「はずかしいことにわたくしは、それまで儀軌をちゃんとよんだことがりませんでした。ところが「空海」を書いたあとでそこに書いた虚空蔵のご真言のサンスクリットがおかしいというご指摘をうけました、そこではじめて求聞持法のテキストとまともにとりくまなければという思いにかりたてられたのです。・・真言宗では真言は法身如来の説法でありその一字一字に無限の真理がふくまれている、といったぐあいにとかれているので一字たりともおろそかにしてはならないはずです。・・・学問の世界では至極当然なこうした手続をわたくしが長い間おこたっていたのは、・・・わたくしは研究のために求聞持にかかわったのではなく心の病を癒すためそれらにかかわったのだからと要約することができます。
その病はキルケゴールのいう「死に至る病」のたぐいであったといえるかもしれません。キルケゴールはそれを「絶望」といいかえています。それは過去にも未来にもにもそして現在にも自己の安住の場を見出すことのできない「不幸な意識」にほかならない、ともおもわれます。キルケゴールはその病を根本的になおす薬としてキリスト教の贖罪の思想を考えていたようですが、わたくしが自分の病の薬として偶然選んだのが求聞持だったのです。
わたくしのばあい、その行の実態ははずかしいかぎりのものでしたが、それにもかかわらず、薬のききめはすばらしく、海軍に入隊したころには心身ともにきわだって元気になっていました。そしてそれ以来例の泥沼は二度と姿をあらわすことはなかったのです。(続)
その病はキルケゴールのいう「死に至る病」のたぐいであったといえるかもしれません。キルケゴールはそれを「絶望」といいかえています。それは過去にも未来にもにもそして現在にも自己の安住の場を見出すことのできない「不幸な意識」にほかならない、ともおもわれます。キルケゴールはその病を根本的になおす薬としてキリスト教の贖罪の思想を考えていたようですが、わたくしが自分の病の薬として偶然選んだのが求聞持だったのです。
わたくしのばあい、その行の実態ははずかしいかぎりのものでしたが、それにもかかわらず、薬のききめはすばらしく、海軍に入隊したころには心身ともにきわだって元気になっていました。そしてそれ以来例の泥沼は二度と姿をあらわすことはなかったのです。(続)