福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は貞観の新羅入寇に際して我が国は神国なりと伊勢神宮に奉幣した日。

2020-12-14 | 法話

今日は貞観の新羅入寇に際して我が国は神国なりと伊勢神宮に奉幣した日。

貞観十一年(869年)六月から、新羅の海賊が艦二艘に乗り博多の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。之に対し、朝廷は870年2月朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備したり、伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功皇后陵などに奉幣し、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや」と訴えています。こうしてすでに神国思想が芽生えています。このあと何度も朝鮮半島から九州に賊船がきて掠奪しています。)

三代実録 / 貞観十一年(869)十二月十四日丁酉条

「(十二月)十四日丁酉、使者を伊勢の大神宮に遣はして、奉幣す。告文に曰ひけらく『天皇が詔旨と、掛畏き伊勢の度会の宇治の五十鈴の河上の下つ磐根に大宮柱広敷立、高天の原に千木高知りて、称言竟奉(たたえごとおえまつ)る天照坐皇大神の広前に、恐み恐みも申賜へと申さく。去ぬる六月以来、大宰府度度言上したらく、『新羅の賊の舟二艘、筑前国の那珂郡の荒津に到来りて豊前国の貢調の船の絹綿を掠奪ひて逃退たり。』又庁樓兵庫等上に、大鳥の怪あるに依りて卜へ求ぎしに、隣国の兵革の事在るべしと卜へ申せり。又肥後国に地震風水の災有りて、舍宅悉に仆れ顛り、人民多(さわ)に流れ亡せたり。如此き之(わざわい)古来より未だ聞ずと、故老等も申すと言上したり。然間に、陸奥国又常に異なる地震の災い言上したり。自余の国国も、又頗る件の災有りと言上したり。伝へ聞く、彼の新羅人は我が日本の国と久き世時より相敵ひ来たり。而るに今、境内に入り来りて、調物を奪ひ取りて、懼れ沮る気無し、その意況(こころばえ)を量るに、兵寇の萌此自りして生(おこ)るか、我朝久しく軍旅無く専ら警備を忘れたり。兵乱の事、尤も慎み恐るべし。然れども我が日本の朝は所謂神明の国なり。神明の助け護り賜はば、何の兵寇か近き来るべき。況掛も畏き皇大神は、我朝の大祖と御座して、食国(おすくに)の天下を照し賜ひ護賜へり。然則ち他国異類の侮を加へ乱を致すべき事を、何ぞ聞食て、警め賜ひ拒(ふせ)ぎ卻(しりぞ)け賜はず在む。是の故に、王-從五位下-弘道王(ひろみちのおおきみ)、中臣-雅楽少允(うたまいのつかさすないまつりごとひと)-從六位上-大中臣朝臣(おおなかとみのあそみ-冬名(ふゆな)等を以て差使して、礼代(いやじろ)の大幣帛を、忌部-神祇少祐(かむつかさのすないまつりごとひと)-從六位下-斎部宿禰(いむべのすくね)-伯江(はくこう)が弱肩(よわかた)に太襁(ふとだすき)取り懸けて、持ち斎(ゆまわ)り捧げ持たしめて奉出し給ふ。此狀を平けく聞食て、仮令時世の禍乱として、上の件の寇賊の事在るべき物なりとも、掛けまくも畏き皇大神、国内の諸神達をも唱導き賜ひて、未だ発(い)で向たざる前に、沮拒(ふせ)ぎ排卻(しぞ)け賜へ。若し賊の謀已に熟(な)りて兵船必ず来べく在らば、境内に入れ賜はずして、逐ひ還し漂ひ没れしめ賜ひて、我朝の神国と畏れ憚れ来れる故実(ふるごと)を澆(み)だし失ひ賜ふな。此れ自り外に、仮令、夷俘の造謀反乱の事、中国(なかつくに)の刀兵賊難の事、又水旱風雨の事、疫癘飢饉の事に至るまでに、国家の大禍、百姓の深き憂へとも在るべからむをば、皆悉に未然に外に払ひ却け鎖滅(ほろぼ)し賜ひて、天下躁驚無く、国内平安に鎮護り救助け賜ひ皇御孫命の御體を、常磐堅磐(ときわにかきわ)に天地日月と共に、夜護昼護(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきわ)へ矜(めぐ)み奉り給へと、恐み恐みも申賜はくと申す。」

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