福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

両部神道論その17(神仏習合年表8)

2014-10-25 | 法話

・11世紀頃・・・熊野三所権現信仰盛ん「熊野権現事、神道集」
「抑熊野権現と申すは役行者・婆羅門僧正、併しながら真に本地を信仰し給へり、凡そ縁起を見るに往昔に甲寅、唐の霊山より王子旧跡を信じ給ひ、日本鎮西豊前国彦根の大獄に天下り給ふ、その形は八画の水晶の石なり、・・そののち遥かに年序を送りてのちに正き熊野の権現と顕れ給へり、神武天王の治天七十六年のうち第四十三年壬寅の年なり、・・そののち年序三百余歳を経てのち帝王四十余歳代のころに、役行者・婆羅門僧正等参詣して後、御本地を顕はし給へり、ゆえに十二所権現のうちに先ず三所権現と申すは證誠権現は本地阿弥陀如来なり、両所権現のうち中の御前薬師、西の御前は観音なり、・・」(熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)は西方極楽浄土の阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は東方浄瑠璃浄土の薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は南方補陀落浄土の千手観音とされた。)
熊野権現霊験記巻一「ここに大日本国南海紀伊の國牟婁の郡に社を建る、是を熊野権現と崇め奉る、本宮清浄殿は國常立尊、新宮は事解男尊なり、すべて天神地祇十二代を勧請す、故に鳥居の額にも日本第一大霊験所神蔵牛王寶印と書けり、・・三山のときは本宮清浄殿は阿弥陀如来にして亀甲山大雲寺といふ、新宮は薬師如来にして金胎山金剛寺といふ、那智は如意輪観音にして那智山清岸渡寺と号す、そもそもこの山の昔を尋ぬるに、伊弉諾の尊崩玉ふ時、尊骸を三熊野におさむるの説日本記神代の巻にみえたり、同神武の巻に曰く、神武天皇三十一年辛卯、第三皇子高倉下の尊天の磐船にのりて秋津洲を巡りたまふに、紀州の南交において大いなる熊あり、其の丈一丈、光を放つ、故にこの地に天の刃切の宝剣を修めたマフ、是國中の邪神をふせがんがため也、六合(くに)悉く安し、その後、人王第十代崇神天皇勅あって霊地を求めたマフにこの山を開きたまふ、・・さて那智山は裸形上人の開基なり、本尊如意輪観世音は天竺の佛にして御長一寸八分の閻浮壇金の尊像なり、・・・」

1146、春日一宮に仏舎利奉納。
1149、富士山頂に末代上人、大日寺建立、「久安五年四月一六日、・・駿河国に一上人あり。號して富士山人という、其名を末代と称す、富士山に攀登すること已に数百度に及ぶ、山頂に佛閣を構へ、之を大日寺と号す。(本朝世紀)」
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