本朝新修往生伝に阿字観の功徳がありました。「我心性より五色光を放ち九界の闇を照し、彼の光還りて我が身に容入し、更に出て六道群類を照らす」と。
本朝新修往生伝「沙門重怡は伯耆の国の人也。久しく台嶺に住して顕密に通ず。後に鞍馬寺に移住。寺奥に一佛庵あり。丈六の阿弥陀象を奉安す。公其の所を以て宿坊と為す。行年五十以降、偏に道心に住し六箇年山門を出ず。常に両界供養法を修し彌陀寶號を唱ふ。大治二年三月から保延六年八月までの前後十三年、通計四千、毎日彌陀寶號十二万遍を唱へ、小豆を以て其の数と為す。二百八十七石六斗なり。又蓮子・木槵子等を以て筥に入れ仏前に置き、寺に参る人に佛號を勧唱す。其の数三千五百五十七石九斗也。長案を立て手自ら之を記す。保延六年秋九月、身少恙あり。予め命期を知り、彌よ浄業を勤む。當日、常随の弟子に語りて曰く『我、湯沐を儲んとす』。慇に手自ら其の状を書す。兼ねて門徒を誡めて曰く、『仏道修行率率怠ること勿れ。専ら行戒に住し、放逸を離るべし』。言訖りて沐浴し新浄袈裟を更著し五色糸を以て弥陀の手に繫け其の端を引き、専ら彼の仏を念ず。又寺僧を招集し伽陀を誦せしむ。音声人先、帰命本覚文を誦し、公曰く『唯阿弥陀仏真金色等の文(注、阿弥陀仏真金色偈)を誦せ』。仍って此の文を誦すること両三遍、公自ら唱和す。次に、諸経要文決定往生の句偈を誦す。誦し畢りて休息す。左右其の意気快然たるを見、半ば以て退座す。食頃、入室の弟子、未来世の事、一二問を聞かんと欲す。公答て曰く『我生年十五以来、毎月十八日観音三十三品巻を転読し後世の菩提を求願し、兼ねて又毎日晨朝地蔵菩薩寶号一千遍を唱へ、後生善処を祷る。或は両界三部法を修し菩提を志求す。若し極楽往生の素懐を遂げずば定めて補陀落山若しくは羯羅陀山(地蔵菩薩の住む所)修羅窟に生ぜん。修羅窟とは両界悉成就の地也。又問て曰く『多年阿字観を修さる、その事如何』。答て曰く『観点相続し敢て忘失せず。所謂我心性より五色光を放ち九界の闇を照し、彼の光還りて我が身に容入し、更に出て六道群類を照らす』。如是の言訖り左手に五鈷杵を執り右手に呪珠を持ち西に向て念仏して命終す。時に保延六年1140九月七日也。春秋六十六。公遷化の後、五十日間往々人々之の夢を語る。彼の公の旧房は往生人の居る處也。之を忘る勿れ云々。又曰く、一浄土あり、荘厳微妙、問て曰く『是何公誰人所居乎』。童子答て曰く『是則ち上品浄界重怡上人の住生所處也。』又曰く『鞍馬寺重怡上人は往生の人也、汝知らず乎』。