なぜ自分だけ不幸なのか?なぜこんなに世界中が苦しまなければならないのか?なぜこんな目に遭わなければならないのか?なぜ拝んでもお陰がないのか?聖書のヨブ記や史記の「天道是か非か」に代表的されるように古今東西人類は人生の不条理に翻弄されてきました。
最近当方もいろいろ考えることがありました。そして今までは神仏をどうしても自分の外に置いて考えることで迷ってきていたことがわかりました。今回、自他神仏すべて一如である、という当たり前の結論を再度確認してスッキリしました。「自他一如」とはあらゆるところで説かれている教えです。また「衆生本来仏なり」ということもあらゆる経典で説かれています。これを合体すれば「自他神仏一如」となります。
そうすればお陰が出ないからといって神仏を恨むのは自分を恨んでいることになり、ひいては自分のパワーを弱めていることにもなります。反対に神仏を拝んだり、善行は自他神仏一如の力をそれだけ高めていることになりひいては自分のパワーを強くすることになります。悪行はそれだけ自他神仏一如の力を削ぐことになりますから時期が来れば自分がその報いをうけることになるわけです。因果応報・自業自得ということも自他神仏一如とかんがえればわかります。また自然災害などで神をうらんでも神も自他と一如であるとすればそれは共業のしからしむるところであったとわかります。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない『農民芸術概論綱要』」という宮沢賢治の言葉は当然の事を云ったまでということになります。
自他神仏一如の中には当然時空も含まれますから、自分と時空も一如であり人類の無始以来の悪業とも善業とも不可分一如な自他がいることになります。代受苦の菩薩もここから出てきます。
「劫初より造り営む殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」(与謝野晶子)