福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・6

2016-04-16 | 開催報告/巡礼記録
角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・6

話は、一変しますが、昔の人の信仰生活とはどういうものであったかを見るため、恥ずかしながら、数十年ぶりに絵巻本を紐解いてみました。中央公論社 昭和56年3月刊 「日本絵巻大成 別巻 一遍上人絵伝 編集 小松茂美」 です。

一遍上人(1239~1289年)は、時宗の開祖。伊予に生まれ、正応2年8月、兵庫の観音堂に没するまで、その生涯の大半を諸国の遊行に費やし、多くの人びとに念仏を勧め、ことに、踊り念仏によって、浄土宗の大衆化に尽くしました。別名、遊行上人とも呼ばれています。

この絵巻は、一遍上人の行状を描いたもので、現在、数種の絵巻が伝えられています。大別すると、二系統に分かれています。一遍上人が没後、上人の行状を目の当たりにした、弟子の「聖戒」と「宗俊」がそれぞれ、行状絵巻を作っています。ともに、一遍上人の没後間もないころに作られました。しかし、時を経るに従い、行状絵巻本は、焼失したりして逸散しています。不思議なことに、この「宗俊」によるものが多く、「聖戒」本はただ一つしか残されていません。これからお話しする絵巻は、「聖戒」本です。この絵巻は、時の関白・九条忠教の勧進によって、「聖戒」が撰述し、法眼円伊が、絵を画き、能書の公卿四人の詞書の清書によって作成されたものと言われています。

この絵巻は、一遍上人没後、十年目の命日に、聖戒(49歳)が、詞書の文章を作り、法眼円伊という絵師が、絵を描いています。絵巻は、詞書と絵とを交互に展開しながら、すべて48段からなっています。阿弥陀如来の四十八願にちなみ、浄土宗では四十八という数字を重んじたためといいます。

絵巻は、一遍、15歳の出立から始まります。草葺寄棟造りの大きな田舎家です。一遍の生家でしょう。絵巻の絵の表現は、俯瞰した情景を描くのが特徴です。聖戒出家の場面。老僧の剃刀で、薙髪している。一遍の伊予・菅生の岩屋参篭。全山絶壁の岩山の上に、堂宇が立てられている。梯子をかけて堂から堂に通じ、高所恐怖症になりそうです。一遍と聖戒が対座してます。峨峨と聳え立つ奇石怪石の頂上に鎮守の祠、白山大明神。危険を顧みず、山頂で祈願している男。下には、一女笠、虫垂絹に白装束を固めた女。一遍、妻子と別れ行脚に出立。恩愛眷属を離れてといいます。天王寺の伽藍。名高い西門の前で、一遍の念仏説法。人だかりがしています。今と変わらぬ伽藍が俯瞰されます。高野山の全景。このころの高野山は奥の院に通ずる道の両側には、卒塔婆が林立していて現在のような大小の墓が林立する光景はありません。木立に一、二の小さな堂宇が点在するぐらいです。坂を上がると、豁然と開けた台地があり、奥まった所に、宝形造りの建物があり、弘法大使の廟所です。高野山の建物は、皆、入母屋造りの平屋建てです。熊野新宮。平屋建て回廊と、宮殿。舟を降りた人びとが見える。那智の瀧。一遍、熊野権現の化現に会う。一遍、百人ほど集まった子供達に、札を配っています。筑前国の武士の館。一遍、武士に念仏札を渡し、くるりと背を向け立ち去る。ここは、絵巻おける異時同図法で描いてます。備前国藤井政所の邸。一遍は、吉備津宮神主子息の妻女に剃刀を当てています。京、因幡堂に宿る。このあたりから、当時の乞食の様が描かれます。寺の縁の下で、こもを被つて寝ている。信濃佐久、草葺屋根の下に、半裸の乞食。と書いてきましたが、長くなりますので、要点のみを記しましょう。

この絵巻は、一遍上人の生涯を忠実に辿り、踊念仏の賑やかな情景が、生き生きとして、描かれ、一遍は、眼光鋭く、澄んだ額、矍鑠とした体躯、激しい気性で念仏説法しています。しかし、終盤、臨終の場面では、裸足の足はやせこけ、眉の辺りは、深い影が淀んでいるようです。一遍のすべてを、念仏に打ち込んだ人の姿が 髣髴とします。この絵巻では、当時の人たちの生活の格差を歴然と描かれています。武士や庶民を描く数よりも、乞食を描いた数が多いのです。明治以前の民衆社会には、乞食が多かったのでしょう。人の集まるところ、市や神社・寺院のほとりには、必ず、群居しています。寺院の床下は、格好の寝床で、大勢の乞食が雑魚寝しています。乞食は、人に物乞いして生き、簡単な小屋掛けをして住まいにしています。法眼円伊も、戸外に出れば、必ず乞食が目に付き、どうにもならない民衆社会に、乞食を描くことで、ささやかな世相批判と、愛惜の情を撃ってたのではないかと思います。乞食も、現世では救われないのですが、庶民大衆も、打ち続く飢饉・天災地変・戦乱・政変・盗難などに振り回され、現世を諦め、一遍について、踊念仏に、困窮の苦しみを癒すささやかな希望を願ったのでしょう。乞食たちの前で、一遍上人は念仏踊りに、念仏を唱えていても、乞食たちは、その念仏さえも、耳に入らず、救いのない光景が描かれています。神仏は、この乞食たちには関心が無いのでしょうか。乞食たちは、もはや、神仏にすがることよりも、ひもじい腹を満たしたい。その一念にすがっているようです。悲惨極まる光景です。でも、我が身を考えると、決して、人ごとではありません。

宮本常一先生が、この絵巻について、「夜の闇」という、このころの、一般民衆の生活には、夜の明かりは、殆どなかった無かったという指摘をされていました。貴族の生活には、篝火や燈台や燭台があった。民衆の世界にはそれすらなかった。それだけに、夜の暗さが思いやられる。そして、昼の世界と夜の世界がはっきりと分かれていた。家の中に炉が切ってあれば夜の明かりにしたことがわかるが、それ以外に、夜を明るくするものは、殆どなかったといいます。この夜の暗さが、夜を神秘なものにし、恐るべきものにもし、一方、月の明かりが、尊ばれたといいます。
そういえば、絵巻には、一遍上人はじめ、民衆の夜の生活を描いた場面は、ひとつもありません。

翻って、私たちの現代社会も、乞食こそは見かけませんが、形態を変えた生活に苦しむ人たちが多いのではないかと、推察できます。景気回復、中流社会などと、いろんな表現がなされていますが、現実は、厳しい生活を強いられているのではないかと思います。いつの時代も、変わらないのですね。特に、長寿社会になったといい、「嫌老社会」「下流老人」などという言葉が、罷り通り、食べ物屋では、何処も、「食い放題 、呑み放題」をうたい文句に客を引く幟が林立、日本人の品性を疑われるような世の中になってきました。


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