日々の出来事 6月21日 本能寺
今日は、本能寺の変があった日です。(1582年6月21日)
1582年6月21日、京都本能寺に僅かな家臣と共に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により自刃しました。
織田信長
織田信長さん
織田信長は、戦国時代の日本の武将にして、三英傑の1人である。
自ら第六天魔王を称し、神の存在を堂々と否定してみせた。
簡単に言えば中二病患者である。
残虐だけど鷹揚で寛大な面もある快活な人物、という人物評が浸透しているが、実はものっすごい猜疑心が強く、本能寺で謀反を起こされた時、最初は長男の織田信忠が叛逆したと一瞬勘違い。
そのネームバリューゆえか、戦国時代を描いた時代劇や小説では、主人公と何ら接点がないにも関らず登場し、地方のマイナー大名・武将が好きな偏狭な戦国オタク達からは「また信長か」「いい加減かっこいんだけど」と忌避されている。
最重要人物なので登場するのは仕方がないが、その出番の半分以上が「にんげんごじうねん~」と本能寺で占められているのはさすがにどうなのか。
まあ、現実の本人も、祭りの余興に天女のコズプレして踊ってたそうだから、的外れと言い切れない所もあるか。
また、天下人のイメージが浸透しているが、厳密に言えば「天下人になり損ねた男」である。
信長にこの不名誉な称号を与えた明智光秀は、後世、信長アンチの人々からこの一つの功績のみを以って礼賛されている。
信長君
身長、約170cm(当時としては、長身)
血液型、A型
特徴、甲高い声(500m先から声が聞こえる)
ルイス・フロイスによる信長君
1,長身、痩躯で髭は少ない。
2,声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。
3,正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。
4,決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従
うことは殆どない。
5,人々からは異常なほどの畏敬を受けている。
6,酒は飲まない。
7,自分をへりくだることは殆ど無く、自分以外の大名の殆どを軽蔑し
ており、まるで自分の部下のごとく語る。
8,よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは
一切信じない。
9,名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、
死後の世界などありはしないと明言している。
10,その事業は完全かつ功名を極めている。
11,人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う。
政策
・規格や通貨の統一。
・関所をなくして楽市楽座。
・兵農分離して農民を兵隊に借り出さない。
・人が安全に通行できるように道普請(多くの大名が攻め込まれない為に酷い道のままにしておくのが普通)。
・荒れた京の町を復興し、坊主による二重の税金をなくす。
・堺の商人から税金を毟って公共事業。
戦国時代で信長ほど下々の者に良くした大名はないのです。
明智光秀さん
明智光秀は、戦国時代の武将。
通称は十兵衛。
官職は維任日向。
マムシどのに簒奪された美濃国の美濃源氏土岐氏の一門(異説もあるけどね)。
遠祖は土岐光国の子・明智光保である。
先祖のひとりが南北朝時代に後醍醐天皇の道楽の犠牲者となった明智国益である。
子は光慶、女婿は明智秀満。
若い頃に、惣領家の土岐頼芸が斎藤道三に追われ、土岐一門は四散した。
光秀自身も会津まで放浪したものである(そこで、同族で養子に迎えた幼い舟木秀光と邂逅した)。
後に足利義昭に細川藤孝とともに仕えた。
義昭の兄・足利義輝が松永弾正・三好長慶らによって暗殺されると、藤孝とともに義昭を奉じて越前国の朝倉義景を頼る。
だが、義景は優柔不断で上杉謙信の侵攻に悩んでいたために、光秀らはだらしがない義景に見切りをつけて織田信長を頼った。
信長は、自分の嫁の親族ということもあってか光秀をいたく気に入り、明らかに藤孝より家柄の低い光秀を重用し、超重要地域である近畿北部を任せるほどに寵愛した。
こうして信長と光秀は相思相愛の関係になったのであるが、気変わりしやすい信長がとある一匹の猿にあらん限りの愛情を注ぎ始めると、光秀は日増しに情緒不安定になっていった。
この頃から当項目と同様に二人の関係は一気に雲行きが怪しくなっていく。
しかし信長は光秀への愛をスッパリ断ち切ったわけでは無く、むしろ光秀⇒ツンデレ、猿⇒デレデレという姿勢を鮮明に打ち出していったのだが、既に統合失調症寸前の状態に陥っていた光秀には文字通り逆効果。
もはや光秀の中の主君への愛は激しい憎悪へと昇華し、ついには丸腰同然の状態で熟睡していた信長を勢いのみで自殺に追い込んでしまう(本能寺の変)。
事が全て終わった後、光秀はハタと我に帰って狼狽し、藤孝らに助けを求めるが、光秀に対して激しいジェラシーを抱いていた藤孝にシカトされてしまう。
そうこうしているうちに関西から雲に乗って飛んで来た猿にコテンパンに打ち負かされ、最期は「鬼畜米英!!」と絶叫しながら竹槍の訓練をしていた愚民どもに誤って刺し殺されてしまった・・・と伝えられている。
一説には天海になったと伝えられている。
☆今日の壺々話
信長と貧者
織田信長があるとき、自分と同じ年、月、日の生まれの人間を探させました。
すると、一人の男が見つかり、御前に引っ張り出されました。
そいつは、ボロボロの大変貧しい男でした。
信長はその男を見て、不思議そうに尋ねました。
「 わしとお前は全く同じ時に生まれたのに、わしはいまや天下をつかみ、お前は貧困に苦しんでおる。
どうしてこれだけの違いが出来るのか?」
貧者は言いました。
「 いいえ、そんなに違いません。」
「 なんだと?」
「 たった1日の違いがあるだけです。」
「 1日?」
貧者は言いました。
「 はい、あなた様が富貴であり、私が貧困に苦しんだ昨日までは、既に過去の事。
私と信長様に、差があるのは、今日一日の事でしかありません。
そして信長様、あなたも、明日はどうなるか、誰にもわかりません。」
信長は一瞬苦い顔をしましたが思い直し、その貧者に褒美を与え返しました。
光秀君
「 どうしようかなァ~。
あいつ、腹立つなァ~。
酒が飲めないのに、のめのめって絡まれて、おまけに金柑頭って言われたし・・。
武田攻めのとき、バカにされて、小姓の蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいたし・・。
折角作った家康接待用の料理を“腐っている”なんてイチャモン付けやがって・・。
ああ、どうしようかなァ~。
今しか、天下をとるチャンスは無いしなァ~
どうしようかなァ~。
長年仕えていた佐久間や林と同じように、結果が出なかったら追放されそうだし・・。
秀吉も不安で、“そのうち一緒にやっちゃおうか”なんて冗談言ってたよな。
それに、家康からも“やっちゃえ”って、小さな声で言われているし。
ああ、どうしようかなァ~。
やっちゃったら、足利義昭ちゃんも将軍に復帰させられるしなァ。
今回の中国攻めも、取った分だけ領地にしてもいいって言っておきながら、今の領地は召し上げなんて・・。
くそっ!
やっぱり、腹が立つ!!
あのバカ!!!
そうだ、ちょっと、くじを引いて見よう。
一回目、あれっ・・・。
二回目、あれっ・・・。
三回目、あれっ・・・。
えいっ、もう、面倒だ、やっちゃえ!!」
時は今 雨が下しる 五月哉
本能寺の恋
友人に借りた日本史のノートによると、 織田信長は「本能寺の恋」で明智光秀に破れ、自決したらしい。
つまり信長は本能寺で光秀に告白して玉砕。
そして火を放って自決したってことか。
そうか、自決するほど本気だったんだな。
熱愛だな。
本能寺が変
「 本能寺が変!」
そのとき京都・本能寺に宿泊していた信長がそう言った。
見るとなんだか傾いているようないないような。
調査を命じられた明智光秀は、その原因がシロアリ被害によることをつきとめた。
「 敵は本能寺のアリ!」
光秀はそう言うとさっそく駆除に取りかかった。
当時、シロアリ駆除の薬なんて便利なものはないもんだから、被害にあった柱を片っ端から松明であぶってシロアリを追い出すという地道な作業を行った。
ところが、そのうち柱に火がついて燃えだしてしまった。
「 やべっ、信長様ぁ~!」
本能寺は信長ごと燃えてしまった。
事情を知らない豊臣秀吉が信長様の仇と明智光秀を討ち、天下を取るきっかけとなったのは言うまでもない。
本能寺
今、本能寺にいるんです。本能寺。
そしたらなんか寺がめちゃくちゃ燃えててで出られないんです。
で、よく見たらなんか明智軍がいて、敵は本能寺にあり、とか叫んでるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、明智の扇動如きで普段起こさない謀反起こしてんじゃねーよ、ボケが。
明智だよ、明智。
なんか親子の足軽とかもいるし。
お家挙げての底辺からのサクセスストーリーか。
おめでてーな。
よーしパパ信長の首とっちゃうぞー、とか言ってるの。
もう見てらんない。
お前らな、武家の称号やるからその道空けろと。
天下ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
畑を挟んだの向かいに家の奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
平和主義者は、すっこんでろ。
で、やっと出られたかと思ったら、前の奴が、お命頂戴、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、お命頂戴なんてきょうび流行んねーんだよ。
ボケが。
得意げな顔して何が、お命頂戴、だ。
お前は本当にお命を頂戴したいのかと問いたい。
問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、お命頂戴って言いたいだけちゃうんかと。
美濃のおおうつけの俺から言わせてもらえば今、武士の間での最新流行はやっぱり、奇襲、これだね。
奇襲で大勝利。
これが通の生き方。
奇襲ってのはタイミングがものを言う。
そん代わり被害が少なめ。
これ。
で、それに天下布武。
これ最強。
しかしこれをすると次から家臣にもマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、正々堂々一対一で来てくださいってこった。
日本史なんでもランキング
ニッカンスポーツコムで実施した「日本史なんでもランキング」のアンケートには計1370票が寄せられ、169票を獲得した信長が1位となった。2位は、わずかの差で真田幸村。幸村は父昌幸ら一族を合わせると信長を上回る票を獲得。最近の幸村人気を証明する結果となった。
1位 織田信長(169票)
1560年、桶狭間の戦いで今川義元の大軍を破り、世に名前をとどろかせる。豊臣秀吉らを家臣に従え天下統一を実現。1582年、京都・本能寺で家臣の明智光秀の軍に囲まれ、自刃した。
2位 真田幸村(153票)
関ケ原の戦いでは父昌幸とともに上田城で徳川秀忠の大軍を足止め。秀忠は関ケ原に間に合わなかった。大坂夏の陣では徳川家康を追い詰めるなど奮戦するが敗北。幸村は力尽きたところを討ち取られた。享年49。
3位 伊達政宗(149票)
1589年、会津の蘆名氏を倒して奥州制覇。しかし当時最強の秀吉には臣従。謀反の疑いをかけられ十字架を背負い出頭したことも。朝鮮出兵で秀吉好みの派手な軍装をしたことが「伊達者」の語源といわれる。
4位 上杉謙信(136票)
天才的な軍事手腕で「越後の虎」と呼ばれた。宿敵武田信玄とは川中島で5度戦い、決着が付かなかった1577年の手取川の戦いでは織田信長軍を撃破。上洛を前にして病死。生涯独身を通した。
5位 武田信玄(120票)
「風林火山」の旗をなびかせた騎馬軍団は「最強」ともいわれた。1572年、大軍を率い京へ進軍開始。三方ケ原では徳川家康軍を一蹴(いっしゅう)するが、途上で病死。「天下」の夢はかなわなかった。
信長Japan
FW 柴田勝家 FW 滝川一益
MF 丹羽長秀 MF 池田恒興
MF 佐久間信盛 MF 前田利家
MF 羽柴秀吉
DF 荒木村重 DF 三好義継
DF 松永久秀
GK明智光秀
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