一切の修行も祈りも善行も無駄になることはないということ
「仏教汎論・宇井伯壽」に「修行は結局仏性の開発といふことになるのであるが、之を如何にすべきかといへば・・自力と他力とで漸く仏性の開発が得られることになるものである。・・他力の主たるものは仏の力である。この仏と衆生との間に感応がおこなわれのであって、天台宗ではこれを感応道交といふておる。これは感と応との道まじはる、との意味であるが、感は機や縁と同じで‥衆生の方に善根の感動する機縁あるをいひ、応は赴の義、対の義で仏が衆生の感に感じ赴くことをいふから、感は衆生に、応は仏に属する。この感応は全く同一のものの上に行はれることなく、又全く異なるものの間にも行はれるものでなくして、不一不異のものの間にのみ行はれるものである。・・衆生と仏とでも衆生の理性は仏と異ならないから不異、衆生には隠れ如来には顕はれて居って一ではないから不一である。・・蓋し生仏一致は理の上でいふことで吾々の生活上では決して一致ではないがこれは一に無明によるのである。・・この無明を破る為に仏に願ふのであるが・・然し無明や宿業に種々なる相違があるから、天台宗では四句に分別して居る。(天台大師智顗の「妙法蓮華經玄義」に「隨其種性各得生長。即是機應不同意也。今略言爲四。一者冥機冥應。二者冥機顯應。三者顯機顯應。四者顯機冥應。」)
一冥機冥応・・過去世に三業を修し現在においては未だ身口意を運ばずとも宿世の善根に藉りて応のあるのが冥機、現に霊応を見ないが密かに法身の利益を蒙り見ず聞かざるも而も覚知するのが冥応。
二、冥機顕応・・過去に善根を植へて冥機はすでに成じ・・現前に利益を売るを顕応。
三、顕機顕応・・現在身口意において精勤怠らず能く仏の感の降る場合。行人が道場に於いて禮懺して能く霊応を感ずるごとき。
四、顕機冥応・・・人が一代勤苦し現在善根を積んでも顕には応が無く、しかも冥には其の利がある如き。
この如くにして一切の低頭挙手も決して応のないことはないから、不律儀で却って幸福を得ているを見ても何等邪見を起こすべきでなく、感応の差別は実際無量のものである。」
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