角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・5
次の札所である、品川神社に向う途中、Sさんの案内で、都内では、一か寺しかないといわれ、虚空蔵尊菩薩が祀られてあるといわれる天台宗・養願寺に立ち寄り、礼拝をします。ここから、あと2分で、品川神社です。急勾配の階段を上がり幾つもの鳥居を潜って社殿の広場に出ます。白無垢白内掛け白ずくめの角隠しをした花嫁御寮と出会いました。いまどき、珍しいので見とれると、このお嫁さん、恥じる気配も無く堂々と、立ち尽くしています。慌てて駆け寄ってくる新郎さんがひ弱い感じがして・・・。当世は、女性上位・肉食系であることをまざまざ見せていただきました。私にとっては、桑原桑原です。
第4札所 東京十社 品川神社(東京都品川区北品川3-7-15)
御祭神 天比理乃命(あめのひりのめのみこと)
宇賀之売命(うがのめのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
平安時代末期・後鳥羽天皇の御世、文治3年(1187年)源頼朝が、安房国の洲崎明神(現、千葉県館山市に鎮座している洲崎神社)から、海上交通安全と祈願成就を祈る守護神として、天比理乃命を、勧請して、品川大明神として創建したのが始まりです。鎌倉末期の元応元年(1319年)二階堂道蘊が,宇賀之売命(お稲荷様)を、更に、室町中期の文明10年(1478年)太田道灌が、素盞鳴尊(天王様)をそれぞれお祀りしました。天正19年(1591年)、徳川家康から、5石の社領の朱印を受け、慶長5年(1600年)徳川家康が、関ヶ原の戦いに出陣の際に、品川大明神(品川神社)に参拝して必勝祈願をし、祈願成就の御礼として、「天下一嘗の面」(仮面)と「葵神輿」を奉納しました。寛永14年(1637年)三代将軍家光が、東海寺を建立した時には、当社が鎮守と定められ、御修復所(神社の建物の再建・修復をすべて幕府が賄う)となり、元禄7年(1694年)・嘉永3年(1850年)の二度にわたる大火で、社殿を焼失した時には、時の将軍の命により、再建が行われるなど徳川将軍家の手厚い庇護を受けました。明治元年(1868年)11月、明治天皇が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるために当社を含めた都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められました。明治5年(1872年)郷社、昭和50年(1975年)、東京十社に列しました。大東亜大戦中は、さいわいな事に、戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964年)氏子達の協力を得て現在の社殿が再建されました。
品川神社の話題といえば、例大祭です。6月7日に近い、金・土・日に斉行されます。特に、日曜日に行われる神幸祭と宮神輿の渡御は、見ものです。宮神輿は、皇室の御慶事があった年には、明治17年(1884年)奉納された「大神輿(通称・千貫神輿)」が、例年は、大正13年(1924年)奉納の「中神輿」が渡御します。当社の神輿は、特殊な方式が施されていて、台座に穴が無く、担ぎ棒は、台座下部の凹部つけ、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げ固定します。お神輿の脇に品川大拍子取り付け、拍子を打ちながら渡御するので、縦棒は、台座下の二本のみ。担ぎ手は、前後に付けられた横棒を担ぎます。神輿の屋根に、徳川家康が奉納した「天下一嘗の面」の神面をつけ、品川拍子(品川区指定無形民俗文化財)の拍子で神輿が進行します。品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と篠笛によって奏されます。起源は、明治中頃に、嶋田長太郎が、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲・集大成したものといわれています。この太太神楽は、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれて来たもので、大正初年までは、神職によって奉納されてきましたが、その後,神楽師の間宮氏によって継承され、昭和38年には、東京都技芸無形文化財の指定を受けました。この太太神楽は、元亀年間(1570~1573年)ごろに始められ、慶長5年(1600年)徳川家康が、関ヶ原の戦いに出陣する祭に奉納下という記録があるそうです。舞いは、二十座ありましたが、現在は、十二座が伝承されています。
富士塚(品川富士)もよく話題になります。明治2年(1869年)から同5年(1872年)にかけて築造されたものです。この富士塚に登ると本物の富士山に登ったのと同じご利益があるとする富士信仰に基ずくものです。毎年7月には、「品川丸嘉講」により山開きの神事が行われています。(由緒書きより)
品川神社に参詣する時に、先ず、驚くのは、境内入口の階段前に、門柱に龍が絡み付いている石鳥居、双龍鳥居と言うそうですが、左柱に、昇り龍、右の柱に,下り龍が彫刻されています。神聖な鳥居に、大きな龍が絡みつく形象は、異様とも見えますが、竜神でもあるのでしょうから有り難味が倍増するのでしょう。この階段を上り高みの境内にとどくと、また一つ、二つと鳥居が立っています。そのまま石畳の参道を伝ってゆくと、目指す神殿に辿り着きます。神殿で礼拝。若いカップルの参拝者が、幾組か見られ、若い人に人気があるようです。これは、品川の変貌と関係がありそうでした。品川は、JRの駅舎もすっかり変わり、モダンで洒落た店が並ぶ構内商店街が出来、新幹線も停車するようになりました。駅の外に出ると、近代的な高層ビルが林立して町の様相がすっかり変わっており、大勢の人出に賑わっています。神社に続く商店街も、明るく清潔な感じのする通りにしていて、楽しめる雰囲気があります。こうした町作りが、神社・寺院が、参詣客を引きつける要因にもなっているようです。
次の札所である、品川神社に向う途中、Sさんの案内で、都内では、一か寺しかないといわれ、虚空蔵尊菩薩が祀られてあるといわれる天台宗・養願寺に立ち寄り、礼拝をします。ここから、あと2分で、品川神社です。急勾配の階段を上がり幾つもの鳥居を潜って社殿の広場に出ます。白無垢白内掛け白ずくめの角隠しをした花嫁御寮と出会いました。いまどき、珍しいので見とれると、このお嫁さん、恥じる気配も無く堂々と、立ち尽くしています。慌てて駆け寄ってくる新郎さんがひ弱い感じがして・・・。当世は、女性上位・肉食系であることをまざまざ見せていただきました。私にとっては、桑原桑原です。
第4札所 東京十社 品川神社(東京都品川区北品川3-7-15)
御祭神 天比理乃命(あめのひりのめのみこと)
宇賀之売命(うがのめのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
平安時代末期・後鳥羽天皇の御世、文治3年(1187年)源頼朝が、安房国の洲崎明神(現、千葉県館山市に鎮座している洲崎神社)から、海上交通安全と祈願成就を祈る守護神として、天比理乃命を、勧請して、品川大明神として創建したのが始まりです。鎌倉末期の元応元年(1319年)二階堂道蘊が,宇賀之売命(お稲荷様)を、更に、室町中期の文明10年(1478年)太田道灌が、素盞鳴尊(天王様)をそれぞれお祀りしました。天正19年(1591年)、徳川家康から、5石の社領の朱印を受け、慶長5年(1600年)徳川家康が、関ヶ原の戦いに出陣の際に、品川大明神(品川神社)に参拝して必勝祈願をし、祈願成就の御礼として、「天下一嘗の面」(仮面)と「葵神輿」を奉納しました。寛永14年(1637年)三代将軍家光が、東海寺を建立した時には、当社が鎮守と定められ、御修復所(神社の建物の再建・修復をすべて幕府が賄う)となり、元禄7年(1694年)・嘉永3年(1850年)の二度にわたる大火で、社殿を焼失した時には、時の将軍の命により、再建が行われるなど徳川将軍家の手厚い庇護を受けました。明治元年(1868年)11月、明治天皇が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるために当社を含めた都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められました。明治5年(1872年)郷社、昭和50年(1975年)、東京十社に列しました。大東亜大戦中は、さいわいな事に、戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964年)氏子達の協力を得て現在の社殿が再建されました。
品川神社の話題といえば、例大祭です。6月7日に近い、金・土・日に斉行されます。特に、日曜日に行われる神幸祭と宮神輿の渡御は、見ものです。宮神輿は、皇室の御慶事があった年には、明治17年(1884年)奉納された「大神輿(通称・千貫神輿)」が、例年は、大正13年(1924年)奉納の「中神輿」が渡御します。当社の神輿は、特殊な方式が施されていて、台座に穴が無く、担ぎ棒は、台座下部の凹部つけ、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げ固定します。お神輿の脇に品川大拍子取り付け、拍子を打ちながら渡御するので、縦棒は、台座下の二本のみ。担ぎ手は、前後に付けられた横棒を担ぎます。神輿の屋根に、徳川家康が奉納した「天下一嘗の面」の神面をつけ、品川拍子(品川区指定無形民俗文化財)の拍子で神輿が進行します。品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と篠笛によって奏されます。起源は、明治中頃に、嶋田長太郎が、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲・集大成したものといわれています。この太太神楽は、品川神社の宮司家に相伝として受け継がれて来たもので、大正初年までは、神職によって奉納されてきましたが、その後,神楽師の間宮氏によって継承され、昭和38年には、東京都技芸無形文化財の指定を受けました。この太太神楽は、元亀年間(1570~1573年)ごろに始められ、慶長5年(1600年)徳川家康が、関ヶ原の戦いに出陣する祭に奉納下という記録があるそうです。舞いは、二十座ありましたが、現在は、十二座が伝承されています。
富士塚(品川富士)もよく話題になります。明治2年(1869年)から同5年(1872年)にかけて築造されたものです。この富士塚に登ると本物の富士山に登ったのと同じご利益があるとする富士信仰に基ずくものです。毎年7月には、「品川丸嘉講」により山開きの神事が行われています。(由緒書きより)
品川神社に参詣する時に、先ず、驚くのは、境内入口の階段前に、門柱に龍が絡み付いている石鳥居、双龍鳥居と言うそうですが、左柱に、昇り龍、右の柱に,下り龍が彫刻されています。神聖な鳥居に、大きな龍が絡みつく形象は、異様とも見えますが、竜神でもあるのでしょうから有り難味が倍増するのでしょう。この階段を上り高みの境内にとどくと、また一つ、二つと鳥居が立っています。そのまま石畳の参道を伝ってゆくと、目指す神殿に辿り着きます。神殿で礼拝。若いカップルの参拝者が、幾組か見られ、若い人に人気があるようです。これは、品川の変貌と関係がありそうでした。品川は、JRの駅舎もすっかり変わり、モダンで洒落た店が並ぶ構内商店街が出来、新幹線も停車するようになりました。駅の外に出ると、近代的な高層ビルが林立して町の様相がすっかり変わっており、大勢の人出に賑わっています。神社に続く商店街も、明るく清潔な感じのする通りにしていて、楽しめる雰囲気があります。こうした町作りが、神社・寺院が、参詣客を引きつける要因にもなっているようです。