福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大御室性信親王有驗の事

2024-06-14 | 頂いた現実の霊験

「古今著聞集 釈教第二・五十」「大御室性信親王有驗の事」

「性信二品親王は三条院末の御子、御母は小一条大将済時卿の女なり。昔、母后の御夢に胡僧来たりて、『君の胎に託せんと思ふ』と申しけり。その後懐妊し給ひけり。誕生の日、神光室を照らす。御法名性信なり。大御室とぞ申し侍りける。

院、御瘧病の時、諸寺の高僧等、その験を失ひけるに、この親王、朝より孔雀経一部を持ちて参らせ給ひて、御祈念ありけるほどに、すでに御気反じて、おこらせ給はんとしけるほどに、御室の御膝を枕にして、御休みありけるが、御気色火急げに見えさせ給ひければ、御室、信心をいたして孔雀経を読ませ給ふ。その御涙、経より伝はりて、院の御顔に冷たくかかりけるに、御信心のほど思し召られけるほどに、速時に御色なをらせ給ひて、その日は發せ給はざりけり。勧賞には佛母院(仁和寺諸堂記に「鳥羽院御建立。観音院灌頂堂の西に在り。」)といふ堂を建てて、阿闍梨などをかれけり。

また同じ御時、参内せさせ給ひたりけるに、勅定に『世間には以外(もつてのほか)に有験の人と申すなるに、わが見る前にて、その験あらはさるべし』と仰せられければ、勅定背(そむ)きがたくて、しばらく念誦観念せさせ給ひて、御念珠を投げ出だされたりければ、弟子(数珠の弟子玉のこと)を足にして、(数珠が)二三帀(さふ)ばかり走り歩みたりければ、急ぎ御障子を立てて入御ありけるとなん。すべて、院・宮・関白をはじめ奉りて、霊験を蒙る人その数多し。さのみは事長けれは記さず。

応徳二年(1085)九月二十七日、つひに往生を遂げさせ給ひにけり。堀河左大臣、右大臣の時、紫雲をばまさしく見られけるとぞ。延暦寺僧慶覚は、空中に音楽を聞きけり(後拾遺往生傳にあり)。荼毘の時、御平生の間とかせ給はざりける御帯、棺の中にて焼けざりけり。不思議のこととぞ世の人申しける。」

 

「性信」(密教大辞典)

仁和寺第二世。大御室と称し、三条天皇第四皇子。御母は羽林大将軍清時の女。寛弘二年1005八月一日生誕す。時に瑞光空に満つ。寛弘八年1011十月五日親王宣下。寛仁二年1018八月二十九日仁和寺喜多院において濟信に就いて出家、四度加行終わりて東大寺に登壇受戒し治安三年1023三月七日観音院において本師より伝法灌頂を、万寿二年1025伝法具支灌頂を受く。時に濟信、歓喜に堪へず自ら宝葢を取りて後に随ふ。密灌の夜、師弟子の為に葢を擎げることここに始まる。康平二年1059七月高野山に参詣、護摩八百余日を修し山上に灌頂院造営を発願。治歴四年二月天皇不豫、即ち勅によりて宮中賀陽殿に密壇を建て、孔雀経法を修し、同三十日牛車の宣を賜ふ。延久四年皇太子疱瘡御祈の為、仁和寺に薬師法を修して効験あり。同四月廿一日後三条天皇は師を戒師として御落飾遊ばされ、法諱を金剛行と号し給へり。承保二年1075二月封二千戸を賜り、承暦元年1077十二月十八日法勝寺供養導師となり、・・同二年十月法勝寺において大乗会を始修す。永保三年1083三月十三日六条内裏に於いて孔雀経法を修し同廿日二品に直叙せらる。これを品階の初例となす。親王は天性霊敏、よく顕密の奥旨を究め、悉曇・梵書に通暁し、常に精修苦行、帯を解かず葷を茄はず。尤も法験に長ず。されば勅を奉じて孔雀経法を修すること二十余箇度、即ち冷泉院・後朱雀院の御悩を除き、左大臣教通・参議師成・大納言師忠等の病を治し、大相国道長の女を蘇生せしむる等、神験挙げて数ふべからず。故にその袈裟念誦、一度拝すれば、痼疾・狂瘧・疫癘・頑疱、治せざるなく、上下帰仰して弘法大師の再来と称す。応徳二年1085

九月二十七日寂す。壽八十一.北院の上に葬り、額して光明壽院と号す。・・寛助を洒瓶となす・・」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日はマルティン・ブーバー... | トップ | 地蔵菩薩三国霊験記 1/1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

頂いた現実の霊験」カテゴリの最新記事