文明十四年1482「(一月二十七日)泉涌寺住持教見を召して受戒あらせらる、後、数此の事あり、七月二十七日、雲龍院(注2)聖秀を召して之(受戒)を行はる」
(後土御門天皇実録(注1)・御湯殿上日記)
(注1.後土御門天皇は践祚後応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、以下の和歌を詠じられた。
「誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」)
(注2.雲龍院は南北朝時代北朝の後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として応安5年(1372年)に龍華院と共に創建。後円融天皇、後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したが文明2年(1470年)に応仁の乱の余波を受けて全焼。)
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