福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

二十四孝(御伽草子)より

2020-08-09 | 諸経
二十四孝(御伽草子)
大舜。隊々として春に耕す象 紛々として草を耘る禽、堯に嗣で寶位に登る 孝感天心を動す。大舜は至つて孝行なる人なり。父の名は瞽叟(こそう)といへり、一段頑(かたくな)にして、母は嚚(かだま)しき人なり。弟はおほいに傲りて、いたづら人なり。然れども大舜はひたすら孝行をいたせり。ある時歴山といふ所に耕作しけるに、かれが孝行を感じて、大象が來つて田をたがへし、又鳥飛び來つて田の草をくさぎり、耕作の助けをなしたるなり。扨其時天下の御あるじをば堯王と名づけ奉る。姫君まします。姉をば娥黄と申し、妹は女英と申し侍り。堯王すなはち舜の孝行なることをきこしめし及ばれ、御娘を后にそなへ、終に天下をゆづり給へり。これひとへに孝行の深き心よりおこれり。

漢 文 帝。仁孝天下に臨む 巍々として百王に冠たり漢廷賢母に事ふ 湯藥必親甞む 。
漢の文帝は漢の高祖の御子なり。いとけなき御名をば恒(ごう)とぞ申し侍りき。母薄太后に孝行なり。よろづの食事を參らせらるゝ時は、まづみづからきこしめし試み給へり。兄弟も數多ましましけれども、此帝ほど仁義を行ひ孝行なるはなかりけり。此故に陳平、周勃などいひける臣下等、王になし參らせたり。それより漢の文帝と申し侍りき。然るに孝行の道は、上一人より下萬民まであるべき事なりと知るといへども、身に行ひ心に思ひ入る事はなり難きを、かたじけなくも四百餘州の天子の御身として、かくの如き御ことわざは、尊かりし御こゝろざしとぞ。さる程に世もゆたかに民も安く住みけるとなり。
・丁 蘭。木を刻で父母と爲す 形容在日新なり 言を寄す諸子姪 聞て早く其親に孝す。
丁蘭は河内の野王といふ所の人なり。十五のとし母におくれ、永くわかれを悲み、母の形を木像につくり、生ける人に事へぬる如くせり。丁蘭が妻ある夜の事なるに、火をもつて木像のおもてを焦したれば、瘡の如くにはれいで、膿血ながれて、二日を過しぬれば、妻の頭(かしら)の髮が刀にて切りたる樣になりて落ちたる程に、驚いて詫言をする間、丁蘭も奇特に思ひ、木像を大道へうつしおき、妻に三年わびことをさせたれば、一夜の内に雨風の音して、木像はみづから内へ歸りたるなり。それよりしてかりそめの事をも、木像のけしきを伺ひたるとなり。かやうに不思議なる事のあるほどに、孝行をなしたるはたぐひすくなき事なるべし。
 孟 宗。泪滴て朔風寒し 蕭々たる竹數竿 須臾春笋出づ 天意平安を報ず
孟宗はいとけなくして父に後れ、ひとりの母を養へり。母年老いて常に病みいたはり食の味ひもたびごとに變りければ、よしなき物を望めり。冬の事なるに竹子をほしく思へり。すなはち孟宗竹林に行き求むれども、雪ふかき折なればなどかたやすく得べき。ひとへに天道の御あはれみを頼み奉るとて、祈をかけて大きに悲み、竹によりそひける所に、俄に大地ひらけて、竹の子あまた生ひ出で侍りける。大に喜び、乃ちとりて歸りあつものにつくり、母に與へ侍りければ、母是を食してそのまゝ病もいえて齡をのべけり。是ひとへに孝行の深き心を感じて、天道より與へ給へり。

 閔 子 騫。閔氏賢郎有り 何ぞ曾て晩娘を怨ず 尊前に母を留て在り 三子風霜を免る
閔子騫(びんしげん)いとけなくして 母を失へり。父また妻をもとめて、二人の子をもてり。彼の妻、我子を深く愛して繼子(まゝこ)を惡み、寒き冬も蘆の穗を取りて、著る物に入れて著せ侍るあひだ、身も冷えて堪へかねたるを見て、父、後の妻を去らんとしければ、閔子騫がいふやうには、彼の妻を去りたらば、三たりの子寒かるべし、今われ一人寒きをこらへたらば、弟の二人はあたゝかなるべしとて、父を諌めたるゆゑに、これを感じて繼母も後には隔てなく慈しみ、もとの母とおなじくなれり。只人のよしあしはみづからの心にありと、古人の言ひ侍りけるも、ことわりとこそ思ひ侍る。
曾 參。母指纔に方に嚙む 兒心痛で禁ぜず 薪を負て歸來晩し 骨肉至情深し
曾參(そうしん)。ある時山中へ薪を取りに行き侍り、母留主にゐたりけるに、したしき友來れり。これをもてなしたく思へども、曾參はうちにあらず、もとより家まどしければ叶はず。曾參が歸れかしとて、みづから指をかめり。曾參山に薪を拾ひゐたるが、俄に胸さわぎしける程に、急ぎ家に歸りたれば、母ありすがたを具に語り侍り、かくの如く指を嚙みたるが、遠きにこたへたるは、一段孝行にして、親子のなさけ深きしるしなり。總じて曾參の事は、人にかはりて心と心のうへの事をいへり。奥深きことわりあるべし。

 王 祥。繼母人間に有り 王祥天下に無し 今に至て河水の上 一片氷摸に臥す。
王祥はいとけなくして母を失へり。父また妻をもとむ、其名を朱氏といひ侍り。繼母の癖なれば、父子の中をあしく言ひなして、惡まし侍れども怨とせずして、繼母にもよく孝行をいたしけり。かやうの人なる程に、本の母冬の極めて寒き折ふし、生魚をほしく思ひける故に、肇府(でうふ)といふ所の河へもとめに行き侍り。されども冬の事なれば、氷とぢていを見えず。すなはち衣をぬぎて裸になり、氷の上にふし、いを無きことを悲み居たれば、かの氷すこしとけて、魚二つをどり出でたり。乃ち取りて歸り、母にあたへ侍り。是ひとへに孝行のゆゑに、その所には毎年人の臥したる形、氷の上にあるとなり。

老 萊 子。戯舞嬌癡を學ぶ 春風綵衣を動す 。雙親口を開て笑ふ 喜色庭闈に滿つ。
老萊子(らうらいし)は二人の親に仕へたる人なり。されば老萊子七十にして、身にいつくしき衣を著て、幼き者の形になり、舞ひ戯れ、又親のために給仕をするとて、わざとけつまづきて轉び、いとけなき者の泣くやうに泣きけり。この心は七十になりければ、年よりて形麗(うるは)しからざるほどに、さこそこの形を親の見給はゞ、わが身の年よりたるを悲しく思ひ給はんことを恐れ、また親の年よりたると思はれざるやうにとの爲に、かやうの擧動をなしたるとなり。
・姜 詩 。舎側に甘泉出づ 一朝雙鯉魚 子能く母に事を知り 婦更に姑に孝あり


姜詩(きやうし)は母に孝行なる人なり。母つねに江の水を飲みたく思ひ、又なまいをの鱠(なます)をほしく思へり。すなはち姜詩妻をして、六七里の道を隔てたる江の水を汲ましめ、又いをの鱠をよくしたゝめて與へ、夫婦共に常によく仕へり。或時姜詩が家の傍に、忽ちに江の如くして水湧きいで、朝ごとに水中に鯉あり、すなはち之をとりて母にあたへ侍り。かやうの不思議(ふしぎ)なる事のありけるは、ひとへに姜詩夫婦の孝行を感じて、天道より與へたまふなるべし。
唐 夫 人 。孝敬崔家の婦 姑に乳して晨に盥梳す  此恩以て報ずる無し 願は子孫かくの如くすることを得ん。
唐夫人は姑長孫夫人年たけ、よろづ食事齒に叶はざれば、つねに乳をふくめ、あるひは朝ごとに髮をけづり、其外よく仕へて、數年養ひ侍り。ある時長孫夫人わづらひつきて、このたびは死せんと思ひ、一門一家を集めていへる事は、わが唐夫人の數年の恩を報ぜずして、今死せん事殘り多し、わが子孫唐夫人の孝義をまねてあるならば、必ず末も繁昌すべしといひ侍り。かやうに姑に孝行なるは古今稀なるとて、人みな之をほめたりと。さればやがて報いて、末繁昌する事きはまりもなくありたるとなり。

 楊 香 。深山白額に逢ふ 努力腥風を轉ず 父子倶に恙無し 身を饞口の中を脱る。 
楊香はひとりの父をもてり。ある時父と共に山中へ行きしに、忽ちあらき虎にあへり。楊香、父の命を失はんことを恐れて、虎を追ひ去らしめんとし侍りけれども叶はざる程に、天の御あはれみを頼み、こひねがはくは我命を虎にあたへ、父を助けて給へと、心ざし深くして祈りければ、さすがに天も哀とおもひ給ひけるにや、今まで猛きかたちにて執りくらはんとせしに、虎俄に尾をすべて逃げ退きければ、父子ともに虎口の難をまぬがれ、つゝがなく家に歸り侍るとなり。これひとへに孝行の心ざし深きゆゑに、かやうの奇特をあらはせるなるべし。

董 永。父を葬に方香を貸る 天姫陌上に迎ふ 絹を織て債主を償ふ 孝感盡く名を知る。
董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖かの錢主の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女なるが、汝が孝を感じて、我を降しておひめを償はせせりとて、天へぞあがりけり。
黄 香。冬月には衾を温めて煖にす 夏天には枕を扇で涼うす 兒童子職を知る 千古一黄香 。
黄香(おうきやう)は安陵といふ所の人なり。九歳の時母におくれ、父に能く仕へて力を盡せり。されば夏の極めて暑き折には、枕や座を扇ひですゞしめて、また冬の至つて寒き時には、衾のつめたきことを悲んで、わが身をもつて暖めて與へたり。かやうに孝行なるとて、太守劉讙といひし人、札をたてて彼が孝行をほめたる程に、それよりして人皆黄香こそ孝行第一の人なりと知りたるとなり。

王 裒。慈母雷を聞くを怕る 氷魂夜臺に宿す 阿香時に一震 墓に到て遶ること千廻。
王裒は營陰といふ所の人なり。父の王義、不慮の事によりて、帝王より法度に行はれ死にけるを恨みて、一期の間その方へは向うて坐せざりしなり。父の墓所にゐて、ひざまづき禮拜して、柏の木に取り付きて泣き悲む程に、涙かゝりて木も枯れたるとなり。母は平生かみなりを恐れたる人なりければ、母むなしくなれる後にも、雷電のしける折には、急ぎ母の墓所へゆき、王裒これにありとて、墓をめぐり、死したる母に力を添へたり。かやうに死して後まで孝行をなしけるを以て、生ける時の孝行まで推しはかられて、有りがたき事どもなり。
 郭 巨。貧乏供給を思ふ 兒を埋て母存を願ふ 黄金天より賜ふ所 光彩寒門を照す。
郭巨は河内といふ所の人なり。家貧しうして母を養へり。妻一の子を生みて三歳になれり。郭巨が老母、彼の孫をいつくしみ、わが食事を分け與へけり。或時、郭巨妻に語る樣は、貧しければ母の食事さへ心に不足と思ひしに、其内を分けて孫に賜はれば乏しかるべし、是偏に我子の有りし故なり、所詮汝と夫婦たらば子二度有るべし、母は二度有るべからず、とかく此子を埋みて母を能く養ひたく思ふなりと夫婦云ひければ、妻もさすがに悲しく思へども、夫の命に違はず、彼の三歳の兒を引きつれて、埋みに行き侍る。則ち郭巨涙を押へて、すこし掘りたれば、黄金の釜を掘り出だせり。其釜に不思議の文字すわれり。其文に曰く、天孝子郭巨に賜ふ、奪ふことを得ず、民取ることを得ず、と云々。此心は天道より郭巨に給ふ程に、餘人取るべからずとなり。則ち其釜をえて喜び、兒をも埋まず、ともに歸り、母にいよいよ孝行をつくせるとなり。
朱 壽 昌。七歳にして離母を生ず 參商五十年  一朝面を相見る 喜氣皇天を動す。
朱壽昌は七歳の時、父その母を去りけり。されば其母をよく知らざりければ、此事を歎き侍れども、つひに逢はざること五十年に及べり。ある時壽昌官人なりといへども、官祿をもすて、妻子をもすてて、秦といふ所へ尋ねに行きけるとて、母に逢はせて給へとて、みづから身より血を出だして、經を書きて天道へ祈りをかけて尋ねたれば、心ざしの深きゆゑに、つひに尋ねあへるとなり。
剡 子。老親鹿乳を思ひ 身に褐毛の衣を掛け 若高聲に語らずは 山中に矢を帶て皈ん。
剡子(せんし)は親のために命を捨てんとしける程の孝行なる人なり。其故は父母老いて共に兩眼を煩ひし程に、眼の藥なるとて鹿の乳を望めり。剡子もとより孝なる者なれば、親の望みをかなへたく思ひ、すなはち鹿の皮を著て、數多むらがりたる鹿の中へまぎれ入り侍れば、獵人これを見て、實の鹿ぞと心得て、弓にて射んとしけり。其時剡子是は實の鹿にはあらず、剡子といふ者なるが、親の望みを叶へたく思ひ、僞りて鹿の形となれりと、聲をあげて言ひければ、獵人驚いて其故を問へば、ありすがたを語る。されば孝行の志深き故に、矢をのがれて返りたり。そもそも人として鹿の乳を求むればとていかでか得さすべき。されども思ひ入りたる孝行の思ひやられてあはれなり。
蔡 順。黑椹親闈に奉ず 飢に啼て涙衣に滿つ 赤眉孝順を知て 牛米君に贈て歸しむ
蔡順は汝南といふ所の人なり。王莽といへる人の時分の末に天下大に亂れ、又飢饉して食事に乏しければ、母のために桑の實を拾ひけるが、熟したると熟せざるとを分けたり。このとき世の亂により、人を殺し剝ぎ取りなどする者ども來つて、蔡順に問ふ樣は、何とて二色に拾ひ分けたるぞと言ひければ、蔡順ひとりの母をもてるが、此熟したるは母にあたへ、いまだ熟せざるは我がためなりと語りければ、心づよき不道の者なれども、かれが孝を感じて、米二斗と牛の足一つ與へて去りけり。その米と牛の腿とを母にあたへ、又みづからも常に食すれども、一期の間盡きずして有りたるとなり。これ孝行のしるしなり。
 庾 黔 婁。縣に到て未旬日 椿庭疾深きに逢ふ、願は身を將て死に代り 北望憂心を啓く。
庾黔婁(ゆきんろう)は南齊の時の人なり。孱陵といふ所の官人になりて、すなはち孱陵縣へ至りけるが、いまだ十日にもならざるに、忽ちに胸さわぎしけるほどに、父の病み給ふかと思ひ、官を捨てて歸りければ、案の如く大に病めり。黔婁、醫師によしあしを問ひければ、醫師病者の糞を嘗めてみるに、甘く苦からばよかるべしと語りければ、黔婁やすき事なりとて、嘗めて見ければ、味よからざりける程に、死せんことを悲み、北斗の星に祈をかけて、身がはりにたゝん事を祈りたるとなり。

呉 猛。夏夜に帷帳無し 蚊多して敢て揮はず 渠膏血を恣して飽く 親闈に入れしむることを免る
呉猛は八歳にして孝ある人なり。家まどしくしてよろづ心に足らざりけり。されば夏になりけれども帷帳もなし。呉猛みづから思へり、わが衣をぬぎて親に著せ、わが身はあらはにして蚊に喰はせたらば、蚊もわが身を喰ひ親を助けんと思ひ、すなはちいつも夜もすがら裸體(はだか)になり、わが身を蚊にくはせて、親の方へ蚊の行かぬやうにして仕へたるとなり。いとけなき者のかやうの孝行は、不思議なりし事共なり。

 張 孝・張 禮。偶綠林の兒に値ひ 烹るに代つて瘦肥を云ふ   人皆兄弟有り 張氏古今稀なり
張孝張禮は兄弟なり。世間飢饉の時に、八十餘の母を養へり。木實を拾ひに行きたれば、一人の民疲れたる者來りて、張禮を殺して喰はんと云へり。張禮云ふ樣は、われ老いたる母をもてり、けふはいまだ食事を參らせざりつる程に、すこしの暇を賜はれ、母に食物を參らせて、やがて參らん、もし此約束をたがへば、家に來りて一族までを殺し給へと云うて歸る。母に食事を進めて、約束の如くに彼の者の所へ至りけり。兄の張孝是を聞きて、又跡より行きて盗人にいふ樣は、我は張禮より肥えたる程に、食するによかるべし、我を殺して張禮を助けよと云へり。又張禮は我はじめよりの約束なりとて、死を爭ひければ、彼の無道なる者も兄弟の孝義を感じて、共に死を免し、かやうの兄弟古今稀なりとて、米二石鹽一駄とあたへたる。是を取りて歸り、いよいよ孝道をなせるとなり。
田 眞・田 廣・田 慶。 海底の紫珊瑚 群芳總て如かず 春風花滿樹 兄弟復居に同じ
此三人は兄弟なり。親におくれてのち、親の財寶を三つに分けて取れるが、庭前に紫荊樹とて、枝葉榮え花も咲き亂れたる木一本あり。これを三つにわけて取るべしとて、終夜三人詮議しけるが、夜の既に明けければ、木を切らんとて、木のもとへ至りければ、昨日まで榮えたる木が俄に枯れたり。田眞之を見て、草木心ありて切りわかたんといへるを聞いて枯れたり、まことに人として、これを辨へざるべしやとて、分たずしておきたれば、又ふたゝびもとの如く榮えたるとなり。
 山 谷。貴顯天下に聞ゆ 平生孝にして親に事ふ 泉を汲で溺器を涓ぐ婢妾豈人無んや
山谷は宋の代の詩人なり、今にいたりて詩人の祖師といはるゝ人なり。あまたつかひ人もあり、又妻も有りといへども、みづから母の大小便の器物をとり扱ひて、汚れたる時は手づからこれを洗ひて母にあたへ、朝夕よく仕へて怠る事なし。さらば一を以て萬を知るなれば、其外の孝行推し量られたるとて、此人の孝義天下にあらはれたるとなり。この山谷のことは餘の人にかはりて、名の高き人なり。

 陸 績。孝悌皆天性 人間六歳の兒 袖中に綠橘を懷して 母に遺て含飴を報ず
陸績六歳の時、袁術といふ人の所へ行き侍り。袁術陸績がために菓子に橘を出だせり。陸績これを三つ取りて、袖に入れて歸るとて、袁術に禮をいたすとて、袂より落せり。袁術これを見て、陸績どのは幼き人に似合はぬことと言ひ侍りければ、あまりに見事なるほどに、家にかへり母にあたへんためなりと申し侍り。袁術これを聞きて、幼き心にてかやうの心づけ古今希なりとほめたるとなり。さてこそ天下の人、かれが孝行なることを知りたりとなり。

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