福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

先日、清掃活動中の御婦人に話しかけました・・

2014-06-13 | 法話
先日国立駅に降り立ち帰宅する途中、駅前で黙々とゴミ拾いをしている婦人を見かけました。此の人は駅周辺をいつも掃除している人なので思い切って「ご苦労様です、いつもありがとうございます」と声をかけました。しかし何度声をかけても無視してゴミ拾いをしています。すぐ近くまでいって再度「ご苦労様です」と声を掛けました。するとその人は振り向いて、ゼスチャーで、耳が聞こえないという仕草をしました。ハッとしました。自分も時々清掃活動をやっているので一緒

 そういえば時々通りかかる大塚公園では、野宿している老婦人がいつも公園の落ち葉を掃いています。四国遍路でも遍路にお接待する家は立派な門構えではない家の方が多いと托鉢遍路に聞きました。私自身も障害児を連れた家族から何度かお接待を受けました。
 こういう方たちは俗世の価値観からすると必ずしも恵まれているとは言えない立場です。世俗的言い方で「弱者」と「強者」を分けるとすれば、「弱者」という立場かもしれません。しかしこういう方たちが黙々と「布施行」に励んでいます。恵まれた生活をしている人たちは恥ずかしい限りです。

 貧者の一灯の基になった「阿闍世王授決經」では、貧母が乞食で得た僅かな金で油を買い燈を燃やして仏を供養したところその燈か消えることなく輝き続けた、貧母は仏様から将来「須彌燈光如來」となると授記(将来仏となると)された、と書かれています。授記の理由は貧母の「一心さ」です。阿闍世王が同じことしても授記されなかったのは「王の作すところ多しといえども心不專一なり。此母の佛への注心の如くならざる也」とされます。即ち一心に供養申し上げるかどうかがお蔭の出る分かれ道ということです。

 そういう意味では、所謂世俗的意味の「弱者」の方が一心に清掃活動や遍路へのお接待をされていることは「強者」の何倍も将来にわたりお蔭を受けることになるのだと思いました。真心の籠った「布施」は、必ずすばらしいお蔭を頂くことになると、「阿闍世王授決經」で保証してくださっているのだと思いました。



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