・「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽えばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救うは利他なり。空しく常楽を願うも得ず、徒に抜苦を計れどもまた難し、必ずまさに福智(注1)兼ねて修し、定慧(注2)並べ行じて、いましよく他の苦を救い、自の楽を取るべし。(御請来目録)」(自他を救うためには、仏教の教理を学び、六波羅蜜特に布施行を実践し、禅定と智慧を磨かなければならない).
自分などはともすれば、利他行は行の中で衆生無辺誓願度を願いさえすればそれでよいと思いがちですが、やはりよくよく御大師様のお言葉を読むと、そんな甘い考えで人を助けることはできないとよくわかります。
注1)『理趣経開題』「もし、善男善女ありて、生死の苦根を断じ、菩提の妙楽にいたらんと欲せば、まず福智の因を積んで、しかるのち無上の果を感致せよ。福智の因というは、妙経を書写し、深義を講思するは、すなわちこれ智慧の因なり。檀等の諸行は、すなわち福徳の因なり。よくこの二善を修し、四恩を抜済し、衆生を利益するときは、自利利他の功徳を具し、速かに一切智智の大覚を証す。これを菩提といい、これを仏陀と称し、または真実報恩者と名づく」
注2)「定慧」とは禅定と智慧のこと。
自分などはともすれば、利他行は行の中で衆生無辺誓願度を願いさえすればそれでよいと思いがちですが、やはりよくよく御大師様のお言葉を読むと、そんな甘い考えで人を助けることはできないとよくわかります。
注1)『理趣経開題』「もし、善男善女ありて、生死の苦根を断じ、菩提の妙楽にいたらんと欲せば、まず福智の因を積んで、しかるのち無上の果を感致せよ。福智の因というは、妙経を書写し、深義を講思するは、すなわちこれ智慧の因なり。檀等の諸行は、すなわち福徳の因なり。よくこの二善を修し、四恩を抜済し、衆生を利益するときは、自利利他の功徳を具し、速かに一切智智の大覚を証す。これを菩提といい、これを仏陀と称し、または真実報恩者と名づく」
注2)「定慧」とは禅定と智慧のこと。