福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神道要語 慈雲

2020-04-23 | 諸経

神道要語 慈雲
真正の大道もし世間に顕現せば神道となる。高天原という。これ大道の所定まれる名なり。天御中主尊と云、これ高天原の霊をあらわせる名也。國常立の尊というはこの道の大地とともに永久なる名なり。(神代七代の最初に現れた神。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とした)。伊弉諾・伊弉冉尊と云、一陰一陽万物を生育する名なり。陽とは発動して事の始をなす。陰とは陽をうけてその終を全する名なり。萬物すでに生育して人これを掌とる。事にふれて道あり、物に随って其教を設る。是儒道の在る處なり。一陰一陽悉く自然の道なり。我朝に在て守屋が暴虐なるも、其徒萬か忠義あり。萬か犬其主人の志を全す。儒者是を受て君臣の道を立る。其跡より是をいはば道の在處なり。此父子君臣にて道は全なり。更に夫婦崑弟朋友の道を立るは、面上の贅の如く、其教無きにしかず。殊に朋友の交を立て五倫となすは、後世叛逆の基となるなり。大抵かくの如し。此人間にありて其道に志すならば、本心のおき處全く神道にあり。事の始末を全するに儒道を借り用へりし。詳に云はば、家の禮度を立るは禮記の中を取捨して用いるがごときなり。士農工商悉く互いに相應して、此男女あり。男女在りて後夫婦あり。夫婦有て父子あり。父子既に定れば、父母は慈悲、子は孝順。是大道の人倫にあらわるる象也。儒者此を受けて孝経などを製作す。其跡よりいはば、此も亦道の在所なり。其本よりこれをいはば、道の一変せるなり。故に世に孝行人と称せられて官の褒章を受ける者、多くは孝経を読ざる者なり。父子有て君臣あり。君臣既に位定まれば君は萬民を撫育すべし。臣は忠義を盡すべし。水の湿ある如く、火の煗気(暖かい気)ある如く、其規條を立べし。但し儒道は煩細の弊あり。煩細は反って敗の本なり。父子の間、若不孝の輩には、孝経を用べし。文王世子の式のごとき、文王に在ては可なり。若通して是に倣はば、偽孝行となるなり。制度は春秋をも仮り用て可なり。若是に泥めば彼の黄口儒生が八耳弑天皇と記せし如く,聖人をまねして反って叛逆の張本人となる。詩経亦諷詠の一助なり。論語亦佳言多し。その中三分の一は口拍子なることばあり。富而可求也。雖執鞭之士。吾亦爲之。如不可求。從吾所好。 (富とみにして求もとむ可べくんば、執鞭しつべんの士しと雖いえども、吾われ亦また之これを為なさん。如もし求もとむ可べからずんば、吾わが好このむ所ところに従したがわん。 「先師がいわれた。もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい」)と言うがごときは口拍子也。)貧與賤。是人之所惡也。不以其道得之。不去也。(貧と賤とは、是これ人ひとの悪にくむ所ところなり。其の道みちを以もってせざれば、之これを得うとも去さらざるなり。「人は誰しも貧困にはなりたくないし、また卑賤にもなりたくはない。しかし、道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそれをのがれようとあせる必要はない。」)もまた然り。試に看よ貧賤も業報なり。貧賤なるもの何処に往ても此貧賤附纏ふべし。去やうはあるなじきなり。少正卯を誅せし如き(魯の少正卯を孔子が誅したこと、「史記」等にある)皆刑戮の条目にあらず。原壌を打しかごとき(論語 憲問第十四の四十五にある話、孔子の幼馴染の原壌が役立たずであるとして孔子が杖を以て其の脛を叩つたという故事)幼して不遜弟と。人を咎むるに子供の時の事までを言出すべきにあらず。其外「荀も子が不欲は是を賞すといへども不盗」とか言がごとき、実に聖人の至言なり。
論語 顔淵第十二に、季康子きこうし、盗を患て、孔子に問とう。孔子対て曰く、苟も子の欲るなくんば、之を賞すと雖ども窃まず。 「季康子が国内に盗賊の多いのを心配して、孔子にその対策をもとめた。すると師はこたえられた。もしあなたさえ無欲におなりになれば、賞をあたえるといっても盗む者はありますまい」)。また我豈匏瓜ならんやというがごときは実言なり。(論語 陽貨第十七 。吾われ豈あに匏瓜ほうかならんや。焉いずくんぞ能よく繋かかりて食くわれざらんや。 「私をあの匏ふくべのような人間だと思ってもらっては困る。食用にもならず、ただぶらりとぶらさがっているあの匏ふくべのような人間――どうして私がそんな無用な人間でいられようか」)。此取捨を知って儒道を用へきなり。神道の教幸魂奇魂の用所、術魂の故、みな至言なり。諸子百家の比すべきにあらず。此神道無為に趣けば佛法なり。歴代豪傑大人の信受するところなり。用をとりて言はば道とは常住不変なるものなり。此道天地と共になり出でたる、我が国の神道なり。人倫ありて後、衆多の聖人出でて安排布置せる、是儒墨百家なり。時に随ひ事に応じて取り用ひて妨ざるを有道の人と名く。

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