最近自らの心が修羅の世界となっていることを強く自覚していてしかもそれをどうすることもできないジレンマに責められている今日この頃でしたが今朝修羅の心のまま理趣経法を修し始めて驚きました。最初は「こんな修羅の心のまま仏様の前に座るのは誠に申し訳ない」、とか「心の平穏さとは心が乱れて初めてその有難さがわかるものだなあ」とかおもっていたのですが、行の途中で突然ありありとご本尊が感得できたのです。こんなにはっきりと感得できたのは初めてでした。まことに不思議な有難いことでした。田原亮演師の本だったと思いますが「悟りの落とし穴は思わぬところに出てくる」と書いてありました。自分の体験は「悟り」とは程遠いのですが、心の有難い深い落とし穴は思わぬところにあいているということがわかりました。そういえば以前四国遍路の時、遍路宿でみた自費出版本に「遍路路で挨拶をしても返さない頑固そうな老夫婦にあったとき突然御大師様に逢えた気がしてとめどなく涙が出た・・」という趣旨のことが書いてありました。
「どんな状態でもかまわぬから凡夫にとっては拝み続け、行を続けることが大切であるぞ」と仏様に教えていただいた気がします。
「どんな状態でもかまわぬから凡夫にとっては拝み続け、行を続けることが大切であるぞ」と仏様に教えていただいた気がします。