神道は祭天の古俗(明治24年)・・3
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
東洋祭天の起り
萬園の発達を概見するに、祭天は人類襁褓の世に於て、単純なる思想より起りたる事なるべし。葢義人類の始めは、柳宗元の所謂る、草木榛々鹿豕狉々なる(「天地果して初め無きか。吾得てこれを知らざるなり。生人果して初め有るか。吾得てこてを知らざるなり。・・彼その初め、万物と皆生ず。草木榛榛(しんしん)たり、鹿豕(ろくし)狉狉(ひひ)たり。(柳宗元 「封建論」)山野に群居をなし、天然の産物を假りて生活を遂れば、其恩恵の有難くして、寒暑風雨の変化の怖しさに、必ず彼蒼々たる天には此世を主宰する方のましまして、我々に禍福を降し給ふならんと信したる、観念の中より、神といふ者を想像し出して崇拝をなし、撰災招福を祷り、年々無事に需用の物を収穫すれば、報本の祭をなすことを始たるなり。何国にても神てふものを推究むれば天なり、天神なり。日本にてかみてふ語は、神・上・長・頭・髪に通用す、皆上に戴く者なり、其神を指定めて、日本にては天御中主といふ。支那にては皇天上帝といひ、印度にては天堂といひ、眞如ともいひ、欧米にてゴッドといふ。皆同義なれども、祭天報本の風俗は各異なるのみ。此の如く神は上古人の想像より出たるものなれば、人智のやゝ発達して、風俗の厖雑なるに従ひ、其種類増多し。終には際限もなく、牛鬼・蛇神・蟲豸(ちゆうたい、虫の総称)まで敬拝するに至る国もあれど、是は次第に枝葉を追ひたるにて、推究むれば、天神より地祇を出し、神祇より人鬼を出し、終に物怪を信ずるに至りたるのみ。是も人智発達の初期に於て、多少一度は免れざる事なるべし、印度の人智は早く発達し、六佛(釈迦以前の、毘婆尸仏; 尸棄仏; 毘舎浮仏; 倶留孫仏; 倶那含牟尼仏; 迦葉仏)出てゝ三生因果(三世因果)の説を始め、二千五百年前に釈迦出て、其意を推闡して衆に説教したれば、信徒より天に代る世の救主と仰かれたり。釈迦とは能仁の義にて、徳充ち道備はりて萬物を済度するの義と云、是宗教の起りなり。其後六百余年を経て、猶太に耶蘇出て、亦天降の救主と仰がる。思ふに麥西(モセス)も耶蘇も、印度釈教の西に流伝して、別派の宗教をなしたるものなるべし、釈教の東に流伝したるも、耶蘇降生の前後よりの事なり、日本の神道は、元来其以前に早くあることにて、救主もなし、三生因果の教もなし、只祭天報本より起りて俗をなし、天神の子を国帝に奉し、中臣忌部等の貴族之を佐け、太占迎神等の法を伝へ、神慮を承けて事を裁制し、祭政一致の治をなしたるは、是国体の定まりて皇統の因て起る根源なり。其時までに単純なる祭天にて、地祇てふものもなし、書紀推古帝の時に、「新羅任那二国王遣使奉表之曰。天上有神。地有天皇除此二神。何亦有畏耶」(新羅任那の二国王は使いを遣して表を奉じて之曰はく、天上に神有り、地に天皇有り、此二神を除いて何ぞ亦た畏るる耶有らんや。日本書紀巻第廿二豐御食炊屋姬天皇 推古天皇の項目に「八年春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歲、命境部臣爲大將軍、以穗積臣爲副將軍並闕名、則將萬餘衆爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之、乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之舉白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服。時、將軍共議曰、新羅知罪服之、强擊不可。則奏上。爰、天皇更遣難波吉師神於新羅、復遣難波吉士木蓮子於任那、並檢校事狀」。爰、新羅・任那二國遣使、貢調。仍奏表之曰「天上有神、地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾般柁、毎歲必朝。」則遣使、以召還將軍。將軍等至自新羅。卽新羅亦侵任那。))とあるにて、我国体を知るべし、亦神道を知るべし。
釈迦も孔子も耶蘇も、祭天の俗より生れ出たれば、我国体に戻ることなし、神道にも戻るなし。爰に東洋一般に行はれたる、上古祭天の俗を略陳せん。支那の人智は最早く発達し、易伝に 孔子の著「庖犠氏仰いで天を観象し、俯して地を察法し視鳥獣の文を地の宜と分かちて視る。八卦を畫す始めなり。」(繋辞下伝に「いにしえ包犠氏の天下に王たるや、仰いではすなわち象を天に観、俯してはすなわち法を地に観、鳥獣の文と地の宜とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の 徳を通じ、もって万物の情を類す。」)と。是彼邦哲理の発にて、今を距る少くも五千年前にあり。思ふに其時日本も韓土も、己に人民は群居をなして、亦祭天の俗をなしたるならん。基後五六百年を経たる比は、彼は少昊氏の衰世(衰えた世)となりて、祭天の俗紊乱したり。「(書経-周書)呂刑に〔民興おこり胥みんな漸あざむき、泯々棼々(みんみんふんぷん、乱れるさま)として罔中于信(信は中になし)。以覆詛盟(以て詛盟そめいを覆やぶる。 盟約を守らぬ) 虐威庶戮 (虐威せられし庶戮、無数の庶民が惨酷の刑にあい) 方に上帝に無辜を告げ、上帝民を監みる。聲香あることなし(上帝に告訴して上帝が民を鑑みると少しの徳もない)。徳刑の発聞は惟だ腥し(刑を発聞するに惟れ腥なまぐさし。刑は悪法であった)。皇帝哀矜庶戮之不辜。報虐以威。乃命重黎、絶地天通。罔有降格。云云(皇帝は庶戮の不辜なるを哀矜あいきょうし、虐に報ずるに威を以てし、乃ち重黎ちょうれいに命じ、地天の通を絶ちて、降格有るなし。故に帝舜は無辜なる人々を哀矜し、暴虐なるを威して三苗氏を討伐し、帝舜は重と黎の二人に命じて天地の通を断ち禍福終始を妄りに神へと委ねることの無きようにした)とあり。国語に、楚の観射父之を解釈して、「少昊氏衰也。九黎徳を乱す。民神雑糅、方物すべからず。家巫史を為し、烝享度無し。天は以て天に屬さしめ、命火正黎司地以屬云云。是謂絶地天通〕といへり。是厥初は純粋に天を畏敬したる人民も、経験に慣るゝに従ひ、漸神を慢る有様にて、是までは惟一の天神を崇拝したることを証せらる。然るにやがて重は天を郊し、黎は地を祀ると言做し、天神地祇を郊祀し、皇天后土とて、天を父とし地を母とすること始まり(九黎とは古代中国の伝説に登場する民族の総称のひとつである。 黎氏は大きく分けて9つの民族、小さく分けると81の氏族があったという。 中国の古代の帝のひとりである少昊(黄帝の子)の時代などに天下を乱したとされる。国語楚語下篇に古代祭祀と神官の様子が観射父によって説明されている。BC500年頃のことで孔子が在世のころである。「昭王が大夫の観射父に問う、『周書に《重と黎に命じて天地の通じるのを断たせた》とあるのはどういうことか。もし、このことがなかったら人間は天に昇ることができたのか』と。応えて言う、『その意味ではありません。昔は人と神の関係は乱れていませんでした。民の中で明朗で二心がない者、またよく厳粛忠誠で、上下の義に親しみ、神聖さは遠くまで明らかで、見れば光り輝くようで聞けばよく透徹する。このような者に神は降ります。この者を男は覡、女を巫といい習わしております。彼らに神々を祀る位置と位牌の席次を決めさせ、犠牲と祭器と時に応じた祭服を用意させます。そして、先代聖王の子孫の中で徳行があって、山川の名前、宗廟のこと昭王穆王の世系のこと厳粛な勤めと礼節と威儀の規則と容姿の飾りと忠信と祭祀の服これらを知り、神に恭しい者を祝官に任命します。そして、名族の子孫で四季の産物、犠牲の規格、玉帛の積類、祭服の使い方、祭器のこと、位牌の席次、びょうぶ扇の位置、壇場のこと、上下の神、氏族の源を知り、心は伝統に従う者を宗伯(祭祀の礼官)に任じます。こうして天地神々そして庶物の官を設けて五官と称し、各々その秩序をつかさどって乱れません。このようであって民に忠信あり、神は明らかな徳あり、民と神と勤めを異にし、敬して穢れません。そうすれば神は民に嘉ものを降ろし、民は供物を捧げ、災禍至ることなく必要が満たされました。云々」。)、三四百年を経て、(書経の)虞書に〔類于上帝禋于六宗。望秩于山川。遍于群(上帝(天帝)に於いて類(るい)し、六宗においてまつり、山川において望み、群神において弁(べん)した)〕舜典((尚書に)上帝を類(天をまつる)し、六宗を禋(いん、けむりをのぼらせてまつる事)し、山川を望(まつる)し、群神を遍(あまね)くした、と見ゆ。己に地を祀る、故に日月星辰風伯爾師も祭ることとなる。山川を祀る、故に丘陵墳衍も祀ることとなりて、多神崇拝の俗となりたり。されば人鬼の崇拝の亦起これり、虞書に〔帰路于芸祖〕。と夏書(書經卷之三蔡沉集傳商書)に〔用命賞于祖。不用命戮于社(命を用いざれば社に戮ころさん、予れ則ち孥まで汝を戮さん)〕甘誓 とあり。祖とは帝宮の内に明堂を建て、国祖を天に配して祭る、故に祖と称す、実は祭天の堂なり。社は地祇なり、漢郊祀志に、〔自共工氏覇九州其子日勾龍。能平水土。死爲社祠。有烈山氏王天下。其子曰柱能殖百穀。死爲稷祠。故に郊祀社稷所従来尚矣。云云。湯は桀を伐す。夏社に遷せんと欲す。不可。作夏社。書名 乃遷烈山子柱。而以周棄代為稷。祠(共工氏九州に覇して自り其子勾龍という。能く水土を平す。死して社と為して祠る。烈山氏あり、天下に王たり。其子柱という、能く百穀を殖す。死して稷となり祠る。故郊祀社稷所従来〕とあり。因て後人社稷は人鬼を祭るかの疑問起れり。孝経援神契(孝経を神秘的に解釈した書物)に〔社者土地之主也。稷者五稷之長也 (社とは土地の主也。稷とは五稷の長也)〕と見えたれは、後漢の大儒鄭玄〔古者官有大功。則配食其神。故勾籠配食於社。棄配於稷〕と説きて、略一定の説となりたり、されは祖は祭天の堂にて、社は土地の主なれど、頓て習例変りて、宗廟社稷といひ、鬼神といふ語も起り、宗廟には国帝の祖先を祭り匡、袷とて重き祭典あり、是は人鬼なり。社稷には春秋両度の祭をなし、郡県にも社稷を置く、村々にも春秋の社祭をなす、猶我供日の如し、即社日は其日なり。唐詩に桑柘影斜秋社散。家々扶得酔人帰((唐詩人、王駕)に「社日」と題して「・・桑の木の陰が 斜めに落ちる頃 秋の祭りも終わり家ごとに酔人を抱えて帰って行く」との詩在り)とあるにて其風俗を想像すべし。然れども彼は地祇なり。我供日は天神なり、其主とする神異なり。此く日本支那の俗は相似たれども、実は相異なれば、神祇の事は殊に根元を澄し、紛れぬ様に考へんを要す。
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
東洋祭天の起り
萬園の発達を概見するに、祭天は人類襁褓の世に於て、単純なる思想より起りたる事なるべし。葢義人類の始めは、柳宗元の所謂る、草木榛々鹿豕狉々なる(「天地果して初め無きか。吾得てこれを知らざるなり。生人果して初め有るか。吾得てこてを知らざるなり。・・彼その初め、万物と皆生ず。草木榛榛(しんしん)たり、鹿豕(ろくし)狉狉(ひひ)たり。(柳宗元 「封建論」)山野に群居をなし、天然の産物を假りて生活を遂れば、其恩恵の有難くして、寒暑風雨の変化の怖しさに、必ず彼蒼々たる天には此世を主宰する方のましまして、我々に禍福を降し給ふならんと信したる、観念の中より、神といふ者を想像し出して崇拝をなし、撰災招福を祷り、年々無事に需用の物を収穫すれば、報本の祭をなすことを始たるなり。何国にても神てふものを推究むれば天なり、天神なり。日本にてかみてふ語は、神・上・長・頭・髪に通用す、皆上に戴く者なり、其神を指定めて、日本にては天御中主といふ。支那にては皇天上帝といひ、印度にては天堂といひ、眞如ともいひ、欧米にてゴッドといふ。皆同義なれども、祭天報本の風俗は各異なるのみ。此の如く神は上古人の想像より出たるものなれば、人智のやゝ発達して、風俗の厖雑なるに従ひ、其種類増多し。終には際限もなく、牛鬼・蛇神・蟲豸(ちゆうたい、虫の総称)まで敬拝するに至る国もあれど、是は次第に枝葉を追ひたるにて、推究むれば、天神より地祇を出し、神祇より人鬼を出し、終に物怪を信ずるに至りたるのみ。是も人智発達の初期に於て、多少一度は免れざる事なるべし、印度の人智は早く発達し、六佛(釈迦以前の、毘婆尸仏; 尸棄仏; 毘舎浮仏; 倶留孫仏; 倶那含牟尼仏; 迦葉仏)出てゝ三生因果(三世因果)の説を始め、二千五百年前に釈迦出て、其意を推闡して衆に説教したれば、信徒より天に代る世の救主と仰かれたり。釈迦とは能仁の義にて、徳充ち道備はりて萬物を済度するの義と云、是宗教の起りなり。其後六百余年を経て、猶太に耶蘇出て、亦天降の救主と仰がる。思ふに麥西(モセス)も耶蘇も、印度釈教の西に流伝して、別派の宗教をなしたるものなるべし、釈教の東に流伝したるも、耶蘇降生の前後よりの事なり、日本の神道は、元来其以前に早くあることにて、救主もなし、三生因果の教もなし、只祭天報本より起りて俗をなし、天神の子を国帝に奉し、中臣忌部等の貴族之を佐け、太占迎神等の法を伝へ、神慮を承けて事を裁制し、祭政一致の治をなしたるは、是国体の定まりて皇統の因て起る根源なり。其時までに単純なる祭天にて、地祇てふものもなし、書紀推古帝の時に、「新羅任那二国王遣使奉表之曰。天上有神。地有天皇除此二神。何亦有畏耶」(新羅任那の二国王は使いを遣して表を奉じて之曰はく、天上に神有り、地に天皇有り、此二神を除いて何ぞ亦た畏るる耶有らんや。日本書紀巻第廿二豐御食炊屋姬天皇 推古天皇の項目に「八年春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歲、命境部臣爲大將軍、以穗積臣爲副將軍並闕名、則將萬餘衆爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之、乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之舉白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服。時、將軍共議曰、新羅知罪服之、强擊不可。則奏上。爰、天皇更遣難波吉師神於新羅、復遣難波吉士木蓮子於任那、並檢校事狀」。爰、新羅・任那二國遣使、貢調。仍奏表之曰「天上有神、地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾般柁、毎歲必朝。」則遣使、以召還將軍。將軍等至自新羅。卽新羅亦侵任那。))とあるにて、我国体を知るべし、亦神道を知るべし。
釈迦も孔子も耶蘇も、祭天の俗より生れ出たれば、我国体に戻ることなし、神道にも戻るなし。爰に東洋一般に行はれたる、上古祭天の俗を略陳せん。支那の人智は最早く発達し、易伝に 孔子の著「庖犠氏仰いで天を観象し、俯して地を察法し視鳥獣の文を地の宜と分かちて視る。八卦を畫す始めなり。」(繋辞下伝に「いにしえ包犠氏の天下に王たるや、仰いではすなわち象を天に観、俯してはすなわち法を地に観、鳥獣の文と地の宜とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の 徳を通じ、もって万物の情を類す。」)と。是彼邦哲理の発にて、今を距る少くも五千年前にあり。思ふに其時日本も韓土も、己に人民は群居をなして、亦祭天の俗をなしたるならん。基後五六百年を経たる比は、彼は少昊氏の衰世(衰えた世)となりて、祭天の俗紊乱したり。「(書経-周書)呂刑に〔民興おこり胥みんな漸あざむき、泯々棼々(みんみんふんぷん、乱れるさま)として罔中于信(信は中になし)。以覆詛盟(以て詛盟そめいを覆やぶる。 盟約を守らぬ) 虐威庶戮 (虐威せられし庶戮、無数の庶民が惨酷の刑にあい) 方に上帝に無辜を告げ、上帝民を監みる。聲香あることなし(上帝に告訴して上帝が民を鑑みると少しの徳もない)。徳刑の発聞は惟だ腥し(刑を発聞するに惟れ腥なまぐさし。刑は悪法であった)。皇帝哀矜庶戮之不辜。報虐以威。乃命重黎、絶地天通。罔有降格。云云(皇帝は庶戮の不辜なるを哀矜あいきょうし、虐に報ずるに威を以てし、乃ち重黎ちょうれいに命じ、地天の通を絶ちて、降格有るなし。故に帝舜は無辜なる人々を哀矜し、暴虐なるを威して三苗氏を討伐し、帝舜は重と黎の二人に命じて天地の通を断ち禍福終始を妄りに神へと委ねることの無きようにした)とあり。国語に、楚の観射父之を解釈して、「少昊氏衰也。九黎徳を乱す。民神雑糅、方物すべからず。家巫史を為し、烝享度無し。天は以て天に屬さしめ、命火正黎司地以屬云云。是謂絶地天通〕といへり。是厥初は純粋に天を畏敬したる人民も、経験に慣るゝに従ひ、漸神を慢る有様にて、是までは惟一の天神を崇拝したることを証せらる。然るにやがて重は天を郊し、黎は地を祀ると言做し、天神地祇を郊祀し、皇天后土とて、天を父とし地を母とすること始まり(九黎とは古代中国の伝説に登場する民族の総称のひとつである。 黎氏は大きく分けて9つの民族、小さく分けると81の氏族があったという。 中国の古代の帝のひとりである少昊(黄帝の子)の時代などに天下を乱したとされる。国語楚語下篇に古代祭祀と神官の様子が観射父によって説明されている。BC500年頃のことで孔子が在世のころである。「昭王が大夫の観射父に問う、『周書に《重と黎に命じて天地の通じるのを断たせた》とあるのはどういうことか。もし、このことがなかったら人間は天に昇ることができたのか』と。応えて言う、『その意味ではありません。昔は人と神の関係は乱れていませんでした。民の中で明朗で二心がない者、またよく厳粛忠誠で、上下の義に親しみ、神聖さは遠くまで明らかで、見れば光り輝くようで聞けばよく透徹する。このような者に神は降ります。この者を男は覡、女を巫といい習わしております。彼らに神々を祀る位置と位牌の席次を決めさせ、犠牲と祭器と時に応じた祭服を用意させます。そして、先代聖王の子孫の中で徳行があって、山川の名前、宗廟のこと昭王穆王の世系のこと厳粛な勤めと礼節と威儀の規則と容姿の飾りと忠信と祭祀の服これらを知り、神に恭しい者を祝官に任命します。そして、名族の子孫で四季の産物、犠牲の規格、玉帛の積類、祭服の使い方、祭器のこと、位牌の席次、びょうぶ扇の位置、壇場のこと、上下の神、氏族の源を知り、心は伝統に従う者を宗伯(祭祀の礼官)に任じます。こうして天地神々そして庶物の官を設けて五官と称し、各々その秩序をつかさどって乱れません。このようであって民に忠信あり、神は明らかな徳あり、民と神と勤めを異にし、敬して穢れません。そうすれば神は民に嘉ものを降ろし、民は供物を捧げ、災禍至ることなく必要が満たされました。云々」。)、三四百年を経て、(書経の)虞書に〔類于上帝禋于六宗。望秩于山川。遍于群(上帝(天帝)に於いて類(るい)し、六宗においてまつり、山川において望み、群神において弁(べん)した)〕舜典((尚書に)上帝を類(天をまつる)し、六宗を禋(いん、けむりをのぼらせてまつる事)し、山川を望(まつる)し、群神を遍(あまね)くした、と見ゆ。己に地を祀る、故に日月星辰風伯爾師も祭ることとなる。山川を祀る、故に丘陵墳衍も祀ることとなりて、多神崇拝の俗となりたり。されば人鬼の崇拝の亦起これり、虞書に〔帰路于芸祖〕。と夏書(書經卷之三蔡沉集傳商書)に〔用命賞于祖。不用命戮于社(命を用いざれば社に戮ころさん、予れ則ち孥まで汝を戮さん)〕甘誓 とあり。祖とは帝宮の内に明堂を建て、国祖を天に配して祭る、故に祖と称す、実は祭天の堂なり。社は地祇なり、漢郊祀志に、〔自共工氏覇九州其子日勾龍。能平水土。死爲社祠。有烈山氏王天下。其子曰柱能殖百穀。死爲稷祠。故に郊祀社稷所従来尚矣。云云。湯は桀を伐す。夏社に遷せんと欲す。不可。作夏社。書名 乃遷烈山子柱。而以周棄代為稷。祠(共工氏九州に覇して自り其子勾龍という。能く水土を平す。死して社と為して祠る。烈山氏あり、天下に王たり。其子柱という、能く百穀を殖す。死して稷となり祠る。故郊祀社稷所従来〕とあり。因て後人社稷は人鬼を祭るかの疑問起れり。孝経援神契(孝経を神秘的に解釈した書物)に〔社者土地之主也。稷者五稷之長也 (社とは土地の主也。稷とは五稷の長也)〕と見えたれは、後漢の大儒鄭玄〔古者官有大功。則配食其神。故勾籠配食於社。棄配於稷〕と説きて、略一定の説となりたり、されは祖は祭天の堂にて、社は土地の主なれど、頓て習例変りて、宗廟社稷といひ、鬼神といふ語も起り、宗廟には国帝の祖先を祭り匡、袷とて重き祭典あり、是は人鬼なり。社稷には春秋両度の祭をなし、郡県にも社稷を置く、村々にも春秋の社祭をなす、猶我供日の如し、即社日は其日なり。唐詩に桑柘影斜秋社散。家々扶得酔人帰((唐詩人、王駕)に「社日」と題して「・・桑の木の陰が 斜めに落ちる頃 秋の祭りも終わり家ごとに酔人を抱えて帰って行く」との詩在り)とあるにて其風俗を想像すべし。然れども彼は地祇なり。我供日は天神なり、其主とする神異なり。此く日本支那の俗は相似たれども、実は相異なれば、神祇の事は殊に根元を澄し、紛れぬ様に考へんを要す。