まで存在した。「涅槃経」の「悉有仏性」、「法華経」の「一乗思想」を基本とする。
(注2) 正友は僧侶として文殊院空禪と称した
(注3) 「すべてはこころをもとにせよ」の意
(注4) 「寒山寺接心会」のホームページにはこの間の歴史が書かれています。
三井財閥の創始者は三井高利。母親(殊法尼)は厚い信仰心を持ち「客は皆佛性をもっており同じように尊いのだから相手により商いを変えてはならない」という考えから、「現銀掛け値なし」という新商法を始める。また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、庶民も買える切り売りをして大成功する。
 高利は京都真如堂(天台宗)の大檀越となり、ここには高利夫妻の墓、越後屋奉公人2300人の総墓がある。
一方、三囲神社を守護社とし三越本支・本支店にも分霊している。いまも三囲会が例祭をとりおこなっているといいます。

・三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は土佐の生れです。
母美和は自宅のある井口から20キロの四国27番神峰寺へ弥太郎の大成を祈願して21日間のお詣りをしています。成功した弥太郎は後に四国27番神峰寺へ広大な山林を寄付しています。(この神峰寺は昭和31年尾西市の水谷夫妻に奇跡がおこり、脊椎カリエスの妻シズがここの参道で夫の背から落ちたショックで突然立てるようになったという霊験の顕れた寺でもあります。神峰寺参道にこの間の経緯を記した碑があります。)弥太郎の母、美和の定めた岩崎家家訓の第一は「人は天の道にそむかないこと」とあります。
また、大阪市西区の土佐稲荷神社の玉垣には「三菱」の名を関した企業名が並んでいます。岩崎弥太郎は三菱の守護神として土佐稲荷神社を深く信仰しました。

・大丸の祖、下村彦右衛門は京都瀧尾神社を崇拝、伏見稲荷大社を分祀、大丸繁栄稲荷神社と称しています。又、彦右衛門は毎年冬になると施餓鬼と称し貧しい人に食べもの、古着やお金を施していたとされます。

・三和グループの元、鴻池財閥の祖、鴻池幸元の「幸元子孫制詞条目」には第二条「神棚・持仏檀、毎朝祓ひ清め精誠祈念仕るべし」第三条「先祖恒例の仏事怠りなく・・」とあります。

・松坂屋の元、伊藤呉服店の十一代伊藤次郎左衛門は「伊藤家呉服店家訓録」で「毎日暫時なりとも神仏に礼拝いたすべく候、人々思ひ寄りの佛菩薩の名号一遍なりとも唱えあるべく候・・」といっています。

・近江商人出の企業は トヨタ、丸紅、伊藤忠、高島屋、日本生命等です。
近江商人が行商に出かける際には、御本尊・阿弥陀如来の小さな御絵像(掛け軸)を巻き納めて荷物の上に置き、宿で御本尊をお掛けして、朝夕勤行。売り手と買い手との聞に仏様を念じ、「商売は仏様にさせて頂く。品物は仏様を通じてお客さんに渡り、お代はお客さんから仏様を通じて頂く」と考えた、と言われています。

・伊藤忠創業者伊藤忠兵衛(近江湖東の犬上郡生まれ)は
従業員に「正信偈」と念珠を配り、毎朝読経させていました。また西本願寺津村別院に従業員と毎朝参拝、蓮如上人を慕う「酬徳会」や「大日本仏教慈善会(困窮者の救済)」を設立し、「商売は菩薩の行」といっています。

・日本生命創業者弘世助三郎は滋賀県彦根市生まれ。
日本生命の社史等によると「、古来延命長寿の神として霊験あらたかな多賀神社(注1)に、「多賀教会」という会員数の讃仰会があった。明治の初め、弘世助三郎は、多賀教会を主体とした「多賀寿生命」を創立。これがのちの日本生命の元。」とされます。(注1、多賀神社は霊験あらたかな神社です。鎌倉時代、重源は61歳で東大寺の再建を開始した時、多賀社に参拝し20年延寿し東大寺の再建を果たしています。重源は報恩謝徳のため多賀大社に参拝、境内の石(今は「寿命石」という)で座亡しています。)

・サントリー・鳥井信治郎は
毎朝、般若心経や観音経など一時間の勤行。 その後神棚で柏手を打っていたということです。
母の影響で「陰徳」をモットーとし、戦後すぐ炊き出しをしています。
「邦寿会」は1921年に大阪市西成区で無料診療と投薬、をはじめています。
又、戦争未亡人のための母子寮「赤川ホーム」を開設したり大阪市内で初の特別養護老人ホーム「高殿苑」(1974年)等を開設して現在に至っています。


・正力松太郎は昭和34年10月号「大法輪」に「私がはじめて座禅を組んだのは24歳帝大2年に進学したばかりのときであった。・・・その後戦争犯罪人として巣鴨に収容されることになった。・・ともあれ私は(学生時代指導された南禅寺管長・勝峰大徹)師のことを思い出して在監1年9ヶ月の間座禅を続けた。」とあります。松太郎は後に「利行は一法」(利他行と自利行は同じ、修証義「利行は一法なり、遍く自他を利するなり」より)に目覚めたと言われています。のち36年に松太郎は興禪護国会(注1)会長もつとめています。

注1)興禪護国会は南禅寺管長・勝峰大徹の設立で河野広中、中江兆民、細川潤次郎、床次竹次郎、大石正巳等がここで大徹に指導を受けています。中江兆民が喉頭がんで「一年有半」の時、勝峰大徹師は兆民のために兜率三関を提唱、兆民は涙を流して「最早これで葬式も要らない。」と感謝したと言われています。
兜率三関(「無門関第47則」)とは 、兜率和尚がいつも修行者に問うた、「一. おまえの本性はなにか。二. 死ぬときはどうするのか。三. 死んだらどこへいくつもりか。」という問です。


・旧安田生命社長の竹村吉右衛門は、安田銀行に入行したが出世競争の中で、「一日除目(辞令)を見れば終身道心を損ず」(唐、姚合の詩)(注)をみて、「胸中の一物を放下せよ」という境地に到達したといいます。
母から観音様が守り本尊と聞かされていた吉右衛門は「浅草寺朝参会」を作り、月刊仏教書『心の糧』を発行、「仏教振興財団」も設立しています。

注)辞令を受け取るたびに、心が千路に乱れることはサラリーマンの常です。これを逆手にとり自らの心を鍛える手段としたところに吉右衛門の常人を大いに超えたところがあります。

・松下幸之助の信仰深さは有名です。神社仏閣至る所へ寄進しています。
高野山大学には松下講堂がありましたし、高野山奥の院には松下電器の企業墓があります。

・出光佐三は故郷の宗像大社を30年かけ復興、本社・製油所・タンカーにも分祀しています。

・稲森和夫は臨済宗僧侶であり、

・世界の精密測定器トップメーカーのミツトヨは浄土宗僧侶沼田 恵範の設立です。「仏教伝道の支援を通じて人々の幸福に寄与する」が社是。仏教伝道協会も設立しています。
・銀座三笠会館の谷善之丞も座禅により自殺を思いとどまったとして三笠会館には一番上に禪堂を作っています。

・土光敏夫は岡山の自宅を経王殿という日蓮宗の道場にしています。敏夫の母登美は齢70で『国の滅びるはその愚による』と子女教育の『橘女学校』を開設、土光も理事長を務めていました。毎朝、登美の導師でお勤め(方便品・自我偈)、大太鼓を叩いて唱題したといいます。

・十河信二は新幹線を始める時、同時に重度身障者施設「弘済学園」を開始して陰徳を積んでいます。若き日にアメリカに留学してアメリカ人家庭の信仰の深さに感銘して帰国しています。

・協和発酵の加藤辯三郎は合同酒精社長・野口喜一郎から仏法の聴聞を強制され浄土真宗信者になりました。その後「在家仏教協会」を設立しています。この在家仏教協会は今でも全国八か所で各60回法話等をおもなっているようです。

・花王石鹸再興の立役者丸田芳郎社長も聖徳太子と道元に傾倒。経営と仏教に関する本を多数出版しています

・スチーブ・ジョブズは曹洞宗の乙川弘文師をNeXT社の宗教指導者に迎えています。

・ゴディバ日本支社長 ジェローム・シュシャン は「弓と禪(ヘリゲル、心眼が開ければ的を見ずに的中)」で開眼、売り上げ2倍と本人が「ゴディバはなぜ売上2倍を5年間で達成したのか? 」という本で書ています。

・ダスキン創業者 鈴木清一は金光教、一燈園経をて「道と経済の合一」を説いています。朝礼時には般若心経を社員と共に唱和しました。

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