日々の出来事 6月20日 土方歳三(蝦夷共和国 陸軍奉行)
今日は、新撰組副長、土方歳三が腹部を鉄砲で撃ち抜かれた日です。(1869年6月20日)
1869年6月20日、蝦夷共和国の陸軍奉行であった土方歳三は、政府軍との戦いである函館戦争で、五稜郭の一本木関門において馬上で指揮を執っていたところ、腹部に銃弾を受け戦死しました。
この戦死は、敵の銃弾もしくは流れ弾に当たったと言うのが通説ですが、降伏に頑強に反対する土方に対して、味方からの暗殺とする説もあります。
よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ(享年35歳)
土方歳三です
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市村鉄之助が佐藤彦五郎に届けた坐像の写真。
現物には何故か市村鉄之助の歯型がついているそうだ。
土方歳三の写真
土方歳三の生前の写真が二枚残されている。一枚は、函館戦争終息直前に土方の小姓であった市村鉄之助が土方自身に命じられて、佐藤彦五郎に届けたとされるもので、もう一枚も、同日の撮影と思われるが、刀の鞘に手をかけているもの。撮影時期は、明治2年、死の数日前に函館市内の写真館で撮影したと伝わっているが、異説もあるようだ。さて、佐藤家の「今昔備忘記」には、次のような話が残されている。
1854(明治2)年7月のある日の黄昏時、日野宿の佐藤彦五郎宅の前に、15、6歳くらいの薄汚れた一人の若者が、古手拭を冠り、蓙を蓑代りに着て、家の中を窺うように立っている。胡散臭さいので、家人が追出そうと声をかけると、腰をかがめて台所土間へ這入ってきて、御主人様の御目にかかりたいと低い声でつぶやくように云った。
その物腰がいかにもいわくありげなので、中庭へ廻し、彦五郎が出て会った。若者が、きたない胴締から、取出して示めした写真一枚と小切紙を見て驚いた。その写真は、洋装に小刀を手挟む土方歳三で、小切紙は、半紙の端をニ寸ばかり切ったものだった。
それには、「使の者の身の上頼上候 義豊」と書いてあった。間違いなく土方歳三の直筆だった。詳しい話は後でと、入浴をさせて、衣類を与えて着更えさせ、居間で襖を閉め切って話を聴いた。若者は、ようやく安心したのと、優しく労わられるのとで、今まで張切っていた気も緩み、目には涙を浮かべながら話し出した。
「私は土方隊長の小姓を勤めていました。市村鉄之助と申す者です。去る五月五日、函館五稜郭内の一室で、隊長が私に云われるに「今日はその方に大切なる用事を命ずる。それはこれから、江戸の少し西に当たる、日野宿佐藤彦五郎と云う家へ落ちて行き、これまでの戦況を詳しく申し伝える役目である。
今日函館港に入ったかの外国船が、ニ、三日中に横浜へ出帆すると聞いたので、船長に依頼しておいた。この写真と書付を肌身に付け、乗船して佐藤へ持って行け、なお、金子を二分金で五十両渡す。日暮も近い、時刻もよいからすぐに出立して、舟に乗込みその出帆を待っていろ」と。
私は「それは嫌です。ここで討死の覚悟をきめておりますから、誰かほかの者にその事を御命じ下さい」と云いました。
すると、隊長は大変に御怒りになって「わが命令に従わざれば、今討ち果たすぞ」と、いつも御怒りになる時と同じ恐ろしい権幕、私はそれでは仕方がないと断念して、「では日野へ参ります」と申しました。隊長もにっこり笑みを含まれて、「日野の佐藤は、必ずその方の身の上を面倒みてくれる。途中気を付けて行けよ」と云われました。
案内人に連れられ、城の外へ出て振返りますと、城門の小窓から見送っている人が遠く見えました。隊長であったろうと思います。
特別の手当が船長に行届いていたのでもありましょう。船長は大変親切に、自分の室近くの綺麗な一室へかくまってくれ、出帆を待ちました。
十一日の正午頃、隊長は一本木と云う海岸で、戦死されてしまったと云うことを、この船中で聞きました」と・・・話の声も途絶えがちで、市村を取り囲んで聴いていた佐藤家の人々、ともに涙を流さぬものはなかった。
さて、市村鉄之助は、当時16歳だった。美濃の大垣藩で、兄とともに新選組の最後の募兵に応募し、兄は途中で帰郷したが、鉄之助は、一人土方の側を離れず、才幹もあってよく仕え、土方もひと方ならず愛していたようだ。
市村鉄之助は、佐藤彦五郎家に3年間滞在したと云う。やがて、世間も穏やかになってきたので、彦五郎は、鉄之助が持参した五十両のニ分金を、横浜の銀行で新紙幣に両替してやり、さらに五十円の餞別を与え、明治四年三月、大垣に帰国させたそうだ。
その後、市村鉄之助は、官軍だった西郷隆盛を付け狙って、薩摩軍に潜り込んだが、桐野利秋に見破られたものの、桐野と接するうちに、その人柄に心酔し、桐野の馬丁となってともに西南戦争で散ったとする説がある。しかし、もしそうだするなら、かなり劇的な人生なのだが、大垣に兄と並んで墓石があるから、大垣で若死したと云うのが本当らしい。
徹底抗戦を主張し、五稜郭の地で果てる覚悟の土方歳三は、小姓の若い鉄之助をむざむざと死なせたくはない。鉄之助に落ち延びることを命じ、「命令を聞かなければ討ち果たす」と、あえて脅しつけた。鉄之助が不承不承に承知すると、土方は、内心ホッとしてにっこりと微笑んだ。そして、「日野の佐藤は、必ずお前の面倒をみてくれる。途中気を付けて行けよ」と、鉄之介の行く末を案じながらいたわりの言葉をかけたのだった。
夕暮れ時、鉄之助は城を出て行く。しかし、鉄之助は、もとより土方と離れがたい。土方隊長とこれが今生の別れになるのかと思うと、ぽろぽろと涙が溢れ出てきてとまらない。
名残惜しさの余り振り返ると、涙で曇った目に、小窓に一人佇んで、ひっそりと鉄之介を見送っている土方の姿が遠くに見えた。
「土方隊長!」鉄之助が堪らず大声で叫ぶと、小窓から土方の姿がすっと消えた。鉄之助はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、頬を伝う涙を拳で拭うと、深く一礼し、くるりと前を向いて歩き始めた。
☆今日の壺々話
土方歳三君
相撲
土方歳三は幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたと言う。
今も、その柱は土方歳三資料館にある。
沢庵
奉公をしくじって石田散薬の行商をしている時代、歳三はよく小野路村の橋本家に顔を出していた。
薬の販売もそっちのけで、好物の沢庵を食べるのがその目的だったようで、食事を摂る時は山盛りにして食べ、ある日はなんと漬物樽をそのまま持ち帰ったそうであり、相当橋本家の沢庵が大好物だったようだ。
怪我
実家よりも姉・ノブの婚家・日野の佐藤家が居心地のよかった歳三。
佐藤家には源之助、力之助、漣一郎、彦吉と四人の甥っ子がいた。
文久の頃、よちよち歩きの彦吉が庭で遊んでいて、玄関わきに積んであった切石に前のめりに転んで、額をぶつけてしまった。
玄関の間で昼寝をしていた歳三が火のつくような泣き声を聞きつけてすっ飛んでゆくと彦吉を抱き上げて座敷に上げ、そこは薬の行商でもならしたもので、こまごまと手当てをしてやった。
しかも
「 男子の向こう傷だ、めでたいめでたい。」
と言ったという。
土産
歳三が二度目の帰郷の折、佐藤彦五郎への京土産として佐久間象山の詩書を持参した。彦五郎は以前に近藤勇から貰った頼山陽の詩書とともに家宝とした。
また、土方家には歳三の姪・ヌイがおり、行儀見習の奉公もその後の結婚も、病身のためにかなわず実家に戻されていたが、歳三は「島田髷・櫛・笄・絵草紙」などの京土産を与えて孤独をなぐさめてやったという。
甲州勝沼の戦い争の前に日野佐藤家に立ち寄った時には、拝領の品である母衣をわざわざ持参して姉・ノブに置いていった。
他にも刀剣や鉢金、時には女たちの手紙などまで郷里に贈っており、人にプレゼントを贈っては驚かれたり喜ばせたりするのが好きだったのかもしれない。
歳三君
佐藤彦五郎の長男・源之助(のち俊宣)、つまり歳三の甥だが、やはり父たちを見て育つ環境か、しだいに武芸にも関心がわき、鉄砲の操銃法も修めながら成長した。
慶応の頃、歳三が公用で帰郷し、寸暇をとって日野佐藤家を訪れた頃、
「 源之助の銃はどの位うまくなったかやってみせてみろ。」
と言われ様々に実演した。
歳三はこれを大いに誉め、
「 京へ連れていき新選組隊士に教授させたい。」
と言ったが、姉ノブが猛反対して断念したという。
歳三が江戸へ戻る時には源之助も父とともに歳三を送った。
途中の内藤新宿を通過する前に、大和屋という知人宅で休息をとり、関門の役人には使者を派遣して
「 会津肥後守預りの新選組土方歳三の供だと名乗れ。」
と命じたが、しばらくすると供の二人が戻ってきて、
「 主人も一緒でなければ通さぬと叱り飛ばされた。」
という。
歳三はひどく立腹して大和屋を発ち、それでも含み笑いをして悠々と歩いていった。
いざ関門に着くと、立ったまま
「 拙者は供の申し述べた土方歳三である。」
と大声を上げ、大刀を引っさげ座敷に登っていき上役に直談判し、
「 偽者と思うなら上役殿を宿所まで同伴しよう。」
と言うと、役人どもが震え上がって、
「 そのまま通られよ。」
と手のひらを返して平身低頭になった。
源之助はまるで別人のような叔父の姿にびっくりしていたが、なんなく通過して二、三丁行き過ぎると、歳三は
「 役人の眠気をさましてやったんだ。」
といって大笑いしたという。
また別の帰郷の時には、井上源三郎と立派な黒紋付仙台平袴の武士姿で現れた。
翌日源之助を井上の馬に乗せて自分の馬と二頭の遠駆けに誘い、日野大坂上から新田まで原っぱの道を二往復し、掛け声をあげながら凄い速さで佐藤家の表庭へ乗り込んで帰ってきた。
源之助は振り落とされまいかと危険さに汗びっしょりで顔面蒼白だったが、歳三はふりかえってニコニコ笑っていた。
戦法
天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していないが、「実戦では滅法強かった」と言われている。
斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、縦横無尽に戦闘をしていたという。
また、剣を持った相手に石を投げつけ、ひるんだ隙に自分の羽織を相手の首に巻きつけて、そのまま締め落とし生け捕りにした、との話が残っている。
合理主義者
後の洋装の写真などから、歳三は合理主義者で、
「 便利なものは便利!」
と受け取る柔軟さをもっており、舶来の懐中時計なども持っていたという。
転生
歳三は隊内の気の置けない仲間には、
「 自分は、信長の生まれ変わりだ。」
と言ったことがある。
歳三は陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた、「鬼の副長」と呼ばれ普段は冷酷な人物とされる。
しかし、箱館戦争にまで従った新選組隊士・中島登によれば、箱館戦争当時には、温和で、母のように慕われていたという。
この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったともいわれている。
ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げるための、計算の上であったとする説もある。
パフォーマンス
多摩の郷里には、歳三は餅つきの時には、つく合間に杵を器用にまわしたり、ひょうきんなパフォーマンスを混ぜて皆を笑わせていたという。
風呂
歳三は、佐藤家の甥っ子たちには大変よい「叔父さん」であったようだが、ひとつだけ嫌がられていたこともある。
幼い子供を「風呂に入れて洗ってやって」と誰かしら引き受けるのはよくあることだが、当の子供たちが歳三と一緒に風呂に入るのを嫌がったというのだ。
歳三は「熱湯風呂好き」だったという。子供はただでさえ体温が高いから熱い湯温を嫌うものであろう。
「叔父さんと風呂……」と思った甥たちが逃げ出そうとすると歳三は素早くとっ捕まえて無理矢理風呂桶に突っ込み、あろうことか
「 男子たるもの、このくらいの熱さを怖がるようでは大成しない!」
と、無茶な理由をつけて、強引にその上から蓋までしめてしまったという。
歳三
明治元年、仙台から蝦夷に転戦する際、歳三は隊士達に渡航を強要せず、結果二十三名が残ることになった。
そして歳三は自分の補佐役を務めた、松本捨助と斎藤一諾斎にそれぞれ十両、三十両を渡した。
斎藤は
「 なぜ私の方が多いのですか?」
と金を返そうとした所、歳三は
「 松本には身よりがいるが斎藤にはいない、金額の差はその差だ。」
と言った。
斎藤は涙を流して礼を述べたそうだ。
新撰組の給料
局長 近藤勇・・・50両(1両3万円として150万円)
副長 土方歳三・・・40両(120万円)
助勤沖田、永倉、井上、藤堂・・・30両(90万円)
ベテラン平隊士・・・10両(30万円)
ヒラ隊士 ...3両(12万円)
ただ、1両あれば家族4人一ヶ月暮らせたとか、3両あれば1年1人暮らせたという時代なので、現代とは金銭感覚は10倍くらい違う。
よって、現代人の感覚で言えば新撰組の月給は、近藤月収1500万円、年収1億8千万、土方年収1億4千万強、沖田など年収1億って感じ。
おお、リッチ。
プロ野球のスター選手みたいなもんだな。
歳三君
「 ごそ、ごそ、ごそ。」
「 鬼の副長、何をしているのです?」
「 あっ、見ちゃ、ダメ!」
「 どうしたんです?」
「 見ちゃ、ダメだって!」
「 見せてくださいよ~。」
「 ダメだって!」
「 あっ、恋文だ!」
「 見るな、見るな、こらっ!」
「 こんなにいっぱい、すごいなァ~。
それも、たくさんの女性から!
あっそうか。
自分で返事を書いてるんですね。
恋文も執筆代理してあげるのに・・。」
「 書ききれないので、函館まで持って行こう!」
“ ピュ~ン。”
「 あっ、もう行っちゃった
待って下さいよぉ~!
僕、走ると咳が出るんですよぉ~、ゴホ、ゴホ!」
報国の心ころわするゝ婦人哉
沖田総司は土方歳三と仲が良く、手紙の執筆代理をしたと言う記録があります。
また、土方歳三は、颯爽としたカッコいいモテモテ男で、恋文を多数の女性から貰ったと言う伝承も残っています。
ラブレターコンクール
家に帰ったら、何やらおかんが上機嫌。
なんでも、定年の記念に配偶者にラブレターを書きましょうって言うコンクールに、おとんがいつの間にか応募してたんだと。
最近、やけにおかんをノロケるようになったと思ったら、こんなことまでしてたとは。
手紙を読みながら、「 おとんてロマンチックだね~。」とおかんと話していたら、風呂場から大きなくしゃみが聞こえて来た。
ラブレター
近所の家の息子(高校生くらい)が、毎日変な音楽やらテレビやらを大音量でかけまくって非常にうるさかった。
しかも、夜一時頃でも平気でいきなりジャーン!!とやらかす。
隣近所からも文句が出ていたようだが、一家揃ってドキュ揃いで親も逆ギレする始末。
まっとうな方法じゃ無理だな、と思った俺は仮名でそいつにラブレターを書いた。
「 通学途中で、あなたを見るたびに胸が苦しいですぅ。
昨日、勇気を出してあなたの家まで後をつけちゃいました。
○君の好きなミュージシャンは△△なんですね。
私も大好きです~。
運命かな?
私のことを想ってくれるなら、またメッセージ下さい。
○○君のそばで聞いてます。」
「 手紙読んでくれたんですね、嬉しい!!
毎日、○○君の家まで通ったかいがありました。
□バンドの曲、あれは私へのメッセージですよね!
『お前しかいない』なんて!
うれしくて思わず泣いちゃいましたァ。」
などなど電波娘っぽく。
4通目ほどで、音は劇的に小さくなった。
半年後、また音が大きくなってきたんで、
「 忘れられたと思っていたのに、やっぱり私のこと忘れられないんですね!
あの曲は、別れた恋人を忘れられないあなたの気持ちですね。
あきらめなくて良かった、一生あなたを想い続けますぅ。」
と、さらに壊れかけのラブレターを出したら、それ以降ピッタリと騒音は止んだ。
祖父のラブレター
脳梗塞で入退院を繰り返していた祖父。
私たち家族は以前からの本人の希望通り、医師から余命があとわずかであることを知らされていたが、祖父には告知しないでいた。
「 元気になって、またみんなで楽しく暮らそうね。」
祖父を見舞った際の合い言葉のようでもあった。
祖父の1周忌が過ぎた頃、父が祖母に1通の手紙を手渡した。
祖母の心の落ち着きを待ってのことだった。
衰弱し、震える手で書かれた文字は書道で師範格であった祖父が書いたとは思えない程弱々しかったが、文面から感じられる優しさ、慈しみが祖父のそれであった。
「 おばあちゃん元気
ともに過ごした時間は永いようで短い50年でしたね
また機会があればいっしょに暮らしたいものです 」
祖父が書いた最初で最後のラブレターである。
愛する娘からの手紙
ママとパパへ
大学に入学してから3ヶ月になります。
無精してお便りを差し上げず、大変申し訳ありません。
もう少し前にお二人にお便りを書くべきだったと反省しております。
現在の暮らしについて私が語り始める前に、どうかまずお座り下さい。
必ず座ってからこの手紙を読み始めて下さいね。
いいですか?
今のところ私は元気でやっています。
入学直後に女子寮で火事が起こり、慌てて窓から飛び降りた時に脳震盪を起こし、頭蓋骨にヒビが入りましたが、今はすっかり直りました。
二週間入院を余儀なくされましたが、現在では一日に三度頭痛が起きる程度で、殆ど正常に戻っています。
女子寮で火事が起きて私が窓から飛び降りたことが幸いして、私は女子寮の近所にあるガソリンスタンドの店員と知り合うことが出来ました。
彼が消防署に電話をかけて救急車を呼んでくれたのです。
彼は病院に私を見舞いに来てくれました。
そして女子寮が燃え落ちて住む場所がなくて困っていた私に、親切にも彼のアパートで一緒に住もうと言ってくれました。
彼のアパートはせまい地下の部屋でしたが、それはそれなりに住み易い環境でした。
彼は好青年だったので私達は直ぐに恋に落ちて、結婚を誓い合う仲になりました。
結婚式をいつ挙げるか未定ですが、妊娠したお腹が目立って来る前にしようと考えています。
そうなの、ママとパパ、私って赤ちゃんを身籠もっているのよ!
ママとパパはお婆ちゃんとお爺ちゃんになるの!
お二人が孫の誕生を喜び、私が子供だった時に注いでくれた愛情を、そのまま新しく生まれる孫にも注いでくれることと信じています。
私達の結婚が遅れている理由は、彼がちょっとした病気に感染していたため、結婚前の血液検査がOKとならなかったからです。
私もうかつにも彼からその病気を移されてしまいました。
毎日ペニシリン注射を受けていますので、直にこの病気も完治すると思いますが。
ママとパパは私の彼氏のことを、両手を上げて歓迎してくれると信じています。
学歴はありませんが、とても親切で、上昇志向の人物です。
彼は私達一家とは人種も、宗教も異なりますが、私の両親は彼の皮膚の色が私達より黒いという事実をいちいち気にするようなことはない、と寛大な態度を示してくれることと信じています。
私が彼を愛しているのと同じように、ママもパパも彼を愛してくれると思っています。
彼の育った家庭環境は悪くありません。
彼の父親は出身地のアフリカので、銃を運ぶことを仕事にしている重要人物だからです。
さてこうやって一部始終お話したことで、ママとパパにこれ以上心配をかけることは心苦しいので、本当の事を言います。
女子寮で火事は起こりませんでしたから、私が脳震盪と起こしたり、頭蓋骨にヒビが入ったというのも嘘です。
もちろん入院もしていません。
妊娠したというのも、婚約したというのも、梅毒に感染したというのも嘘です。
ボーイフレンドなんていません。
でも大学の授業で歴史はD、科学はFという成績を取ってしまいましたが、ママもパパもそんなことは大したことではない、と思っていただけるものと信じています。
パパとママを愛する ドロシーより
ラブレター
高校のときの朝、親に言われていつものように、新聞受けに新聞や手紙を取りに行ったら中に俺宛の封筒が入っていた。
白い封筒。ハート形の封止め。
そして綺麗な女性の文字で『○○くんへ』
間違いない、ラブレターだ。
生まれて18年、女の『お』の字も無かった俺についにラブレターが来たんだ。
ドキドキしながら俺は、急いで部屋に入りそれを開けて読んだ。
中にはこう書いていた。
「たかしくんが女の子にモテなくても、お母さんはたかしくんのことが大好きだからね。母」
俺は県外の大学を受験することをこれで決意した。
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