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日々の出来事 5月16日 奥の細道

2018-05-16 10:37:16 | A,日々の出来事_







  日々の出来事 5月16日 奥の細道







 今日は、松尾芭蕉が弟子の河合曾良とともに“奥の細道”の旅に出発した日です。(1689年5月16日)
 松尾芭蕉は1644年に三重県伊賀市で生まれました。
幼名は金作、俳号としては宗房、次いで芭蕉(はせを)と改めました。
蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれました。
 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り、岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』があります。
また、伊賀市出身から、忍者説が根強くあります。



  松尾芭蕉略歴

 1644年、伊賀国上野(現.三重県上野市)の地侍クラスの農民の子供として誕生したと言われている。
本名は松尾忠右衛門宗房で、津藩の侍大将である藤堂良精に仕えた。
 俳諧は10代後半より北村季吟の元で勉強を始めたが、23歳の時に季吟の急死を機会に独立し、1672年に始めての俳集「貝おほひ」を編んだ。
 31歳の頃、俳諧師として名前を起こすために江戸に下り、翌年の1676年、談林派の総師宗因に才能を認められ、同派の江戸宗匠になり名前が知られることになる。
 しかし、1684年頃、それまでの俳句をうち破るために新たに蕉風俳諧をうち立て、俳諧を和歌と対等な地位にまで引き上げることに成功した。
旅を好み「野ざらし紀行」「奥の細道」などの紀行文を残している。
その後、九州へ向かう途中、1694年10月12日、大阪で客死した。












          奥の細道






















☆今日の壺々話















奥の細道








「 先生、退屈ですね、吉原にでも繰り出しましょうか。」
「 曾良ちゃん、今日、5月16日は何の日か知ってるかい?」
「 知りませんが・・・。」
「 今日はね、性交禁忌の日なんだよ。」
「 そんな日があったのですか?」
「 “艶話枕筥”(つやばなしまくらばこ)という本に書いてあるよ。」
「 どう書いてあるんです?」
「 五月十六日房内禁事、犯すときは三年を出ずして死す。
つまり、禁を破ると三年以内に死んじゃうよ。」
「 げげっ、それは大変だ。
でも、どうしてなんですか?」
「 平安時代の医学書“医心方”に由来しているらしいんだけど、よく分からないね。」
「 そうなんですか・・・・。」
「 ・・・・・・・・・・・・・・。」
「 ・・・・・・、退屈ですねぇ~。」
「 ・・そうだな、退屈だなァ~。」
「 ・・・・・・・・・・・・・・。」
「 ・・・・・・・・・・・・・・。」
「 ・・もう、することがないですねぇ~。」
「 ・・そうだなァ~。」
「 ・・・・・・・・・・・・・・。」
「 ・・・・・・・・・・、よし!」
「 どうしたんですか、急に?」
「 一緒に、旅に出よう!」
「 えっ、今からですか?」
「 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」
「 あっ!」
「 ぴゅ~っ。」
「 もう、行っちゃった。
待って下さいよぉ~!」

伊賀国に生まれた忍者松尾芭蕉は、エイトマンのように江戸深川の芭蕉庵を出立しました。

  行く春や鳥啼魚の目は泪


 江戸時代では、今日は性交禁忌の日でした。
“禁を破ると三年を待たずに死んでしまう”とまで言われた恐ろしい日です。
それでは、ここで、アントニオ猪木風に!
「 元気ですかあ~~~~~~っ!!!」


























  吉野家への道







 さても聞こしめせよ。
刷れとかかはりなきことなれど。
きのふ近うある吉野家に行きたるに、なでふこともなう人のおほくあれば、えもゐられず。
よう見るに、垂れ幕の下がりてあり、百五十円引きとなむ書きたる。
あなや、をこかな、しれ者かなと。
わぬしら、よき人は百五十円引きばかりにてひごろ来も来ぬ吉野家になどか来たらむ。
百五十円よや、よや。
 親子連れあり。
一族郎等ひきつれて吉野家に来たる、いとむくつけし。
あまつさへ、てて様は特盛頼まうわいの、など言ふ様こそ、かたはらいたけれ。
百五十円給ぶに往ねよかし。
さるは、吉野家てふ所、げに殺伐たらむこそつきづきしけれ。
ひの字めく餉台のあなたざまに居たるをのこどもの、いさかひいつ始まらむともしらず、かたみに刺すや刺さるるやと案ぜらるるけしきのいとをかしかるべきを、をんな子らはいぬべし。
 かかるうちに、やうやうゐらるるかと思ひしに、傍らなるしづ山がつの、大盛露だくを、とかや言ふを聞くに、さらにこそぶち切れたれ。
いで、露だくなるはこのごろにてはつゆ流行らざるを、げにをこざまなるかな。
したり顔して何のつゆだくをや。
さはまことに露だく食はまほしきものかと問はばや。
 問ひ詰めばや。
半刻ばかりぞ問ひ詰めばや。
むげに露だくと言はまほしきのみにやあらむ。
 吉野家知りたるまろに言はすれば、月ごろ吉野家知りたる人の間につとに流行らむは、なほ葱だくにこそあらめ。
大盛り葱だくかりのこ、これなむ才ある人の頼み方なる。
葱だくてふは、葱の多く入りたるに、肉の少なめなる。
これこそ。
 また大盛りかりのこは、いふもおろかなり。
さるに、こを頼めば次より雇ひ人に目つけらるるは必定ななれば、危ふき諸刃の剣にて、つたなき人にはえ薦めぬわざにこそあんなれ。
とまれかうまれ、わぬしらつたなき人は牛鮭定食などやうをば食へかし、とこそ。

























   数学と奥の細道







質問

「数学が好き」という人は、どうして好きなのですか?




コメント

 えっと、数学好きな人がちょっと、ここ通りますよ。
最近読んだ本にこのような記述がありました。
数学者岡潔が、イギリス留学から帰ってきて助手にこう言いました。

「 今、自分の研究している分野の未解決問題を私が解くためには、松尾芭蕉の奥の細道を熟読しなければならない。」

 彼はその後、奥の細道を熟読し、彼の分野の未解決の問題をほんとにどんどん解き明かして行きました。
「奥の細道」と数学では、全く結びつかないように思えます。
しかし、筆者はこう続けます。

「 日本人は春になり、小鳥のさえずりを聞くと春が来たなぁと感じ、立ち止まってしみじみ思いふける感性をもっています。
外人に、小鳥のさえずりが聞こえるね、って言うと “so,what?” 、だから何?ってなるそうです。
小鳥がさえずるだけでストーリー性がないから。
 日本人には、外人さんの感ずることのできないことを感じる、それこそ”いとおかし”の世界を持っている。
それを大切にしなきゃ。
それと一緒で、数学ってちょっとした数式とかほんとに些細なことに感性を動かすこと。
だからその数学者は奥の細道を読んだだろう。
感性を磨くために。」

 これ読んでて、数学好きでよかったなぁって思いました。
同時に日本人でよかったなぁって 笑 (今、アメリカにいるんで余計)。
 数学ってよく計算が面倒だったり、一問解くのにすごい時間かかるし、大学の数学やって難しすぎて、ちんぷんかんぷんで気持ち悪くなるし…、いろいろやっかいです。
自分でも嫌いなのか好きなのか ??ですけど、この本読んで、“自分の中に きれいな数式を きれいだなぁって思える 感性があるんだなぁ、数学好きか嫌いかよくわからんけど、その感性は自分の中で大切にしておこう”って考えました。



 岡潔は、奥の細道を熟読しただけでなく、実際に芭蕉の歩いた「奥の細道」を自分で歩いて、問題を考えました。
当時、世界で数学者を悩ました難問3問のうち、2問を一人で解いた岡潔は偉いです。
難問が解けたのを知った世界の数学者たちは、“岡潔”を“ブルバキ”のような数学者集団と勘違いしました。
それは、その問題が、一人の人間の力で解けるなんて誰も考えなかったからです。


























  松尾芭蕉、フグを拒む







 松尾芭蕉は、最初フグが食べれなかったそうです。
フグは猛毒を持っていて、当たれば死んでしまう恐れがあることは広く知られていました。
 当時、油断を許されない武士は、フグ毒に当たるなど不名誉極まりなし、ということで、どの藩も藩士がフグを食べることを禁止していました。

 松尾芭蕉も伊賀藩の藩士であったことからフグを避け続けてきました。
弟子や近所の人に誘われても、

     ふく汁や 鯛もあるのに 無分別

と、鍋で盛り上がる人たちの後ろで見物しているような具合でした。
 さらに、

     ふく汁や あほうになりと なればなれ

と、冷ややかに批判していました。
 ところが、ある時、あまりに周囲が勧めるのに断りきれず、また、その美味しそうな雰囲気に抗いきれず、ふぐの鍋を食べてしまいます。
芭蕉は、絶品の味に感動しつつも、

     あら何ともなや きのふは過て ふくと汁

と、先に、毒に当たらなかったことへの安堵感がもれたようです。


























     河豚食用禁止令について







 豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に下関から海を渡って行きました。
そのとき、兵士が下関で獲れたふぐを内蔵ごと食べまくったせいで、集団による食中毒死者を大量に出してしまいました。
 烈火の如く怒った秀吉により出されたのが「河豚食用禁止令」であり、日本最初のふぐ食用取り締まり令だと言われています。
 江戸期になるとあちこちの藩で禁令が出されるようになり、黒田藩や長州藩では河豚を食べ中毒死した場合はお家断絶と、武士にとって最高の厳罰が設けられた。
 しかし「河豚は食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれる河豚の味。
江戸時代の俳人・一茶や芭蕉も河豚をよんだ句がいくつかあり、そのうまさに魅かれて、さかんに河豚を食べている。
禁令をくぐって広く食用され、落語のネタや浮世絵の画材にされるなど愛されていた。
明治になってからも「河豚を食う物は拘留科料に処する」という禁令があった。

 明治21、22年の頃、すでに伯爵になっていた伊藤博文が下関の料亭「春帆桜」(明治28年日清講和条約の舞台)を訪問した際に、あいにくその日はしけで魚がない、女将がその旨を申し上げると

「 俺はよいが馬関(下関)に来て、魚がないとは…。」

とやんわりと皮肉った。
女傑として名高い女将が、それではと意を決して禁令の河豚を出したところ、

「 一身よく百味も相をととのえ。」

と絶賛し、

「 調理法さえ間違えなければ、こんなに美味いものを禁じるのは勿体ないことだ。」

 早速、時の山口県令・原保太郎に命じ、「違警罪即決例」のふぐの条項を削除させるように働きかけたのが「ふぐ解禁令」である。
全国で最初にふぐ食が解禁されたのが山口県であったということも、下関でふぐが盛んになっていった要因の一つであると言えよう。
 しかし河豚食が解禁されたのは山口県だけで、合法的に全国で河豚を食すには、戦後を待たねばならなかった。
東京都は、明治25年、兵庫県は大正7年、大阪府は昭和16年に解禁。
河豚といえば山口といわれるようになったのは、このような事情からと推察される。

 一方少し送れて昭和後期、下関に立ち寄った昭和天皇は、万が一を警戒した近習によって河豚を食べさせてもらえなかった。
しょんぼりと膳(河豚抜き)のものをつつく昭和天皇をよそに、同行の政治家や役人は河豚の美味をかみ締めていた。
 昭和天皇、そんな一同を見渡して曰く、

「 河豚には、毒があるのだぞ…。」

 滅多に我侭を言わず、美食家ではあったが食事への不満を言わぬことで有名であった昭和天皇ですら、負け惜しみを言ってしまうほどに世の人を魅了した魅惑の食材なのでした。


















    松尾芭蕉食中毒








 松尾芭蕉は、1694年に大阪に旅した時に突然発病して10月12日に亡くなっています。
その最期には大阪の弟子たちが多数立ち会っていた為に、事細かな様子が記録として残されています。
 その文献を後世の研究家が調べたところアルカロイド系の毒を持った、紅天狗茸を食べての中毒死なのではないかと言う説が出ました。
しかし紅天狗茸と言うのは、毒々しい色をしているので、旅慣れた芭蕉が間違って食べるような物では無い物なので、この説は立ち消えになってしまいました。
 そこに登場してきたのが芭蕉トリカブト殺人事件説です。
トリカブトを摂取すると、記録に残されているようなアルカロイド系の毒を摂取したのと同様な最期になると言うのです。
 しかし、芭蕉がなぜ殺されなければいけなかったのかという疑問なのですが、これも昔から言われ続けている芭蕉忍者説が絡んでいます。
 芭蕉は忍者の里として知られる伊賀上野の出身で、奥の細道を始めとして全国を行脚し続けたのは俳人という立場を利用して各藩の様子を調べていたと言う説を支持する人もいます。
その為に、そんな芭蕉を付けねらう刺客の手によってトリカブトを盛られたと言う説が出てきました。
 実際の所はまったく不明ですが、一般的には“大阪で開催された句会の際、食中毒になった”と言うことのようです。
まあ、大阪ですから弟子に隠れて密かに食べた河豚中毒かも知れませんね。









   辞世の句



    旅に病んで 夢は枯野を 駆けめぐる


















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