福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

拝んでもお陰を戴けない時

2021-04-10 | 法話

拝んでもお陰を戴けない時に思い出す言葉がありあます。

法然上人は「縁により信のあるなしで利生はあり」とおっしゃり、

覚鑁上人は「・信心を試されている場合、・本人の宿業が重い場合、・成就しているが本人が分かってない場合、・しばらく魔が隠している場合など、があるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある」とおっしゃり、

三井英光師は「一切は空であるから拝めば必ず変わるがそれには時期がある。。」とおしゃっています。

・法然上人「百四十五箇条問答」「一。申候事のかなひ候はぬに、仏をうらみ候、いかが候。(仏様に願をかけても叶わない時仏様を恨み申し上げることがありますが、いいのでしょうか?

答。うらむべからず、縁により信のありなしによりて利生はあり、この世、のちの世、仏をたのむにはしかず。 (願いが叶わぬからと言って仏様を恨んではなりません。縁のあるなし、信心のあるなしによって霊験の有無が決まります。我々はこの世でもあの世でも仏様を頼るしかないのです。

一。仏をうらむる事は、あるまじき事にて候な。(仏様を恨んではいけないのですね?)

答。いかさまにも、仏をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す、信なき物は小罪だにも滅せず、わが信のなき事をはづべし(そうです仏様を恨んではいけないのです。信心のある人は大罪でも消えます。信心のない人は小罪でも消えません。)」

・新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人は「末代真言行者用心」でこうおっしゃってます。
「なかなか効現のあらわれないのは、仏様がその人の信心を試されている場合、本人の宿業が重い場合、かすかに成就しているが本人が分かってない場合、しばらく魔が隠している場合など、があるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある。」
経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心))

・「加持祈祷の原理と実修(三井英光)」に「般若心経にある如く、一切は空で実体はない。しかれば祈れば事態は変わり効験はあらわれてくることとなる。そしてその場合、効験は必ず因縁を通して現れてくる。・・加持するのは神秘実在の大地に種をまくようなもので、すぐに生える場合と春にならぬと生えぬ場合がある。すぐに効験が表れてこないのはまだ生える因縁になってあらぬからである。・・むしろお蔭のないのがお蔭だと思うべきである。いまお蔭を出しては為にならぬと思われる時には仏様はかえってお蔭を隠していらっしゃる、それが実はお蔭である。丁度出してよい時にはちゃんと出してくださるのである。・・・そうはいっても直ちにお蔭の顕れることは皆望むところである。そのためには当事者・関係者に平生から仏の神秘加持力を信じて終始真心をもち続けるよう指導すべきである。・・また時に思いがけない障碍のあらわれることがある。・・むしろ障碍があるほどますます(関係者は)懺悔し、(行者は)修法すればかえって災い転じて福となるのである。・・仏様は真の御親だから叱られても叱られても寄り添って拝みますます修行にはげめばお蔭は雨の如く降ると知るべきである。(「三井英光、加持祈祷の原理と実修」趣意)」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日から叡福寺 聖徳太子1400... | トップ | 「池江璃花子選手」「はやぶ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事