道範消息(道範が四国配流の折、高野山御室に送った書状)
御状委細にうけたまはり候畢。そもそも一大事を心にかけ不生の心地に御游覧候事まことによろこび入り候。それに付阿字不生の観に住する時、彌彌悪念起こって観法乱れ易し、何がすべきとうけたまはり候。まことにしかるべく候。
夫れ阿字と者は迷悟の十界に亙て凡聖不二の體性にて候間、善悪始めてをどろくべからず。圓鏡の明朗なるによりて萬像此にうつり、池水澄浄なる時は天月かげをうかべ候がごとく、一心の本性すみ候によって阿字の大空ほがらかにして、善悪ともに胸中に現し迷悟同じく自心の本佛とあらはれ候。
凡夫は動もすれば善悪大小差別して泰山を中間にへだてて自他の簡別を深くさしはさんで、生佛はるかにをしわけ候ほどに、何も邪を捨て正に帰し悪を息め善を修するのみ仏法の大道と意得候。これらはしばらく幼稚の事にて候。一實の阿字に住しぬれば善悪ともに法爾無作なりと意得、以て迷悟同じく自心の實心の実際也と覚悟すべく候。たとへば野干鬼類の変作に二あり。一つには微妙の天童と現し候。これをば善と心得候。二つにはあさましき鬼類と現じ候。これをば悪と見て天童をば愛し悪鬼をば憎み候。これはいずれも本性、野干鬼類と知らず。故に妄想虚仮の上にをきて、一物に二見を興し候。二つとも無自性也と覚悟すれば本性の野干鬼類なども又正體なく候ごとく、染浄同じく一心の本徳と見れば、善悪ともに空にして自心本性の萬徳圓明の阿字自らあらはれ候べし。
唯阿字と申も五點の文字ともに黄色方形にて胸中に有るにても候はず。法身内證を覚悟し無生の玄極に安住し候をば、阿字観とは申す也。惣じて森羅の萬法、十界の依正悉く阿字の空有不生の三徳にて候へば諸法の有為造作の邊は阿字の上の仮諦萬像圓備して無為常住の方は阿字の上の空諦法性寂然の智徳にて候。此の空有の二諦無二一實なる位は、すなはち中道実相本有の阿字也。
又、我等が善悪の一念未だ起こらざる以前は本来無始の性、圓明常住の阿字の本源也。此れを仏心宗には父母未生以前と云。天地未分の位を本来の面目と談じて千聖も伝へざる所也。又、衆生一念の妄執かりにをこり候は、阿字の上の仮諦にて候。此の妄心によって衆生は生死に趻跰(りょうひょう・危険を踏む)苦海に沈淪し候也。此の心阿字ぞやと知らば、一心の本源に本付くべし。仍て菩提心論には『妄心もし起らば知りて随ふこと勿れ。妄もし息む時は心源空寂なり。萬徳斯に具し妙用無窮なり』と御釈候(「金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論」に「妄心若起。知而勿隨。妄若息時。心源空寂。萬徳斯具。妙用無窮。所以十方諸佛。以勝義行願爲戒。但具此心者。能轉法輪。自他倶利。」)。又萬法の空理眼にうかんで従縁無自性の観解起こり候は、阿字の空の一徳にて候。此れ空仮の二諦相即円融して暫くも離るる時なきは中道実相の體、一念不生前後際断の心地也。此の三徳を性浄円明の三徳、佛蓮金の三部、或は三蜜三身等と心得候也。所詮我等が念念の貪瞋痴即ち阿字の三徳にて候。貪は蓮華部、順の境叉は語密也。即ち阿字の仮諦なり。瞋は金剛部違の境阿字の空諦叉は意密也。痴は佛部、無分別智即ち阿字の中諦、我等衆生の身密也。是の如く知見しぬれば萬法の阿字円明の一理をば出ず候也。故に疏家は阿字(梵字)本不生は種智の本源と御釈候。此の観に契証する時は十界悉く阿字也。無間の猛炎、餓鬼の飢渇、畜生の残害、併ら阿字の性徳也。密厳の浄刹、花蔵の蓮都、安楽の荘厳、悉く阿字の外用也。是の如く心得候へぬれば地獄も厭ふべからず、浄土も欣喜ふべからず。染浄に着せず驚かず、有佛の處にも止まらず、無佛の處にも止まらず。超過して常に不二法性の寂都に遊び候。本より不生の生なれば始めて生ずべき生もなく、本より不滅の滅もなければ始めて滅すべき滅もなし。生滅ともに常住なれば金剛不壊の法身、我等が色身なり。行住坐臥の挙動も三密自楽の修行なれば語黙動静皆阿字の円明の作業也。必ずしも閑室に坐して一境静なるをのみ阿字観とは申さざる也。蠢たる六道の合識併ら阿字微妙の形体也。沈沈たる三界の群類、悉く不生寂静の心也。螻蟻蚊虻をも賤しむべからず。古佛の普賢身也。中臺の舎那をも貴むべからず。自身所具の阿字なれば也。又、依報の国土は即ち去去として不生の蓮台に入る。昼は五音円明の阿字の賓宮に遊び、夜は四徳解脱の阿字の本床に臥し候。況や出入りの息風即ち阿字なれば行行坐坐即ち恒時不断の念誦也。睡眠無心の時も断絶有るべからず。麁言耎語の間も悉く秘蔵真言也。応化の如来は此旨を秘して談ぜず。伝法の菩薩は知りて相譲る。良にゆえあるかな。又未練初心の行者は胸中に阿字素光の字体ばかりを観じ、有為色形の菩提をのみ存じて仏法を遥かに求め候は少しく不足にて候。阿字は虚空の如し。此れを取るに取るべからず、此れを捨るの捨つるべからず。誠に能観所観を絶して終に無相の証位に叶ふべきにて候。、此の証位は無色真如の諦理にもあらず、有相戯論の心地にもあらず。九種の心量を絶し、四種の語を離れ候間、此処は生佛の仮名を絶し、自他の形相を亡じ、因是法界縁、是れ法界因縁所生の法も立、是法界の理に安住し候也。法界と申せばとて自身の全体外へ広く成行にはあらず、喩ば大海の波浪本より周辺なるが故に沖には沖の水波となり、いそにはいその水波となtrて全く沖の波もいそにも来たらず。いその波、沖にもゆかざる如き也。愚者は沖の波はいそに来たり、いその波は沖へゆくとをもふなり。全くしからず。只沖にもいそにも、ともに動ずるが故に、しか見え候也。波には往来の義さらになし。然れども澳にも磯にも、本来平等の一水也。此の如く元より十界皆本不生実際の阿字なれば生佛同じく周遍法界にして至らざる處なし。此れにもゆかず、彼にも来たらず、彼此摂持して諦網瑜伽法界也。所詮、唯偏執を捨て修行あるべく候。疏の六には、「憺怕(静かなこと)一心にして深く語義に入る」といへり。(「大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一」に「復有牙種生起者。謂
將説此平等法門。故先以自在加持感動大衆。悉現普門境界祕密莊嚴。不可思議未曾
有事。因彼疑問而演説之。則聞者信樂倍増。深入語義」
「佛昇忉利天爲母説法經」に「所行精進亦無憺怕。一心禪定無所依倚。奉行智慧亦無所習。勸化衆生亦無所著。以愍哀故嚴淨佛土。求於聖達無所起慕。講説經法亦無所入。」)いへり。高祖は「明暗他に非ず。信修すれば忽ちに証す」(般若心経秘鍵) と御釈候。先徳は「ばん(梵字)虚言にあらず。修して而して自ら知れ乃至成仏の難所は唯有執のしからしむるなり」(五輪九字秘密釈)と仰せられ候。諸事情執を捨るに用心あるべく候。萬端忘却して鎮へに不生の心地に住し、無念の証位を期せらるべく候。瑜伽の事業畢りて金刹に還歸せん事は只今にて候。一隅を以て三端を領解有るべく候。謹言。 菊月 日 道範」