大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

☆奇妙な恐怖小説群
☆ghanayama童話
☆写真絵画鑑賞
☆日々の出来事
☆不条理日記

大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

☆分野を選択して、カテゴリーに入って下さい。

A,日々の出来事

☆( 1年間366日分の日々の出来事  )

B,日々の恐怖

☆( 日々の恐怖 )

C,奇妙小説

☆(  しづめばこ P574 )                          

日々の出来事 10月25日 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

2018-10-25 07:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 10月25日 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ






 1881年10月25日、一人の芸術家が生まれました。

「 旦那様、大変です!」
「 どうしたの、産婆さん?」
「 生まれてきた赤ちゃんが息をしていません!」
「 ええっ、それは大変だ!」
「 お湯で体を温めても、背中を叩いても息をしないんです!」
「 ああ、神よ・・・。
 えっ・・・・!
 サルバドール叔父さん、何をするんですか?」
「 もう、破れかぶれだ!」

“ フウ~ッ!!”

「 叔父さん、葉巻の煙を赤ちゃん鼻の穴に吹き込むなんて!」

“ オギャ~、オギャ~!!”

「 あらっ?」
「 すごいわ、赤ちゃんが泣き出した!」
「 おお、奇跡だ、奇跡だ!」
「 じゃ、赤ちゃんに名前を付けるぞ!」
「 ちょっと、待った!」
「 え、どうしたの?」
「 これは、大変有り難い奇跡だから、親戚みんなに知らせて、良い名前
 を付けることにしよう!」
「 そうだな。
 ま、急ぐことも無いか・・・。」

数日後、親戚がやって来ました。

「 あの~、親戚みんな、この奇跡にあやかりたいって、自分の名前を入
 れちゃって・・・。」

“ パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
(Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz Picasso)”

「 なんだか、落語の“寿限無”みたいな名前だな・・。
 有り難いから、ま、いいか!」

でも、この赤ちゃんは成長しても、この名前に無関心で、単に“パブロ・ピカソ”と名乗りました。
 ピカソは、算数が大嫌いで、アルファベットも覚えることでさえ嫌がるほどでしたが、幼い頃から父親に写実画を教えられたことから美術の道に進むことを考え、16歳の若さでマドリードの美術学校の入学試験に合格します。
 しかし、その後、ピカソは宮廷画家に魅力を感じられず美術学校を中退、1902年パリに移住してからは、“青の時代”“バラ色の時代”“アフリカ彫刻の時代”“分析的キュビスムの時代”“新古典主義の時代”へと作風を変えながら、20世紀の多くの画家に影響を与えました。
また、絵画ばかりでなく彫刻、陶器、版画等に数え切れないほどの多くの作品を残し、最も多作な画家であるとギネスブックに記されています。







  泣く女
















☆今日の壺々話










ピカソの七つの提言




1. 必ずできると信じろ

「思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ。」


2. 限界を超えろ

「私はいつも自分の出来ないことをする。どうやればいいのかわかるからだ。」


3. 「その時」を待つな

「インスピレーションは常に存在する。見つけに行くんだ。」


4. 動け

「明日に引き伸ばせば、それは死んでしまう。」
「行動がすべての成功の鍵だ。」


5. 正しく問え

「他の人間はなぜそうなったかを問う。私はいつも何ができるのか、なぜできないのかを問う。」


6. ジャッジせず、隠された美を見ろ

「我々は脳をブン投げて、ただ目だけで見ることができればいいのだが。」


7. 遅すぎるなんてことはない。

「若さと年齢は無関係。」


















       泥棒




 パブロ・ピカソの家に泥棒が入り、捜査のために警察がやって来ました。

「 う~ん、いろいろ盗まれたんですね。」
「 そうです、もう、大変なんですから!」
「 で、犯人を目撃したと聞いてるんですが。」
「 ええ、もう、似顔絵が描いてあるんですよ。」
「 さすが絵描きだ。
 どれどれ・・、うん、心当たりがあるぞ!
 急げ、それっ!」

 警官は、犯人を捕らえるため家から飛び出して行きました。
そして、一時間後、ピカソの家の玄関のチャイムが鳴りました。
ピカソが玄関を開けると、そこには警官が立っていました。

「 ピカソさん、喜んでください。
 犯人を逮捕しました!」

その警官の手には、ホウキと欠けた西洋皿、そして三角定規が握られていました。
















ピカソの絵 破損


ピカソの絵に接触し破損 NYの美術館で女性客(2010/01/25 14:57)

 ニューヨークのメトロポリタン美術館は24日、同館に展示してあるピカソの絵画「役者」(1904年~05年)に女性客が誤って接触し、一部が破損したと発表した。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)などが報じた。
 発表によると、女性はピカソ作品が展示されている同館2階のコーナーで開かれた成人講座に出席中、バランスを失って絵に倒れかかり、右下部分を長さ約15センチにわたって破いた。女性の氏名は明らかにされていないが、けがはなかった。


ピカソの絵(本物)を鑑賞中のバカ女 バランスを崩して倒れ、絵を引っつかむ → ビリビリバリ~

この女どこのダリだ?

故意かモネ

しばらくこの絵はミレーないな

マジかよ、大ヴィンチだな

まったく何シャガールんだ

写楽せい!

「おまえノワルふざけにはもう飽き飽きだ」
「なら死んでもらおう」

ゴーギャンかせんと、イカン!

たった15センチだろ?ちっせぇな、ムンク言うなよ

値打ちがシャガールな

上手いなあ

おまえら全員笑点でろでろww

なにこの誰うまオンパレードwww

ウンパルンパだな。

















ラッセン



「 駅ビル内をふら~っと歩いてたら、“お客様、お客様!”と宝石店のカウンターから、大人びた女性店員が俺を呼んでいた。
時間もあったことだし、カウンターまで近寄ってみた。
 カウンター内の店員が、俺に婚約指輪を今からローンを組んでおけば、いずれ婚約した時に楽ですよと話しかけてきた。
そして、若い女性店員が俺の隣に腰掛け、否定する俺に巧妙に相槌を打ったり、時にはカウンター店員の話を煽ったりして、婚約指輪のローンを組ませようとしていた。
俺は端からそんな話では契約する気もサラサラなく、1時間以上話を聞いたが断ってビルを出た。
 それから何年かしたら宝石店が潰れたというニュースが出て、ホラ見ろと思ったよ。
テレビで話題になっている、怪しげな壺なんて買うヤツの気が知れないね。
ホント、馬鹿かと。
 そんな俺も、画廊の販売員の彼女が出来たんだけど、まだ手も握ってない。
今、俺の部屋には彼女が好きだと言うラッセンの絵が3枚飾ってある。」
「 ふ~~ん、じゃ、俺の話も聞いてくれよ。
昨日、人生初めて逆ナンされた。
 彼女は俺が太ってる事なんか、全然気にしないって言ってくれた。
なんか、すごく優しくて可愛くていい子だった。
絵を売る仕事をしているらしく、男気を見せるために思い切ってラッセンの絵を買った。
今飾ってるけど、マジでかっこいい。
47万円の価値は十分にあると思う。」
「 俺だってラッセン持ってるぞ。
俺たち、仲間だな、仲良くしようぜ!
彼女の職業も一緒だし!
 あ、遅れていたヤツが、ようやく来た。
おせ~よ!」
「 ホント、オマエ、おせ~よ。
何、やってたんだよ!」
「 あ、悪い、悪い、ちょっと絵を買っていたから・・・。」


















美術史




宗教画の時代
 ↓
もっと人間社会のありのままを描きたい!
 ⇒ルネサンス(遠近法の発明)
 ↓
以降、写実性重視の時代がずっと続く
 ↓
19世紀ころ、写真の発明により画家達の生命ピンチ
 ↓
そんななか、日本の浮世絵に感銘を受けた一団
「3次元を2次元に忠実に写し取るより、
もっと感じるままに描いたらいいんじゃね?」
 ⇒印象派、ポスト印象派の登場

 ↓(ここから様々分岐、発展)

・「つか、色とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
 ⇒フォービズム
 
・「形とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
 ⇒キュビズムの登場・・・ピカソはたぶんこのへん

・「現実にあるものを描かなくてもいいんじゃね?」
 ⇒シュールレアリズムの登場

・「つか、もうどうでもいいんじゃね?」
 ⇒抽象絵画、ドリップアートとかいろいろ登場




















シンジュクハイツ






 私が以前住んでいた、その旧いアパート。
シンジュクハイツといいます。
戦後、復興期に建てられた建物が、それまで都市開発を生き延びたのはまさに奇跡と言えるでしょう。
木と煉瓦とコンクリートとモルタルで形造られたアパートは、格好つければ古き良き、ありていに言うと只のボロアパート。

 隣のおばあさんは、夕暮れ時には魚を焼くこうばしい臭いや、煮込まれたカレーの香り、ほくほくのご飯が沸きたてるあったかい空気を、毎日日替わりで私の部屋まで漂わせます。
私の懐が寒くて、晩飯抜きを決め込んで、それでも部屋で安いウイスキーを煽っている時に限って、独り暮らしでつい作りすぎちゃって…と、お裾分けを持ってドアを叩いてくれます。
私はいつも有難く頂くのですが、おばあさんの手料理を食うと、とっくに忘れた筈の、故郷の母親を思い出だしてしまうので、私にとっては痛し痒しではありました。

 向かいの部屋の50がらみのおっさんは、20世紀のピカソを自称する芸術家です。
私が暇な時…そうでない時の方が非常に珍しかったのですが…暇な時に限って、私のドアを叩く。
そうして、彼の部屋に呼ばれては、真っ暗な背景に赤いドレスを着た女が描かれている絵に囲まれて、安いウイスキーで、グラスを干しあいました。
 20世紀のピカソが描くのは、何故かどれもこれも同じく、真っ暗な中にぼんやりと赤いドレスの女が浮かび上がる、下手糞な絵ばかりです。
これは、ピカソと言うより、ドガだな。
と、私は思ったものですが、自ら、俺は20世紀のピカソだと言い張るおっさんにはそんな事も言い出しかね、おまけに、ピカソは20世紀の人間だ、しかもまだ生きてるしと、そんな当たり前の事も知らない芸術家に、そんな当たり前の事も言えずに、飲んでいたものです。

 二階には、ジゴロが住んでいました。
売れないジゴロです。
ジゴロの癖に、女に騙されてばかり。
いい女、紹介してやるよ、が、私に対する口癖なのですが、たまに夜の街で見かける彼は大抵、ぶよぶよふくれた有閑マダムの、きつすぎる香水の中に引き摺られて歩いておりました。
 夜、彼の仕事が無い時は―1年の内、300日位がそうでしたが―彼は私の部屋にやってきては、安いウイスキーを飲むのでした。
彼は、酔うと必ず、ウイスキーって、憂い好き…なんだよな…憂いが好きな男が飲む酒なんだよな…と、私に同意を求める様に呟いたものです。

 そう言えば、管理人、と称する爺さんが、1階の隅に住んでおりました。
復員軍人だと言う事で、名誉の負傷か、片足を引き摺って歩いておりました。
 20ほどある、シンジュクハイツの部屋も、いまや数戸が埋まるのみで、管理人と言っても殆どする事は無きに等しい。
たまに廊下の電気でも切れれば良いものを、そんな事は私が住んでいた間には一度も無く、水周りが壊れたとか、換気扇が壊れたとか言う事も無く、シンジュクハイツは、ここだけ時間が停止している様に、何事も無く毎日をやり過ごしておりました。
 そんなところなので、管理人の爺さんは日がな1日、シンジュクハイツの玄関口に出した椅子に座って、ネコを抱いて昼寝をしておりました。まるで、永眠しているかの様に、安らかに。

 どこの部屋に住んでいるのかわかりませんが、いつも白い軽げなワンピースを着た綺麗なお嬢さんも、シンジュクハイツには住んでいました。
何度か通りすがり、透き通る様に綺麗な人だなあと、密かに憧れていたのですが、或る日私が、自室のオンボロのレコード・プレーヤーでワーグナーを聞いていた時にドアが叩かれ、開けると彼女が居ました。

「 ごめんなさいワーグナーが聞こえてきたから。
このピアノ曲のレコード、私持ってないの。
ピアノ・ソナタ ニ短調、好きな曲なのだけど。」

と言いながら、そうする事が当然の様に私の部屋にあがりこみ、レコード・プレーヤーの前にちょこんと座ったのが、そう言う事が何度も続く初めでした。
 彼女は、このレコードは持ってないのと言いつつ、毎度毎度私のレコードを聴いては帰るのですが、終ぞ一度も彼女がレコードを持って来ることはありませんでした。
でも、良かったのです。
彼女がレコードに聴き惚れるその横顔を見ているだけで、私の心には恋の曲がカンタービレで演奏されていたのです。

 或る朝、私は驚天動地の大音響で目覚めました。
それはまさにこの世の終わりかハルマゲドンかと言う騒ぎで、がおわわわーんとの轟音と共に、シンジュクハイツが大きく揺さぶられ、その都度、がららららとその一部が崩れ落ちる音が響きます。
一拍置いて、またがおわわわーん。
そして、がらららら。
 その轟音が徐々に私の部屋に迫ってきたので、矢も盾もたまらないと、ドアを蹴破るように開けると、薄暗かった廊下は今や白日の陽が差し込め、かび臭さも霧散しております。
と言うのも、シンジュクハイツは半壊し、壊れた屋根壁から陽の光が降り注いでいたのです。
 みると、浅間山荘みたいな、巨大な鉄球が、唸りをあげてこちらに向かって来る最中でした。
思わず身を伏せた私の頭上を通り過ぎた鉄球は、屋根の残りの部分を粉砕し、瓦礫が私を襲いました。
 隙を見て駆け出し、おおいやめろやめろと、両手を振り回しながら叫ぶ私を、大勢の作業服が唖然と見つめるのが判りました。

「 おい人がいるぞ 作業中断 機械を停めろ 作業開始前に確認したのに 監督を呼べ 何で廃墟に人がいるんだ あなたこっちへ大丈夫ですかお怪我は なんてこったい 何で人が居るんだ 廃墟に人が。」

口々に叫ぶ作業員達の声を聞きながら、私は、気が遠くなり…………、

“ あ・やっぱり・ここは・ここは・ハイキョダッタンダ…ソウイエバ・ハジメテ・ここに来た時・無一文で・アメガフッテテ・アマヤドリシテ・廃墟だから・中に入って・雨宿り・シテテ・・・そのままキガツケバ・コノアパートニ・スンデイテ・このアパートの住人に・ナッテイテ…。”

気がつくと、私は、工事現場の事務所に寝かされておりました。
 私が勝手に、廃墟に住みついていたと思い込んでいる現場監督達は、

「 本来なら、建造物侵入罪や不法占拠になるのだが、こちらも一々警察に届けると、工期も遅れて面倒だし、こちらとしては一休みして出て行ってくれればそれで…アンタがねぐらにしていた部屋にも、荷物らしい荷物は無かったけど…。」
「 あ、いいですいいです。
ちょっと、雨宿りに使っただけですから。」

そう言い残し、行く当ても無く、私は事務所を出ました。
 このあたりは、全部旧い建物を壊して地ならしして、霞ヶ関ビルよりも大きなビルが建つんだよ…、そんな風に言っていた現場監督の言葉を思い返しながら、後ろからワーグナーでも聞こえてきやしないかと思いましたが、私の背後には、シンジュクハイツが崩れ去る轟音だけが鳴り響くだけでした。


















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月24日(水)のつぶやき

2018-10-25 06:53:49 | _HOMEページ_

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月24日 Black Thursday

2018-10-24 08:00:00 | A,日々の出来事_






 日々の出来事 10月24日 Black Thursday






 今日は、世界大恐慌があった日です。(1929年10月24日)
1929年10月24日木曜日、ニューヨーク株式市場の株価が大暴落しました。
この暗黒の木曜日(Black Thursday)は、アメリカだけでなく他の国々を巻き込んだ世界的な株の暴落に発展しました。
 アメリカの株式市場は、1924年から投機的な資金が流入し、この恐慌が起こるまで上昇を続けました。
しかし、1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が下落したのを切っ掛けに売り一色となり、ウォール街周囲は不穏な空気に包まれていました。
 その後、株価は不安定な動きを続け、10月29日にさらなる大暴落が発生し、午後には市場を閉鎖する事態となり、株価は9月の半分になってしまいました。
 そして、次にやって来た不況では、アメリカの失業者は1200万人に達し、失業率は25%、閉鎖された銀行は1万行に及びました。
また、それと同時にアメリカ経済へ広く依存していた他の国も、経済が連鎖的に破綻し、世界的な不況がやって来ました。








  世界大恐慌


















☆今日の壺々話








株で絶対損しない(秘)方法






株で大損したので、インターネットで、
「株で絶対損しない(秘)方法」という情報を見つけて、
3万円で買ったら、送られてきた封筒の中に、
一枚の便箋が入っていて、

「株をやめなさい」

とだけ書いてありました。

これは詐欺で訴えることができるのでしょうか?


















女に絶対ふられない(秘)方法






あります。
以前の私はふられてばかり。つらい日々をすごしていました。
この方法を知った今は違います。
もっと早く知っていれば学生時代も無駄にせず済んだと悔やまれます(笑)
料金は5万円です。
キャンペーン中のため今なら先着20名様まで3万円とさせていただいております。
秘密を知りたいかたは、私の口座に3万円振り込んでください。
ひやかしはお断りいたします。
真剣な方のみ申し込んでください。


















     失業中




コンピュータ会社が、事務員募集の広告を張り出しました。

“ 従業員募集。
 タイプができること。
 コンピュータに熟達していること。
 バイリンガルであること。
 なお、この会社は雇用機会均等法を遵守しています。”

 ほどなくして、一匹の犬が足早に窓の所にやって来てその広告を見ました。
そして中に入って行きました。
 犬は受付係を見てしっぽを振ったあと、広告の所まで歩いて行き、鼻を鳴らしました。
受付係は犬が何を考えているか察して、事務所のマネージャーを呼びました。
マネージャーは驚いてその応募者を見つめました。
けれども犬の決心が固そうだったので、とりあえず事務所の中に招き入れることにしました。
中に入ると犬は椅子に飛び上がりマネージャーをじっと見つめました。
 マネージャーが言いました。

「 お前を雇うことはできないよ。
 広告に出てただろ?
 タイプができなきゃダメだって。」

犬は椅子から飛び降り、タイプライターの所へ行き完璧な文字を打ち始めました。

「 わっ!」

そして打ち出したページを取ってマネージャーのところへ駆け足で行き、ページを渡しました。
そしてまた椅子に戻りました。
 マネージャーは驚いてしまいましたが、また犬に言いました。

「 う~ん・・・。
 でも、コンピュータも使えなきゃダメだって書いてあったろう?」

犬はまた飛び降りるとコンピュータへ向かいました。
そして今まで動いたことがないプログラムをセットするや、完璧に実行しました。

「 わっ!」

 マネージャーも唖然として犬を見つめました。
それでも、彼は犬に向かって言いました。

「 お前が賢いのはよくわかかった。
 面白い能力を持っていることもな。
 でも、やっぱり雇うことはできないよ。」

犬は椅子から飛び降りて広告のコピーの所へ行き、“この会社は雇用機会均等法を遵守しています”と書かれている文章を指さしました。

「 うっ!」

そして、マネージャーは言いました。

「 そりゃそうだが、“バイリンガルであること”とも書いてあるぞ!」

すると犬はマネージャーを平然と見つめて言ったのです。

「 ニャ~!!」


     ヽ∪・ω・∪ノィェィ♪



















大富豪になった男





 記者は、ようやく、アメリカ大恐慌を乗り切って大富豪になった男のインタビューに成功した。

富豪:「わしは、スラムでも一番の貧乏な家庭に生まれ、15歳の時に天涯孤独の身となり、無一文で世間の荒波に追い出されたのじゃ。」
記者:「さぞ、ご苦労をされたのでしょうね」
富豪:「大変な苦労じゃったよ。そして、たゆまぬ努力だった。」
記者:「是非、小誌の読者にもその成功の物語というものを教えていただけませんか。」
富豪:「いいとも。」
老人は昔を思い出すように目を閉じた・・・。
富豪:「大恐慌の時代、父母が死んで、まだ幼いわしが住んでいたアパートを追い出された日。
わしのポケットには、もう5セント硬貨が一つしか残っていなかったのじゃ。
わしは、腹が減って腹が減って、5セントで汚いリンゴをひとつ買ったのじゃ。
さて、齧り付こうとして、袖でリンゴの汚れを拭いたら、実に綺麗でうまそうなリンゴになった。
わしは、そのリンゴを食べないで10セントで売ったんじゃ。
そして、その10セントでまた汚いリンゴを2個買って。
もう、分かるじゃろう?
わしは、その時、商売というものを理解したのじゃよ。」

雑誌記者は叫んだ。

記者:「感動的なお話しです!」
富豪:「うむ。こうして、1週間後には、リンゴを売った金は、なんと、23ドル50セントにもなったんじゃよ。」
記者:「なるほど、地道に努力されたのですね。」
老人は続けた。
富豪:「そして、その次の日・・・。
大叔父が死んで、5000万ドルの遺産を相続したのじゃ。」




















炎のバックレ 1




 全国規模の大イベント会場で、新機種の説明員を派遣で確保した会社があった。
社運をかけた一大イベントだったのに、アフォ幹部が説明員を雇う単価をケチった。
土壇場でケチったのだ。
 そしたら、低レベルな派遣会社に切り替える事になって、当日にバックレが大量に発生。
前日までの準備で毎日深夜までコキ使われた派遣社員の中には、バックレムードが漂っていたので、ヤバイ!という空気はあった。
 バックレが発生すると、正社員のサビ残で埋め合わせが行われる。
これは現場の主任クラスまでが被り、課長以上は安全地帯に退避してやり過ごすというのが日本の企業の文化である。
管理職連中は、口は出すけど責任の及ぶ詳細には決して触れない。

 派遣15名の尻拭いは主任の俺に向けられた。
「お前が全責任を負うべきだ!何とか事態を収拾しろ!このバイタの子が!」と課長に激しく罵られた。
課長も部長から「どの面下げて報告しやがるんだ!このケツの穴野郎!悪い報告は上げるなと、何度言ったら分かるんだ」と怒鳴られていた。

 どう見ても俺一人で15人分は働けなかった。
俺は「はい!頑張ります!」と威勢の良い声を上げて、働き始め、途中トイレに立って、そのままバックレてしまった。
 会社にはあれから顔を出していないし、会話もしていない。
友人に勧められるままに、労鬼経由で退職手続きを郵送のみで済ませた。

 バックレが発覚した後の電話攻勢は凄かったな。
出なかったけど。
出ても黙って切ったけど。
 旅行に出かけたので、アパートの玄関でご対面、という場面は無かった。
旅行から帰ると、部屋の電話の留守電に半狂乱な課長の声が何件も入っていたな。
メモリの容量を超えた先は分からないけど、多い時は5分おきに入っていた。
 数ヵ月後に、あの糞課長はどうしているかな?と懐かしく思って公衆電話から会社にかけてみた。

「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。」

家に帰ってインターネットを見てみたら、会社のウェブサイトが消えていた。








炎のバックレ 2




 プロパは無断でそれも1〜2週間休んでも、放置して休み明けに「おお、体の方は大丈夫かい?」って笑顔で迎えるくせに、派遣が数分遅刻するだけで営業所にバックレ・クレームの勢いで電話をかけて、しかも体調不良で連絡して休んでも、「社会人として自覚が無さ過ぎる、どんな社会人教育を受けてきたんだろうかねえ。」なんて吐き捨てるように罵る主任がいる。
 派遣は風邪引いてもなかなか休ませてもらえず、いよいよこじらせて寝込むと、連絡入れているにも拘らずバックレ発生のように朝から晩まで1日に15回以上電話かけてきやがるんだ。
 俺が高熱出して3日休んで出てきた日に、無断欠勤(全部「有給」処理!)してたプロパが、2週間ぶりに同時に出社してきた事があった。
主任は俺だけに殺気立った目を向けて、罵声の限りを浴びせてきた。
「お前みたいのをなあ、英語で『バイタの子』って言うんだよ!」とまで言われた。

 俺は黙々と仕事に励んだ。
そうすればするほど、主任は俺に無理な作業を積み上げてくる。
深夜残業&休出(共に手当てなし)を前提にしたスケジュールを平気で引いてくる。
 よく見ると、プロパ連中は夏休みだってしっかり保証されたスケジュールになっている。
しかし、俺は夏休みどころか土日もずっと休み無しだった。
それでも俺は文句も言わずに増殖する仕事に打ち込んだ。
プロパの半分は定時で帰り、残りの半分は残業時間を雑談&お茶会で過ごしている。
俺は当然私語すら認められなかった。

 とにかくプロパがサボった分の仕事が全て俺に流れ着く仕組みになっていた。
プロパは連絡無しに突発的に休むから、それで俺の土日は普通に潰れた。
主任はそうやって開発プロジェクトの基幹部分が俺の手中に掌握されつつある事をまるで理解していなかった。
 資料を作成しようとすると「そんな体裁はいいから、プログラムをとにかく作ってくれよ。」と阻止されるのだが、俺はその誤った指示に甘んじた。
プログラムの詳細は資料となる事が許されず、俺の頭の中でクローズしていった。
もはや、プログラムの全体像を知る者は俺以外にいなかったが、その状態を理解している者もいなかった。

「ちゃんとテスト項目を漏れなく挙げて、テスト抜けが無いように気をつけるんだぞ!この『バイタの子』め!」
「はい、分かりました。」

 俺は、テストしていようがしていまいが、構わずにテスト結果を捏造した。
プログラムは、そのスケジュールで到底完成するはずが無かったのだが、早期に指摘した時には主任は逆切れして、全て俺に押し込んだのだから。
周囲も俺に手を貸そうとはしない。
見て無ぬフリだった。
 そして、スケジュールの後半で、バグもほぼ潰し終えて「動作を見せられる段階」に入った時、スケジュールでは、そうなっているはずの段階に入った時に、俺は目一杯の仕事を一身に引き受けた状態で、バックレた。

 全ては計画通りだった。
プロパさんたち、お疲れさん。
2月末の納期まで僅かだけど、資料も仕様書も俺の頭の中にしかない状態だけど、今までサボってきた分を年末年始の休み潰して頑張って下さいね。


















別れ方




ホントにひどい別れ方ってのはなぁ…。

誕生日にびっくりさせようと“今日は仕事で行けない”と言っておいて、
彼女の部屋の押し入れに隠れて、ニヤニヤしながらスタンバイしてたら、
彼女が帰ってきたから、“おめでとう!”と元気よく飛び出したら、
知らない男と抱き合いながらキスしてて、何も言えずに固まってたら、
彼女に“お願いだから出ていって!”と言われて戸惑ってたら、
男の方に“大人なんだから分かるだろ?”と言われて、
クラッカー片手に、ただ呆然と彼女の家を後にして、
それ以降、まったく連絡がつかない事を言うんだよ!
甘えんじゃねぇ!





















原価






・コンタクトレンズ2万円~3万円
  原価30円 …… ほとんどが利益で安く売りすぎると不審がられて売れなくなってしまうかららしい。

・スーツ一般的価格3万円~4万円
  原価約3000円程度 …… 確かに上下セットで1万円で売ってるくらいだしあり得そう。

・ファミレスのハンバーグ
  製造単価25円~25円 …… これはよく聞く話。ただしファミレスに限ったこと。

・トヨタ カローラ140万円
  原価22万円 …… ここには人件費や開発費は入っていないので原価だけで試算すると22万円になるという。

・ATM取引原価
  一回の出入金で約70円、残高照会だけでも約50円 …… これはむしろ高い!
  そんなにコスト掛かっていたのか。一部銀行では手数料無料だがあれは大損?

・ハンバーガー店のポテト240円~
  原価約15円 …… ポテトに限らずハンバーガー店の商品は全て原価が低い。
  ジュースなんか10円行かないとか。

・ゲーム本体販売開始価格25000円
  原価24000円 …… これは任天堂のゲーム機を対象としたものだが、意外と原価掛かっている。プレステ3は売るごとに赤字だとか。

・うまい棒 価格 10円
  原価 8~9円 …… 一本売れて儲けが1円か2円。これで商売になるっていうから凄い。

・チェーン店の牛丼280円~
  原価約100円~120円 …… もっと安いのかと思ってた。意外と掛かっているんだなあ。


















先物





 あるところに一人の男の子がいた。
父親は厳格な人物で、その男の子は厳しく躾られた。
少しでも悪いことをすると叩かれ、心から反省するまで許してはくれなかった。
父は家に代々伝わる刀を見せながらよくこう言った。

「この刀のように真っ直ぐな、どんなことにも立ち向かえるような人間になれ」

 しかし父の事業が失敗し多額の借金を抱えることとなった。
父は失意の内に亡くなり、家は借金の方に取られることとなった。
残ったのは代々伝わる刀だけ。
すでに成人していた男は老いた母と共に売られた家の近くの借家住まいとなった。

 売られた家を毎日見る男が思い描くことはただ一つ。
先祖代代の家を買い戻し、無くなった父に恥じない男になるということ。
そのために男はひたすら働いた。
 しかし体調を崩し働けない母の面倒を見ながらでは中々貯金も増えない。
結婚もせずに働いたが、男が50歳になった時点でやっと1000万円が溜まっただけだった。

 そのころには母は完全に寝たきりになり介護が必要となっていた。
男は借家の近くの工事現場で働き、昼休みには食事も取らずに一旦母の元に帰り面倒を見る、という生活が続いていた。
 しかしこのままでは家を買い戻すことが出来そうに無く、また母のことを思うとこのままの生活を続けることに限界を感じていた。

 あるとき、男の元に一本の電話が掛かってきた。

「 資産運用にご興味はありませんか?」
「 現在私が担当している顧客のうち、なんと9割が儲かっているんですよ!」

男は投資やギャンブルを毛嫌いしていたが、

「 お任せ頂いて資産を増やすことができれば、お生まれになった家を買い戻すことも出来ますよ。」

という言葉に心を動かされ、貯金の1000万を先物取引に使うことになった。

 始めの内は取引も上手くいき、1、2ヶ月後には2000万円と当初の倍に増えていた。

「 あと数百万円で家を買い戻すことができる・・・。」

男はここで止めて残り数百万円は銀行からの借金で賄おうかとも思ったが、証券会社の担当が強く押し止めたためそのまま取引を続けることとなった。

 しかし2000万円を過ぎてからは金は増えなくなってしまった。
毎月数百万円ずつ減っていく資産額を見て証券会社の担当に問い詰めるが、

「 たまにはこういうこともあるんです。
長期的には増えますのでどうかお任せ下さい。」

と言うばかり。
 男は不安になりながらもそのまま運用を任せたが、1400万、1200万、1000万、700万と資産額はどんどん減っていき、そしてついに、数十万円になってしまった。

 男は激怒した。
実家を買い戻す金どころか、老後の自分と母の生活費すら無くしてしまったのだから当然だ。
だが、この担当者が心から詫び、月に数万円あるいは数千円でも返していくなら許すつもりでいた。
父はどんなに激怒したとしても真摯に反省したばらば後で必ず許したし、自分に厳しく他人には優しい人間であれ、と男に教えたからだ。

 そして担当者がやってきた。
担当者は詫びの一言も無く、新たな取引の紹介を始めた。
男は机の上に広げられたパンフレットを破り捨て、

「 増やすどころか元の金すら無くしておきながら詫びの一言も無いのか!!」

と怒鳴りつけた。
すると担当者は愛想の良い仮面を脱ぎ捨て、ふて腐れたような様子でこう言った。

「 取引ってものはね、儲かることもあれば損することもあるんですよ・・・。」

男は突然、スイッチが切り替わったかのような冷めた頭で悟った。

“ こいつはヒルだ。
人に取り付いて吸えるだけ吸って捨てていく。
人間の心なんて持っちゃいない。
こんな奴を生かしてはおけない。”

 男はゆっくりと立ち上がり、押入れの奥にしまってあった代々伝わる刀を取り出し、抜き払った。
そして、驚きの余り動けないでいる担当者を切り刻み、殺した。
 その後男は風呂場に行き、返り血で真っ赤に染まった服を脱ぎ冷水で禊をした。
そして白装束に着替え、血まみれの刀を携えて近くの交番に出頭し、逮捕された。
男の逮捕から約1週間後、介護をしてくれる者もいなくなった男の母はひっそりと息を引き取った。


















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月23日(火)のつぶやき

2018-10-24 07:55:36 | _HOMEページ_

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の恐怖 10月23日 ノックの音(3)

2018-10-23 18:47:03 | B,日々の恐怖






 日々の恐怖 10月23日 ノックの音(3)






 物置の暗い雰囲気と打って変わって真昼の陽気に、先ほどの恐怖を忘れた俺は、気味悪がっている弟をまた無理やり連れて物置の裏、ちょうど扉があった位置の裏側を確認しようと思った。
 立地のせいなんだが、物置の裏に回るのが少し面倒で、隣接した小池の外をぐるっと回り、椿の生け垣の下をくぐって、金木犀の低木の隙間を縫うようにして、当時の子供の感覚としてはちょっとした冒険の末、物置の裏にたどり着いた。
 ここに来たのは初めてで、他にも広い庭のせいか起伏の激しい立地のせいか、こういう初めて来るところみたいなのが庭の中にあった。
 物置の裏を確認した俺は、

“ ああ、なるほど・・・。”

と納得した。
 物置の裏手には、いつ取り外されたかもわからない階段の跡が壁に見て取れた。
とすると二階の扉は、階段から行き来するための物だったのだろう。
もし勢い余ってドアを突き破り、あそこから落ちたかと思うと少しゾッとしたが、ノックの音だって今思えば、それこそイタチかキツツキかだったかもしれないのに、随分と騒ぎ立ててしまったな、とすこし恥ずかしく思った。
 恥ずかしまぎれに、

「 人のするノックに聞こえたよなあ、ノック返されたし・・・。」

なんて言っていると、終始気味悪そうだった弟がますます嫌な顔をして、

「 だから気味悪いこと言うなって・・・。
ノックの音がするって言うから俺耳澄ましてたのに、俺にはなんにも聞こえなかったよ。」

と言われ、物置の中の恐怖がまたスッと寄ってきたような気になった俺たちは、急いでその場から離れた。
もう30年も前の話。















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月23日 丸山ワクチン

2018-10-23 07:00:00 | A,日々の出来事_






 日々の出来事 10月23日 丸山ワクチン






 今日は、国際癌学会で日本医科大学の丸山千里教授が“丸山ワクチン”の治療成果を発表した日です。(1974年10月23日)
丸山ワクチンは、もともと皮膚結核、肺結核に対して開発された薬で、後にハンセン病にも効果が確認されました。
そして、この二種類の病気の患者にガンが少ないと言うことから、ガンに対するワクチンの作用を調べる研究が始まりました。
 ガン治療に丸山ワクチンを試用した結果、ガンの縮小が見られるもしくは末期ガン患者の中にガンと共存して元気に暮らしている人がいるとマスコミが報道し、ガン治療薬として認可の手続き前に、世論の人気が先行することになりました。
 その後、丸山ワクチンはガン治療薬として申請されますが、ガンに対する作用に不明な点が多く、治療薬として認可が下りませんでした。
そのため、治療にかかわっている人たちから認可の嘆願署名運動が起こるなどして社会問題化しました。
 現在では、丸山ワクチンは放射線療法による白血球減少症の治療薬として認可されていますが、ガン治療薬としては認可されておらず、有償治験薬と言う位置付けのままの状態です。
そして、開発者の丸山千里教授は、丸山ワクチンがガン治療薬とならないまま1992年3月6日亡くなりました。

 碌でも無い所にお金を使わず、国家挙げてガン治療に予算を投入すれば、今あるものより良い薬や治療法が開発されるものと考えられます。






 丸山千里















☆今日の壺々話






    薬1

 町で名医と言われている医者のもとへ、とても美しいご婦人が訪れました。

「 先生、とても恥ずかしいことなんですけど・・・・。
 私、おならがとまらないのです。
 でも、音もしないし、臭いもまったくしないので、誰も気付かないので
 すが・・・。
 実は、今、ここでも数回のおならを・・・・。」
「 う~む、分かりました。」

先生は一週間分の薬を婦人に渡しました。


 翌週、カンカンに怒った婦人が再び医師のもとを訪ねました。

「 先生、どうしてくれるの! 
 前より悪化したのよ。
 おならは相変わらず出るし、それに耐えられない臭いもするようになっ
 たわ!」

医師は少しも慌てずに答えました。

「 宜しい奥さま、鼻は治りましたね。
 今度は耳ですな。」





    薬2

「 旦那様、旦那様、起きて下さいませ、睡眠薬を飲む時間です。」





    薬3

 病院でかゆみ止めの薬をもらった。
説明書を見たら副作用に「かゆみ」と書いてあった。
効くのか、これ ・・・・?


















WHOと戦って勝ったヤツ




 1993年、日本にアジア太平洋地域インフルエンザ・センターが作られた。
それまでアメリカ、イギリス、オーストラリアにしかなかったセンターが、日本に設置されることになったのは、なぜか。

 インフルエンザ・ワクチンは、毎年、WHOの専門家会議で、データをもとに今年流行しそうなインフルエンザを決定し、それに基づいて製薬メーカーがワクチンを作っている。
それまで日本はその元になるアジア各国の膨大なデータを収集し、WHOに送付する仕事だけをやっていた。
 担当していた根路銘国昭(ねろめくにあき)氏は、これだけの仕事をやってるのに、日本にインフルエンザ・センターがないのはおかしいとWHOに手紙を書いた。
それに対する返事は、

「 WHOも国連の安保理と同じで第二次大戦の戦勝国で構成している。
よって日本は入れない。」

というものだった。
彼はさらに抗議の手紙を送ったが返事は同じ。
それどころか、WHOに批判的人物として、彼と日本に対し冷淡になったという。
 ここで普通の日本人ならどうするだろうか。
なんとか謝罪して、今までどおりの扱いにしてもらおうと努力するか、そもそも抗議など最初からしないかもしれない。
だが根路銘氏は違った。
なんと、日本が集めていたアジアのデータを1年間、WHOに送るのをやめたのだ。
インフルエンザの大半はアジアから発生するから、そのデータがないとワクチンが作れない。
WHOは大騒ぎになったという。
 そして翌年、根路銘氏にWHO専門家会議への招待状が来た。
その会議で、日本にアジア太平洋地域のインフルエンザ・センターを作ることが決定され、彼が初代センター長に就任することになった。

 こうしてインフルエンザセンター長になった根路銘氏だが、WHOはアメリカの製薬メーカーの意向を受けた学者が力を持つ世界だった。
 1993年フランスで開かれた国際会議で、アメリカが新開発した生ワクチンを、まず日本で使うべしという議題があがった。
日本は生ワクチンの効果には疑問をもっていて既に使わなくなっていた。
 根路銘氏は、“日本を実験台にして、うまくいけば各国で使うつもりだろう”と感じたという。
その会議には日本の学者も数十人参加していたが誰も反対しなかった。
 根路銘氏ひとりが、

「 日本は先進国であり、ワクチン政策に君たちの指導を必要とする国ではない。」

と反論した。
そこでアメリカの学者に、君たちのデータをOHPで映してほしいと頼んだ。
そして日本のデータと比較すると、日本のワクチンの方が明らかに効果があるとわかり、他の学者からも“ネロメの方が正しい”と意見があがった。
こうしてこの議題は流れ、日本人がモルモットにされるのを防いだ。
 根路銘氏はこうも言っている。

「 この会議の後、対立したアメリカの学者とすごく仲良くなった。
日本人同士だとこうはいかない。」

 またジュネーブのWHO本部で12人の専門家によるワクチン決定の投票において、アメリカのワクチン11票、日本のワクチン1票でアメリカ製に決まった。
もちろん1票は根路銘氏のものだ。
 根路銘氏は科学的に見てこの結果はおかしいと、閉会30分のコーヒーブレイクのときに、2日間の討議で使った110カ国のデータをつき合わせてコンピュータにかけた。
するとアメリカ製は日本の半分しか効果がないと出た。
 彼はこの結果を見せて、居並ぶ学者たちに、

「 君たちは政治家か、科学者か。
科学者ならこのデータをどう見る。」

と問いかけた。
すると議長がテーブルを2回たたいて、

「 私の判断で採決を取り消します。
ドクターネロメが提案した日本の意見に従います。」

と結果をひっくり返した。
“まるで映画のようだった”と根路銘氏は語った。

















SARS




 SARSの時、北京で隔離生活を経験した俺が来ましたよ。
当時は、結構有名な理系の大学に居たんだ。
北京で大流行する半年ぐらい前は、“なんか香港の方がヤベーらしい”みたいな噂程度のモノだった。
政府の大本営発表もあったから危機感は全くといって無かった。
外食の手洗い場が使われる事もほとんど無い。
 ところが、どうも北京でも相当な数の感染者がいるんじゃないかって事がまことしやかに囁かれ始めた頃、政府による重大な発表があるということで,ある日みんなラジオやテレビ、PCに注意していた。

「 北京での感染者は十数名ではなく、800名あまり存在していた事が判明した。」

 冷静さをもって語っていただろうニュースキャスターの表情とは裏腹に、北京はあっという間に様変わりしてしまった。
いつも渋滞していたはずの南北に一直線にはしる幹線道路には,猫の子一匹見当たらなくなり、スモッグで視界がぼやけたその道路はまるで永遠に続いてるように見えた。
ほどなくして、大学は外界との接触を避けるため全ての校門を予告無しに封鎖、外に住んでいた学生は締め出しを食らってしまった。
 日々増え続ける患者数のニュース、次々と制限されていく活動範囲、寮のすぐ隣に突貫で建てられた煉瓦塀とその中の仮設住宅。
以前とはうってかわって人で溢れかえる食堂の手洗い場、救急車のサイレンで目覚める朝、授業における学生のゾーニング処置、ノイローゼから発熱してしまい、それをルームメイトに知られまいとひた隠す学生。
冷静さを失い、藁にもすがる想いでウィルスに効くとされる線香を灯しまくる人。
“お前が飲まなきゃこっちが迷惑するんだ!”と、無理矢理怪しげな漢方薬を飲ませようとする食堂のオヤジ、寮に帰ってその漢方薬の集団食中毒のニュースを見た時の脱力感。
 “SARSに感染しても大学は責任を負わない”とする書類に署名を迫る大学関係者、非現実的な状況に逆にカタルシスを覚えてしまい始終興奮気味のクラスメート、脱走者(しかも後でわざわざご丁寧に大学の塀をよじのぼって帰ってくる)。
 文字どおり「見えない敵」がいるわけで、冷静さを欠く人が多かったのが目に付いた。
正しい知識と前準備をしっかり整える事が何よりも重要。


凄い!凄すぎる、だが中国が結構まともに対処していて感心した。


マトモなもんか、超法規的措置のオンパレードだよ。
中国は救急車呼ぶのが自費なんだが、感染が疑われると乞食でも無理矢理押し込められる。
ところがその乞食は払う金が無いから走行中の救急車から飛び出して逃げるんだよ。
キャリアなのに。
地方の人間は都市の方がいい治療を受けられると思ってか、どんどん患者が入り込んでくる。
天津じゃ、市民が自警団組んで都市間の道路を土嚢で封鎖しやがった。
大規模な患者隔離施設が無理矢理作られようもんなら、近隣の住民がそれこそ一揆よろしく打ち毀しに行くんだぜ。
冷静ささえあれば、ほとんどの二次災害は防げたはずなのに。


KOEEEEEEE!
 

 で、こっからが日本にも関係してくる話なんだが···。
あまりの緊急事態にとうとう外務省が帰国勧告を出した。
外務省が勧告というのは、ほぼ命令に近い。
“指示に従って帰国しないと帰れなくなるかもしれません”って事だ。
 未練の無い短期留学生は、早々に帰国してる人も多かったが、学部生、研究生は帰るわけにはいかなかった。
だが、ここまできて残り少ないほとんどの日本人が帰国せざるを得なくなった。
俺もそのうちの一人だ。
 全てが解決した後再度入国するためビザの申請を行うんだが、申請は学校外にある公安局でしか行えないこともあって、大学が集団申請および航空券購入の肩代わりを行う事になった。
もっとも、この大学側との交渉も難航を極めたんだが。
 帰国の日になり、俺らはマイクロバスに揺られながら死んでしまった街を横目にガラガラの空港へと向かう。
ほっと一息つきながらも、ターミナルで搭乗を待つ日本人御一行様。
 ところが、予定の搭乗時刻を過ぎても搭乗アナウンスが行われない。
15分、30分……次第に嫌な空気がたちこめてゆく。
小一時間ほどしたところで、ようやくアナウンスがあった。

「 関空行きの便は交換不能の部品に問題が発生したため、キャンセルとなりました。
つきましては、関空へご出発の皆様には成田行きの便にご搭乗頂くか、北京で一泊してもらうこととなります。」

 疲れに疲れきって、やっと辿りついた空港で俺らを待ち受けていたのは航空会社からの信じられない裏切りだった。
搭乗数が無いものだから、成田行きと合わせてコストカットしようとする会社の思惑は誰の目にも明らかだった。
 無駄だとは分かりつつも、フライトアテンダントとの押し問答が始まる。
早く脱出したいのに北京に留まれとはどういう了見か、関西の人が成田へ行った後どうやって関西へ行けというのか、一体運賃は誰持ちになるのか、そもそも機体の故障なんてフカしじゃないのか。
 航空会社の提示した解決方法は、“成田から新幹線もしくは国内線で関西へ行って頂く”との事。
冗談じゃない。
俺らはこの時期に北京から日本に入国しようとしてるんだ、いきなりおいそれと公共の交通機関を使っていいはずが無い。
 だが、超法規的な措置は相手が日本人でも通用するようだった。
こんな状況で集団心理に逆らって航空会社に反目できる人などいるはずもない。
俺らは結局航空会社の甘い提案を受け入れてしまった。
早くこの場から立ち去りたいという気持ちは確かにあった、そんな他のみんなに逆らって航空会社の倫理を説く場面でもなかった。
 関空行きの便に乗る予定だった搭乗者は皆成田行きの便に搭乗し、羽田で一泊した後各々のマスクをかなぐり捨て、PEKと印字されたトランクのテープを破り、さながら一仕事終えた銀行強盗犯が人目を忍んで帰路につくように国際線に乗り込んだ。
 国際線は他の乗客も多く、日本語での喧騒から離れて久しい俺らはまるで自分が非難されているかのような錯覚だった。
そのざわめきから逃げるようにイヤホンをかぶり、ジャックを無理矢理座席に差し込んでも、聞こえてくるSARS関連のニュースが耳から離れなかった。
 
とまぁ、こんなとこだ。
 もし俺らが原因で、日本で感染が拡大なんかしてたら、その航空会社は倒産の憂き目にあってただろうな。
どことは言わんが。
 日本は人権がややこしくて、帰国した際もこれといって厳密な検査を受けたわけじゃない。
危機感は持っておいたほうがいい。



SARSのとき空港のサーモグラフィに貼ってあった言葉


『これはテストです、問題を発見する為や人権を無視した拘束を行うものでもありません。』

















忍者の薬




 小さな定食屋やってるんだけど、近くに研修外国人用の宿泊施設があるので外国の人がよく来る。
で、暑くなりはじめるこの時期になると100円玉もってこっそり私に近づく人がいる。
用件は「忍者の薬をくれ。」

 彼らの言う「忍者の薬」とは梅干。
ばあちゃん直伝の梅干を店先で売ってる。
だいぶ前に夏ばて気味の研修外国人に、日本古来の食品で夏ばてにいいんだよとあげたら効いたらしく、「あれはグレイトだぜ・・・」と申し継ぎされているらしい。

 しかし、外国人仲間の間では、
「梅干?あれは人間の食い物じゃねえ!
日本人はなんであんな物食うんだろうなHAHAHA。」
とやりあってるらしく、おおっぴらに買えないから、こっそりと私に耳打ちしにくる。
梅干が外国人にも効くのかと、こちらもびっくりだが、彼らの間では私は忍者の女首領扱いになっている。

















虫歯






 俺は生まれつき虫歯になりにくい体質だった
そのため、ずっと歯医者というものに行ったことが無かった
しかし、高一の夏に部活の帰りの途中自転車で急ブレーキをかけたとき、顔面の口の辺りを自転車のハンドルのフレーム部分に撃ちつけ一本前歯が欠けてしまった。
その他に外傷は無かったが、すごく痛かった。
おそらく歯が欠け、歯の神経がむき出しになったためかな。
 そこで、家に帰ってすぐに母親に言って歯医者に連れて行ってもらった。
歯医者についたが、その歯医者にはアンパンマンの絵本やぬいぐるみなどが置いてあり小さい子しかいなかった。
 相場は4~12歳で、贔屓目にみても、15までっぽかった
それもそのはず、そこは妹(小4)の行きつけの基本的に子供専門のとこだった。
でも、母親も虫歯になりにくい体質のため、歯医者はそこしか知らなかった。
歯が欠けたのを見てあせっていたのもあって、この歯医者に来たわけだ。

 そして、治療が始まった。
歯科助手の可愛い女の人の胸が頭に当たる。
ふにふにと気持ちいいw。
正直歯医者って悪くないなと思った。
 しかし、助手の人の適当な処置が終わると、歯医者のおっさんと入れ替わってしまった。
いよいよ本格的に治療が始まるわけだ。
こ・・こわい。
 そして麻酔を打たれたわけだが、俺はその地点で泣き出した。
正直、痛かった。
歯医者のおっさんも、周りの歯科助手も幼女も幼児も、16の巨大なおれがたかが麻酔を打たれたくらいで泣いたことに驚いたのだろう。
全員こっちを見ている。
幼女も幼児も全員こっちをみた。
 場が凍りついたが、俺はお構いなしに泣きじゃくった。
そして、治療中はずっと泣いていた。
看護助手の人に「いたくないよ いたくないでちゅよ」と赤ちゃん言葉であやされる始末。
歯医者のおっさんはしかめっつらで終始不機嫌な様子(あまり見る余裕はなかったけど)。
 そして治療が終わった。
痛かったし怖かった。
看護助士さんが「よくがんばったね」と褒めてくれた。
皮肉で言ったのかも知れないがうれしかった。
しかし、俺は恐怖の後の安心感からまだ泣いていた。
 すると、となりに座っていた幼女が俺にペコちゃんのぺろぺろキャンディーをくれた。
(どうやら10歳未満ぐらいの子が飲食可能な場合、治療が終わったらもらえるやつ)
おれは泣きながら「あでぃがどう・・」といってもらった。
けど、おれは麻酔してたから、その場ではそのアメを食べることはできなかったんだ。















医者




 まだ自分が赤ちゃんだった頃のことを、親から聞いた話です。
自分は、どうやら生まれながらにして凄いアトピーだったらしい。
だったらしいと言うのは、現在アトピーで無いのと、その頃アトピーなんて、まだ一般的に言われていなかったから。
とにかく頭の天辺から 足のつま先まで、ブツブツとデキモノが出た醜い赤ちゃんだったらしい。
 ある日 両親のもとに医者の肩書を持った人物がやって来て治療を任せてくれないかと言ってきた。
聞けば、その医者が開業している病院は、割と近くの場所にあるとか。
 次の日 母親が、自分を連れて約束の時間に訪れると、待合室には一人の患者の姿も無く医者自らが出迎えてくれた。
で、色々診察をして 飲み薬を出され「これは毒素を出す薬だ。」とか「必ず時間道理に飲ませろ。」とか、その頃の医者にしては、珍しく細かくアドバイスをしてしてくれたそうだ。
 母親が「次は、いつ来たらいいですか?薬が無くなる前の方が…」と言いかけた時、「もう 大丈夫です。これで治りますから。」と言われ 半信半疑で帰って来て、医者のアドバイス通りに薬を飲ませると、3日後には ツルツルすべすべの 赤ちゃん本来の肌に戻った。
 余りの嬉しさに 母親は、手土産を抱えて、その医者にお礼を言いに行こうとしたんだけど、何故だか病院が見つからない。
かつてそこに病院があったような空地すら無い。
近くの人に聞いてみても「ここいら辺に、病院なんてありませんよ。」と言われるだけだった。
 そんな話を聞かせてくれる度に、「何故、家に来たんだろう?誰かの紹介とも言っていなかったし、病院だって目印のお豆腐屋さんはあるのに、あんな立派な病院が無いなんて・・・。」と不思議がっていた。
















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月22日(月)のつぶやき

2018-10-23 02:53:04 | _HOMEページ_
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月22日 中原中也

2018-10-22 07:00:00 | A,日々の出来事_







 日々の出来事 10月22日 中原中也







 今日は、中原中也が亡くなった日です。(1937年10月22日)
中原中也は、山口県出身の詩人で、弟の病死を切っ掛けとして詩を書き始めます。
その後、高橋新吉、富永太郎、小林秀雄と出会い、多くの叙情的な詩を残します。
また、フランスの詩人を紹介した詩集も刊行しています。
 結婚後、長男が生まれますが病死、これがもとで中原中也は精神的に不安定となり療養所に入院しましたが、さらに結核性脳膜炎を発症し死去しました。
 中原中也は、30年ほどの短い人生で約350篇以上の詩を残しましたが、生前は充分な評価はなされませんでした。
しかし、年を経るに従って評価が高まり、近代文学を代表する詩人として、その作品は幅広い人に読まれるようになりました。




 汚れつちまつた悲しみに 
     ( 中原中也 )

 汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪のふりかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる

 汚れつちまつた悲しみは
 たとへば狐の皮裘
 汚れつちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れつちまつた悲しみは
 なにのぞむことなくねがふなく
 汚れつちまつた悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れつちまつた悲しみに
 いたいたいしくも怖気づき
 よごれつまつた悲しみに
 なすところもなく日は暮れる・・・・






  中原中也

















☆今日の壺々話





 夏休みの読書感想文で、国語教師から言語に絶する酷い眼にあったヤツが2人居ました。
一人は、読書感想文の書き出し一行目に、“前にも述べたように・・”と書いて、本の後書きをそっくり写したアホと、もう一人は、“汚れつちまつた○○○○に”の○○○○を、すべてポコチンにしたバカです。
困ったことに、○○○○には色々な言葉が当て嵌まってしまうのです・・・。



 汚れつちまつた○○○○に
 今日も小雪のふりかかる
 汚れつちまつた○○○○に
 今日も風さへ吹きすぎる

 汚れつちまつた○○○○は
 たとへば狐の皮裘
 汚れつちまつた○○○○は
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れつちまつた○○○○は
 なにのぞむことなくねがふなく
 汚れつちまつた○○○○は
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れつちまつた○○○○に
 いたいたいしくも怖気づき
 よごれつまつた○○○○に
 なすところもなく日は暮れる・・・・




















       読書感想文専用テンプレ




 ◇(  )を埋めるだけで及第点!? 読書感想文専用テンプレ◇
 
※段落分けはご自分でどうぞ


(  )を読んで

私がこの本を読もうと思ったのは( )が( )だったからです。
ですが実際に読んでみると( )だったので驚きました。
この話は(  )が(  )するところから始まって、
それを(  )した(  )が(  )と思い、(  )しようと思う話です。
話の中で一番印象に残った場面は(  )が(  )したところです。
(  )を(  )するなんて(  )ですし、何より(  )が(  )だなんて(  )だと思いました。
数多い登場人物の中でも、私は(  )が一番好きです。
(  )の時に(  )する姿はまるで(  )を(  )しているようでした。
前に、私は(  )と同じような体験をしました。
(  )を(  )している時に(  )が(  )なって(  )したのです。
ですが( )と同じ行動は取れませんでした。
あんな状況で(  )を(  )出来る(  )はやっぱり(  )と思います。
この本を読んで、私は(  )を(  )する素晴らしさを知りました。
これからもこの気持ちを忘れないように生きていきたいです。




 参考例

(TДT)を読んで

私がこの本を読もうと思ったのは( ´∀`)が(゚д゚)だったからです。
ですが実際に読んでみると(゚д゚;)だったので驚きました。
この話は(,,゚Д゚)が(*´Д`)するところから始まって、
それを( ‐∀・)した(*゚ー゚)が(*´∀`)と思い、(#゚Д゚凸)しようと思う話です。
話の中で一番印象に残った場面は( ・∀・)が(;´~`)したところです。
(*゚∀゚)を(∩゚Д゚)するなんて(#`Д´)ですし、何より('A`)が(´,_ゝ`)だなんて(;゚0゚)だと思いました。
数多い登場人物の中でも、私は( ・Д・)が一番好きです。
( ・~)の時に(*´д`*)する姿はまるで(;゚∀゚)を(´∩` )しているようでした。
前に、私は( ´∀`)と同じような体験をしました。
(・3・)を(^^)している時に(*゚A゚)が( ̄ー ̄)なって(‐_‐)したのです。
ですが( ・∀・)と同じ行動は取れませんでした。
あんな状況で(・∀・)を(´ε`*)出来る( ´∀`)はやっぱり(。A。)と思います。
この本を読んで、私は(T∀T)を(@∀@)する素晴らしさを知りました。
これからもこの気持ちを忘れないように生きていきたいです。
















国語辞典




 俺がまだピチピチの中学生だった頃、夏休みの宿題で国語辞典をネタに読書感想文を書いてきた勇者がいた。
 最低3枚書いて来いと言われれば、2枚+1行分で3枚分と主張していた我々だが、彼は3枚目最後の行までギッチリと埋めて提出していた。
そんな彼の力作が担当教師の目にとまらないはずが無く、名誉ある『生徒玄関前掲示板』に、他の優秀作品数点と共に張り出されていた。
 彼の文章には、国語辞典をネタにしたとは思えない程の勢いがあり、最初の数行を読んだ時点で、多くの読者が彼の描く世界に引き込まれていった。
まず、国語辞典の前書きについて率直な感想(ツッコミ)を入れ、斬新な角度から著者の履歴をバッサリと斬り、2枚目に至って、ようやく単語の解説に対する彼なりの意見が書き込まれていた。
 その彼が最初に索引した単語は『愛』である。
恐らく彼は、単純にあいうえお順に頁をめくったのだろうが、そこから先は、その作品が完結する3枚目の最終行まで、彼の主張する『愛』についての文章がギッチリ詰まっていた。
 彼の愛は純情で繊細、読んでる我々が頬を赤く染める程で、途中から『愛』ではなく『LABU』(LOVEのつもりらしい)に呼称が変わり、男女の愛について、自分の体験談まで交えて書き綴られていた。
 その中で出てくる『A子』という微妙に具体性のある仮名だが、良く見ると『A』の文字が、何かの文字を一度消しゴムで消して後で、『A』と書き直された形跡が、全ての箇所で発見された。
我々読者は、それを発見しただけで彼の甘酸っぱい想いを胸いっぱいに感じ取る事が出来たのだった。
 最後に教師から一言コメントが書いてあり、そこには・・・

『 残念ですが、愛と恋を混同しているようですね。
 次は『カ行』まで調べてから感想文を書いて下さい。』

翌年の彼は、2枚+1行の やる気の無い感想文を提出していた。
















エゴイストの詩




・他人を害して喜ぶのは、自分が強いと勘違いして安心したいから。
・風評をばらまいて自分に有利にしようとするのは、実力がないから。
・隣がやる中傷に同調するのは、仲間はずれがこわいから。
・悪ぶって見せるのは、見下されてイジメを受けるのが怖いから。
・自分がえらいと誇張したがるのは、バカにされたくないから。
・自分がすごいんだと吠えて威嚇するのは、怯えてるから。
・腕前でなく話術で語るのは、自分が劣ると知っているから。
・一人で行動を起こせないのは、臆病なので他人の陰に隠れたいから。
・ウソを仕方ないと言って用いるのは、己が信用に値しないと分かっているから
・被害者だと騙るのは、世論を味方につけたいから。
・詭弁が達者なのは、それだけ失敗を重ねてるから。

















present






一年の大切さを知るには、 落第した学生に聞くと善いでしょう。

一ヶ月の大切さを知るには、 未熟児を生んだ母親に聞くと善いでしょう。

一時間の大切さを知るには、 待ち合わせをしている恋人に聞くと善いでしょう。

一分の大切さを知るには、 電車に乗り遅れた人に聞くと善いでしょう。

一秒の大切さを知るには、たった今、 事故を避けることが出来た人に聞くと善いでしょう。

10分の一秒の大切さを知るには、 オリンピックで銀メダルに終わった人に聞くと善いでしょう。


だから、あなたの一瞬一瞬を大切にしましょう。
そして、あなたはその時を大切な誰かと過ごしているのなら、十分に大事にしましょう。
その人は、あなたの時間を使うのに十分ふさわしい人でしょうから。
そして、時間は誰も待ってくれないということを覚えましょう。

昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。

明日は、まだ分からないのです。

今日は、与えられるものです。

だから、英語では 今をpresentと言うんです。





















詩譜音







 娘でも息子でも詩譜音(しふぉん)と名付けようとした友人。
別に音楽やってるわけでも、ケーキ作りが好きでもなんでもない。
「 シフォンって響きが可愛い」
「 しふぉんママって呼ばれたい」からって。

 口汚い子持ちの友人連中から、
「 あんた、自分の歳考えなよ。
36でしょ?
娘が幼稚園通う頃には40じゃない。
間違いなくシフォン婆でしょ。」
「 自分の友人が馬鹿親だなんて、思いもしなかった。」
「 シフォンって、中身のつまってない、安物の洋菓子ってイメージ。」
「 和風感覚で言うと、カステラとかまんじゅうって名前でしょ。
なんか、頭からバックリ喰われちゃいそうな名前よね。」
と、ぼろくそに言われて、喧嘩別れ。

 その後復縁するも、その友人のあだ名がその日以降「シフォン」になった。
本人は「やめて」と言うけど、
「 え~? 可愛いから良いじゃない。」
「 呼ばれたかったんでしょ? ママ付きで。」
と、あだ名定着。

友人もあだ名が定着してから、普通の名前が良いと気がついたらしい。



















高校時代に書いた詩のノート






 先日、バンドをやってる友人から詞を頼まれ、高校時代に書いた詩のノートを十数年ぶりに引っ張り出した。
ヒントを探してパラパラやっているうち、高1の時の詩を見つけてアゼン。
 僕自身はそれを書いたことを不思議なぐらい覚えてないんだけど、その詩の内容が、9年後(24歳の時)にそっくり現実化してるんだ。
4ページに渡るストーリー仕立ての長い詩で、内容はこんな感じ。

 湘南サーファーのチャラ男とひょんなことから友人になり、嫌なヤツだなあと思いつつ、(ヤツは僕と正反対のタイプ)
ヤツの強引さと、自分にない魅力と、淡い羨望?に引きずられてずるずる友達になる。
 が、ある時、ヤツはサーフ中に溺れてしまい、ヤツとの友達付き合いに疲れていた僕は、人々が騒ぐの尻目に、ヤツの生死も確かめず一人で帰って来てしまう。
それ以来、ヤツには会っていない。

 大筋もその通りなんだけど、気持ち悪いのは、細かい部分が当たっていること。
事故直前に、ヤツに無理やり付き合わされて苦手なモツ煮込みを食べたとか、ヤツのサーフボードの柄とか、ヤツに合わせて僕が来ていた服(大嫌いなアロハ)とか、事故前日に二人でカンバッジを買ったとか(これも僕の趣味じゃない)。
予知能力なんて全然ないのに、こんなこともあるんだなあと思った。


















こおりのプール
(小学二年生)


学校で
プールに入った
だれも入っていないから
こおりのっように
さむかった
およいだら
れいぞうこの中で
およういでいるように
かんじた



お菓子のパッケージに載っていた詩が不気味すぎる。
これ、土産で貰った六角亭の詰め合わせの中に入っていた
なんで小学二年生が「だれも入っていない」プールに入るんだ…?


















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月21日(日)のつぶやき

2018-10-22 02:57:55 | _HOMEページ_
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月21日 全日本女子プロレス

2018-10-21 07:00:00 | A,日々の出来事_







 日々の出来事 10月21日 全日本女子プロレス







 今日は、全日本女子プロレスが倒産した日です。(1997年10月21日)
1997年10月21日、全日本女子プロレス興業株式会社が二回目の不渡り手形を出し、倒産しました。
 全日本女子プロレスは、ビューティーペアやクラッシュギャルズに代表されるように、プロレスの宝塚版と言うイメージ戦略で多くの女性ファンを獲得しました。
また、90年代に入ると、新しく設立された他団体との対抗戦形式が男性ファンにも注目され人気を得るようになりました。
 そして、全日本女子プロレスではこの過程で、上記のレスラーの他に、マッハ文朱、ジャガー横田、ミミ萩原、デビル雅美、ダンプ松本、ブル中野、北斗晶、アジャ・コング等の人気のあるレスラーがデビューしています。
 でも、その後、この対抗戦による大物レスラー同士のカードも消尽され、高年齢レスラー中心の運営となり新人スターレスラーが生まれなかったことから、徐々に人気が下火になり始めます。
そして、これと並行して興業会社はプロレスだけでなく、飲食業経営や株の投資に手を出し、経営が一気に悪化し倒産してしまいました。






 全日本女子プロレス
















☆今日の壺々話






    ジャガー横田の旦那



「 はい、朝5時に起きています。
 直ぐに病院に行って、夕方まで患者さんを診察します。
  テレビ録画は、夜7時半か8時以降でも良いという番組しか出演してい
 ません。
 生出演する時は、前もって分かっているので病院に欠勤の連絡を入れます。
 だから、その穴埋めで土日に病院に出るので、年中無休です。
 ホント、フラフラですよ。
  う、うぐぐぐぐ・・。
 あの~、インタビューの最中は、コブラツイスト緩めて・・・・。
 え、いや、文句を言っているのではありません、ハイ。
  バシッ!
 あ、分かりました、分かりました、このままで結構です、ハイ。
 え、二人目は、女の子・・・・。
 でも・・・・・。
  バシッ、バシッ!!
 いえ、後ろ向きじゃないです、ハハハハハ。
 はい、欲しいです。
  バシッ!
 嘘じゃありません、ホントです。
 あ、絞めちゃダメ。
  ギュ~ッ!
 う、イデデデデデ!」
















    人生相談




 中学生の妹のことで困っています。
ここ最近、妹は風呂上りに毎回僕の部屋にやってきます。
脱衣所でしっかり体を拭いていないせいか、濡れたタンクトップに乳首が透けて浮き出ています。
視線を逸らしながら注意すると「やっぱ妹のでも気になるんだ?」と、俺をからかい始める始末です。
こんな調子で、二三時間も居つかれては堪ったもんじゃありません。
この高見盛そっくりの暑苦しい妹を退治するには、どうしたらいいのでしょうか?














“戦闘力レベル2”くらいの能力者の戦い





俺の衣服をビショ濡れにする能力を受けてみろ!

うわああああああああああああああ。
俺の衣服が見る見るうちにびしょ濡れになっていくぅぅぅうう。

一日の食費を500円に抑える能力は伊達じゃないぜ。

まったく面白くない話で爆笑できるぜ。

ついに使う時がきたようだな…見たいページを一発で開けられる能力を…。

実は小さな炎くらい出せるぜ!煙草ですか?はい、どうぞー!

俺の、自販機のお釣りが全部十円になる能力を舐めるなよ。

iPodのランダム再生で、聞きたい曲が一曲目にくる能力の俺に敵うとでも?

何このハイレベルな戦い。

ギャグマンガ日和でありそうだなwww。

おまえ・・・!森羅万象をマンガで例えることができる能力者か!?

しまった・・・。
「うかつに正体をさらす」
これが俺のもう一つの能力さ!!

どんな消しゴムのカスもまとまるくん以上にまとめられる俺の出番がきちまったか。

誰からも気づいてもらえない「空気化」の能力には勝てんだろう!!

愚かだな……その力は我等には標準装備だ!

針の穴に糸を一発で通すという俺の能力に勝てるやつはいないだろう。

誰か、伝説の「目覚ましの1分前に起きられる」
能力の持ち主はいないか!?

『目覚ましの音などの妨害をものともせずピッタリ8時間眠る能力』なら持っているぞ。

何となく時計を見たら必ずゾロ目……それが俺様の能力。

花火とかバーベキューしてたら絶対に煙がきてしまう能力、喰らえ!

厚さ二センチまで透視できる!
調節すれば開いていない本も読めるぜ!

あ、えっと…あの…貴方ってレベル6くらいじゃないんですか?
いや、その…間違ってたらすみません…。

袋とじ見るのに便利そうだな。

割り箸をきれいに割る能力を手にしたんだが。
てめぇらのおしっこが二股に分かれてあらぬ方向に飛ぶようにしてやるぜ…。

ときどき回転斬りしだすのはおまえのせいか!

どんな曲でも三回ぐらい聴けば歌詞を完璧覚えられる俺の能力に勝てるかな?

素直に羨ましい。

俺の能力、梅干しを思い出すと口の中に唾が沢山出る能力こそ至高。

携帯を手に取った瞬間にメールが届く能力。

普通にすごい。

おれに彼女が出来なくなる術かけた奴正直に手を挙げろ。

お前…まだ自分の能力に気付いてないのか…?
おいたわしや。

ふっ・・俺の声優の声が聞き分けられる能力には勝てないがな。

靴をはくと7cm背が高くなる俺様がきたぜ…。

もしかしたらこの中に俺の宿命のライバル……カサブタを剥がしたくてたまらなくする能力を持つ男が……。

俺のネコアレルギーを強制的に引き起こす力で、世界中のネコ好きを恐怖のどん底に突き落としてくれるわ・・・・・・。

ククク…俺の能力…発泡スチロールを遠隔操作する…!!喰らえ!!

ぐああああああああああああああ。
発泡スチロールがあああああああああああ!!!!

アメ玉を途中で噛まずに舐めきる能力、見せてやるぜ…!

ところどころ本当に怖い能力者がいるな・・・。
そうそう、チャックがうまく閉まらなかったら俺の事思い出してくれよな・・・。














親日派




来日外国人のプロレスラーって概ね親日派が多い。
しかも正統派レスラーのみならず悪役レスラーも同じ。


アブドーラ・ザ・ブッチャー

「初めて来日した1970年、あらゆるものが美しくてナイスだと思った。」
「俺は故ジャイアント馬場と日本のファンのおかげでここまで有名になった。」
「(自身が経営しているアメリカのレストランに)ジャパンのファンが来るのはいつでもウェルカムだ。」
→実際に日本人が店を訪れてブッチャーに会いたい旨を伝えると、店長からブッチャーに連絡がいき、都合がつけばすぐに来てくれ、写真撮影やサインなんかもきさくに応じてくれる。


ザ・シーク

「日本のプロレスファンは世界一のファンです。」(日本で開かれたザ・シークの引退セレモニーでの挨拶)
・引退後、日本のファン数名を自宅に招き、豪華にもてなしたことがある。
・試合中に混乱して解説の倉持アナウンサーを大流血させたことがある(一種のやらせ演出)。後年、倉持がシークの家を訪ねそのことを話すと、「大変申し訳なかった」と豪華にもてなした。
・甥っ子のサブゥーもプロレスラーとなり、日本人女性と結婚。


タイガー・ジェット・シン

「私が初めて日本に来た頃の日本人は、驚くほど礼儀正しく謙虚だった。だが、
 いつの間にかそれが無くなり、気が付けばまるでアメリカ人の様になっていた。
 しかし振る舞いはアメリカ人でも、その悪い部分しか真似しないヤング・ボーイが
 とても多い。そして決して、アメリカ人の良い部分は真似ようとはしない。
 日本人は、アメリカのイージー・ゴーイングな部分だけを真似してしまった。
 私は、昔の日本人が懐かしい。」


スタン・ハンセン

・全盛期は一年の半分以上を日本で過ごしていた。現在の嫁さんは日本人。
・好物は納豆、豆腐で毎日のように食べる。
・後年は若い外国人レスラーに箸の使い方、居酒屋での飲食の仕方等のマナーを教える係りを率先する。












プロレスファン



 私は小学生から大のプロレスファン、旦那は知ってるから大丈夫だけど。
新婚当初に旦那が呑みで遅くなると言われていたので、プロレスマスクをかぶりルチャDVD(メキシコプロレス)をヘッドホンして観ながら抱き枕相手に技の研究していたら…。
 突然後ろから肩を叩かれ驚いて構えたら、旦那と同僚数人が!
旦那以外はポカーンとしていたので、

「 あっ!すいません!お茶入れ!ビールですかね!」

と慌てて台所に立ち、用意してテーブルに運び世間話をしようとして気がついた…。
マスクしたままだと…。
 もう仕方ないので、「何もありませんがゆっくりしてって下さいね。」と笑顔?で寝室に閉じ籠りました。

















ワールドリーグ



 走り高跳びが怖い
子供の頃から、ずっと怖い。
テレビで、アスリートが走り高跳びをしているのを見ても、なんともないのだが、頭の中で自分が跳ぶのを想像すると怖い。

 怖いのは、背面跳びだ。
あなたは、どうですか?
想像してみてください。
 バーの高さは1m30cm。
80cmまでははさみ跳び。
1mまではベリーロールで跳んだあなたも、それ以上となると、もう跳べません。
 そこで、背面跳びに挑戦。
あぁ、考えただけで、怖い・・。

 ノアの三沢が亡くなった。
試合中、バックドロップを受けた後、動けなくなり、そのままあの世へ行ってしまった。
さぞかし、無念だったろう。
 その関連ニュースで、ここ数年、プロレスで亡くなった事例が紹介されていた。
その中に、一般人が「プロレスの練習をしていて」亡くなったケースがあった。
こうして、一般人がやっても「プロレス」というのは、プロレスとは、プロがやるレスリングではなく、プロレスという名の独自のスポーツであることの証左だろう。


 小学校の頃、4人の仲間を募り、プロレスの団体を立ち上げた。
4人が4人とも、プロレスファンというわけではなかった。
ただ、プロレスファンの僕が「あること」をやってみたかったのだ。

 団体の旗揚げ日は、土曜日に決まった。
「第1回 ワールドリーグ」だ。
なんのワールドだかわからないが、子どもはそういうことに疑問を持たない。

 リングは、近くの高校の前の草むら。
ロープはないので、ロープに跳ぶことはできない。この時点で、ドロップキックはあきらめた。
午前で授業を終えた高校生が、子どもの遊びに目を細めて通り過ぎる。

 観客はいない。
第1戦は、僕 対 ジャイアンのシングルマッチ。
10分1本勝負。

 シンちゃんがレフェリーで、オノ君がタイムキーパー。
家から持ち出した、ボクシングのゴングが鳴った。

 ジャイアンは学年で一番背が高い。
しかも、空手を習っている。がちがちの優勝候補だ。
学年で二番めに背が高い僕も、初めからかなわないとわかっている。
内緒だったが、僕はこの試合、ジャイアンをひっかいて、反則負けになるつもりだった。

 プロモーターは僕。
僕には 「あること」をびしっと決めて、ワールドリーグ初代優勝者となる戦略があったのだ。

プロモーターの僕は、第1回ワールドリーグのレギュレーションを次のように決めた。

・フォール勝ち、ギブアップ勝ち:得点3
・反則勝ち:得点0
・引き分け:得点1

 NWAやAWAといった由緒あるタイトルは、反則勝ちでは王座が移動しない。
だから反則勝ちに価値はないのだ。
そんな理屈をこねて、このルールを通した。

 僕の優勝への道すじはこうだ。
初戦、僕がジャイアンをひっかいて反則負けになる。
ジャイアンに勝ち点はつかない。

 あとの2人、シンちゃんとオノ君にジャイアンが順当に勝てば、勝ち点6。
僕がシンちゃんとオノ君に勝っても、同じ6点。
これでは、直接対決で負けている僕の分が悪い。

 そこで、僕が審判をするジャイアンとオノ君の試合では、しきりに両者に割って入り、時には注意を与え、ついでに長々と説明を入れたりする。
そうして、10分のタイムアップを狙う。
もしくは、何かチャンスがあれば、オノ君に難癖をつけて、反則負けにする。
それで、ジャイアンの勝ち点は、よくても4点どまり。

 僕は、これに勝てば勝ち点6で優勝という試合で、シンちゃんを相手にあの大技を決める。
そう、アントニオ猪木がストロング小林に決めた技。

“原爆固め ジャーマンスープレックスホールドだ。”

 僕はこの日のために、特訓を積んでいた。
ジャーマンといえば、レスラーズブリッジ。
真後ろに反り返りながら、手を使わず頭で着地するというもの。
 首が強くなければ大変に危険な行為であり、よい子の皆さんは、絶対に真似をしてはいけない荒技。
それを、よい子の僕は極秘裏にものにしていた。

 ところが、初戦から計算が狂った。
試合開始早々、ジャイアンが攻勢に出る。
グラウンドでヘッドロックを決められた僕は、全く動けない。
 そこで、予定よりちょっと早いが、ジャイアンの左腕を思い切り、ひっかいた。
レフェリーが気づいて、

「 ワン、ツー、スリー・・・・・。」

とカウントを入れてくれさえすれば、そのままカウントファイブを聞いて、僕の負けになる、・・・・・・はずだったが、レフェリーのシンちゃんが気づいてくれない。

 このままでは、僕のほうがもたない。
しびれを切らした僕は、

「 シンちゃん、これ反則だろ?」

と、ひっかいている左手をアピール。
この日、僕は自ら反則を申告する、世界で初めてのレスラーになってしまった。

「 ちょっとタンマ。
そんなことじゃ困るよ、シンちゃん
こういう時は、きちんと見てくれなきゃ。」

そう言いつつ、ヘッドロックを解いてもらったのだが、すっかり4人のムードはしらけてしまった。

 しばらくの間、4人は草むらに座り、やがて、もうやめようかという意見でまとまった。

“ あぁあ、あんなに練習してきたのにな。”

僕は、すっくと立ち上がった。
そして、自らの技量をアピールすべく、草むらに向かって、レスラーズブリッジを決めた。
その時、思いあまって、角度が深く入った。

“ やばい・・・。”

すぐ起き上がり、首をチェックした。

“ 大丈夫だ。
ちゃんと頭はついている。”

 ワールドリーグは、開幕初戦の3分で終わった。
あの日、そこで僕らのプロレスが終わらなかったら、僕が終わっていたかも知れない。

















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月20日(土)のつぶやき

2018-10-21 02:57:49 | _HOMEページ_
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月20日 二宮金次郎

2018-10-20 07:00:00 | A,日々の出来事_






 日々の出来事 10月20日 二宮金次郎






 今日は、二宮金次郎が亡くなった日です。(安政3年10月20日)
二宮金次郎は、1787年9月4日に小田原市で生まれました。
幼い頃、両親と死別し伯父の家に預けられ、貧困の中で農作業の傍ら学習し、24歳で生家を再興しました。
そして、二宮金次郎は、小田原藩などの各地で勤勉・倹約の精神を説き、財政再建や農村復興に尽力しました。
 学校にある“薪を背負って読書する姿の二宮金次郎の像”は、幸田露伴が少年向けの伝記“二宮金次郎翁”を書いたとき、このときの苦学する様子を口絵に描いたものがモデルになっています。






 二宮金次郎
















☆今日の壺々話









 学校の日陰でひっそりと暮らしていた二宮金次郎の像は、その後、本人の業績とまったく関係の無い所で、一躍脚光を浴びることになります。



     二宮金次郎



 夜の学校は、ほとんど二宮金次郎の独壇場です。
学校の怪談によると、ほとんどすべての日本中の学校で夜になると二宮金次郎が走っています。
グラウンドや廊下や教室は、二宮金次郎の足跡だらけです。
 二宮金次郎の像が無い学校では、理科室の人体模型やガイコツ等の、何か他のものが走らなければなりません。
人体模型が走った後には肝臓や腎臓が、ガイコツの場合は肋骨が廊下に落ちています。
 さらに、二宮金次郎は図書委員として活躍し、図書室の受付カウンターで図書カードを使って占いをやっています。
 音楽室では、壁に掛かったベートーベンとピアノを弾きながらデュエットし、夏場は、プールでオリンピック選手並みに泳ぎます。
開校記念日では、夜中にクルッと一回転する二宮金次郎もいるようです。
 また、背負っている薪の数は数える度に変わり、数え終わった生徒は恐ろしいことに死んでしまうとも言われています。
 読んでいる本のページも光速でベラベラベラベラと捲っていると言う噂も流れています。
そして、何を読んでいるのか覗き込もうとすると睨み付けられたり、慌てて本を閉じたりするようです。
慌てて本を閉じるくらいですから、この本には、とっても、すごいものかいやらしいものが載っているのです。
 これほど有名な二宮金次郎の像を学校から撤去するのは、子供の夢を潰しますから止めた方が良いのです。

















     恐怖体験




昔、怖がりな友達と深夜のドライブに行った時にやったイタズラ。
自分が運転。

①,まず人けのない、とんでもない山道へ行く。

②,「 なぁ、今の女の子って、こんな時間にこんなとこで何してるのかな?」
  とか言う。
  止まりはしない。
  もちろん女の子なんか見てない。

③,15分置き位の間隔で「 あれ?さっきの子じゃない?」とか言う。

④,3回目で「ちょっと声かけてみる」とか言って車を止めて降り、誰も居な
  い所で話してるフリをする。

⑤,びびりまくった友達が勝手に車で逃げる。
  俺を置いて。

⑥,途方に暮れる。

 あの時は本当に参った。
















小学校の七不思議



うちの出身D小学校の七不思議

1)理科室で骸骨がカップラーメンを作っている。
2)蒸し暑い夜にプールで骸骨が泳いでいる。
3)放送室のマイクを使って骸骨がカラオケをしている。
4)校庭の鉄棒で骸骨が懸垂をしている。
5)体育館で骸骨が自分の頭でバスケしている。
6)図書館で骸骨が本を読んでいる。
7)夜の2時に校庭で一人ボケをするとどこからか突っ込みが返ってくる。骸骨の仕業らしい。


その近くにあるK中学校の七不思議の一部

3)音楽室で夜中にD小学校の骸骨がピアノをひいている。
5)校長室の歴代校長の写真から、バイクが好きだった校長が夜中に飛び出してバイクで走り回る。偶にD小学校の骸骨とツーリングしている。


町内でささやかれている噂

1)とある釣りスポットで夜中D小学校の骸骨が自分の骨をルアーにして釣りをしている。
2)夜中にD小学校の骸骨がランニングしている。
ラジオ体操もしていた。

アグレッシブすぎだろ骸骨。

















小学校の黒歴史





小学校は黒歴史しかない。

1年生…運動場で野グソ→先生絶句
2年生…個人個人のミニトマト栽培で勝手にクラスメートのトマトを収穫、胃の中へ→反省文
3年生…月の妖精()という自己設定
4年生…学校のトイレの個室間を敷居を乗り越えて移動し、全個室ロック→反省文
5年生…>>6(私の書き込み)の通り、教室でうんこ→ばれず(ばれてたかもしれない)
6年生…今までを振り返り、自分に絶望して同級生と同じ中学には行きたくないと決心→中学受験

中学からは新天地で特に黒歴史を残すことなくがんばりました。
小学校の同窓会だけは行きたくない…。



小学校の時、みんなが図書室行ってる間に教室の片隅でうんこした
その時図書室にいなかったのが私だけだったので当然疑われたが知らぬ存ぜぬで押し通した


教室でうんこってどういうことww
漏らしたの?


いやもらしたわけじゃないんだけど、当時担任がバカ教師で(私が言えたことじゃないけどw)色んな事件があって、その先生がみんなから嫌われてたんだ。
でも、恐怖政治っていうか、誰も意見できない感じだったから、私が小さな仕返しとしてうんこしてやろう!みたいな。
今思えばよくわかんない思考だけど、結果的に誰のものともわからない特大うんこをその先生に片付けさせることができたので、今でもちょっと満足してる。


上を見て、ちょっと自分の小学生時代と似てると思った。

一年生・・・帰りのHRの時に友達を誘って学校を抜け出し、先生達大騒ぎ。
危うく警察沙汰になる所だったが公園で取り押さえられ一件落着。
後日反省文&トイレ掃除。

二年生・・・一年間テストを白紙で提出し続けた。
何度怒られてもやめなかった為、知能遅れだと思われ
危うく養護学級に入れられそうになったが、
最後のテストではちゃんと書いて提出したので免れた。

三年生・・・常にスカートをめくってパンツを見せびらかしていた。
先生に注意されても「本当は先生だって見たいくせに」とか言ってやめず
保護者呼び出し&反省文。

四年生・・・好きな男子に無理矢理キス。
その男子は特に何も言わなかったがそれを見ていたクラスメイトが騒ぎたて
先生に報告されて相談室で長々とお説教をくらう。

五年生・・・遠足で一人別行動。
知らないお兄さんとお弁当を食べてる所をクラスメイトに見つかり
先生に報告されて激怒され、後に反省文。

六年生・・・修学旅行で夜、好きな男子の部屋に行きお菓子パーティー。
家から持ってきた父親のエロ本を皆で読み、先生が見まわりにくるので
押入れに隠れて、狭いので男子の上に跨がって就寝。
朝、その状態で先生に発見され大問題となり
反省文&後に性についての学年集会が開かれた。

なんだか、今思えば相当なDQNだったな。
卒業式で先生から聞いたのだが、職員室はいつも私の話題でもちきりだったらしい。
思い出すと消えたくなる。















参観日



 小学校ののとき、児童たちが「将来の夢」について作文読んでた。
まだ低学年ということもあり、夢いっぱいの子どもたちが、
「大きくなったら中村俊輔みたいなサッカー選手になります」とか、
「大きくなったら、お母さんみたいな看護婦さんになります」とか言ってる中、
「大きくなったら総理大臣になります」と言う子がいた。
 その子の作文の内容が、
「大きくなったら総理大臣になります。
そして、子どもに変な名前をつけちゃいけないっていう法律を作ります。
変な名前だと子どもはイヤです。
大人は、子どもがイヤなことをしたらいけないと思います。
子どもに変な名前をつけた大人は罰金にします。
それから、変な名前の人は自分で変えてもいいっていう法律を作ります。」
と宣言してて、教室内がしーんと静まり返った。
 作文を読み始めるまでは、教師の制止も無視してビデオ撮りまくって、
「こっち向いてー。もっと大きい声で読んでー。」とかやってた、その子の両親が
ビデオカメラとめて無言でうつむいてるし。
その作文を読んだ子の名は「恋獅子(れんじし)」君。

















友人Tと僕




 小学生の頃、放課後、友人Tと校庭での遊びを終え教室に戻ると、オカルト好きなB子と数人の女子が、コックリさんをやっていた。
当時『学校の怪談』と言う本が馬鹿売れしていて、ちょっとしたブームだった。
 中でもB子は自称霊感少女であるらしく、

「 コックリさんをやる時は、私がいれば大丈夫。何か取り憑いても、私が御祓いしてあげる。」

と言って、みんなから慕われていた。
Tは“アホくさ”と軽蔑したような顔で女子を睨み、

「 コックリさんなんて、いるわけねーじゃん。」

と喧嘩を売り始めた。
 するとB子は、

「 そういう事言わない方がいいよ、呪われちゃうよ。」と応戦。
「 はっ?馬鹿じゃねえ?
俺んち寺やってるから、周り墓地だけど、人魂の一つも見た事ねえよ!」

とTが吠えます。
 すると女子の中の一人Cちゃんが、

「 でも、これ勝手に動くんだよ・・・。
嘘じゃないって。」

と怖がりながら、コックリさん体験を話す。
 そうよそうよと女子たちが調子に乗り出し、

「 だったらK君(僕です)とTも一緒にやろうよ。」

と言い出した。
Tは、

「 上等だよ。」

とやる気まんまん。
僕は恐がりだったので遠慮すると、

「 じゃあKは先に帰ってろよ。」

とT。
 帰っても良かったんだけど、僕はCちゃんの事が好きだったので、残って見ている事にしました。
いざコックリさんが始まりましたが、僕はCちゃんの事ばかり気にしていて、あまり経過を見ていませんでした。
憶えている事と言えば、10円玉が動いた際、Tの、

「 誰だよ動かしてんの、わかってんだぜ。」

と言う声がしきりに聞こえていました。

 時間も経ち、例の「コックリさんお帰り下さい」のくだりへきました。
すると、怖い話で良く見かける『NO』を繰り返し、帰ってくれないとい事態になりました。
見守る女子が動揺し始めると、B子は「大丈夫。私の霊感で何とかするわ」と、インチキ臭い事を言い出す。
 Tはその状況を馬鹿にしたような笑みで見つめ、

「 はいはい。終り終わり。」

と、コックリさんの紙をぐしゃぐしゃに丸め投げたのです。

「 ちょっとあんた!何やってんの!」と怒るB子。
「 これで俺呪われたんだろ?
へっへっへ。
どうせ何も起きないけどな。」

とフラグを立てるT。
 どうして良いのかわからず混乱する女子たち。
ちょっと涙ぐんでいるCちゃん。
Cちゃんに「大丈夫だよ」と言ってやりたい僕。
そんなこんなで、混乱しつつもお開きになり、帰宅する事になった。

 その日の夜、Tの家に泥棒が入った。
学校では「呪いのせいじゃない?」と噂されていたけど、

「 何で呪いが盗みするんだよ。
あほか!」

とTは余裕だった。
 何でも、大した被害はなかったらしい。
僕も、これはさすがに偶然だろ、と思っていた。
 数日後、Tが車に撥ねられた。
Tの自転車はタイヤに潰されたが、Tにはかすり傷すらなかった。
これは呪いのせいだろと思ったけど、Tは、

「 いや、完全に俺の不注意。
曲がり角かっ飛ばしてったからな。」

と笑っていた。
何でも、その曲がり角では、前々から何度もぶつかりそうになっていたとか。

「 あれだな。
ああいう時って、スローモーションに感じるって本当だな!
ノロイのせいか。」

などと冗談ぶっこいていた。

 更に数日後、男友達数人で鬼ごっこをして遊んでいた時、Tが階段を踏み外し下まで転げ落ちた。
みんなその場で凍って、「あわわ」になってしまった。
もしかして何者かに突き落とされたんじゃ・・・と思った。
 が、Tはピョンと立ち上がり、

「 危ねえ!
階段の途中に犬の糞があった!
踏まないようにしようとしたら落っこちたぜ!」

と爆笑。
僕たちも安堵と面白さに爆笑。
Tは擦りむいただけで済んだ。

 更に数日後、図工の時間、Tは彫刻刀で指を怪我した。

「 呪いだ!!」

とみんなが騒いだ。
B子が、

「 T君の手を掴んでいる白い手が見えた。」

と言って怯えたが、Tは怪我した指を見せびらかせながらプゲラっと笑った。
 勝手に手が動いたとかそんなんではなく、指を広げて置き、指の間をトントン彫刻刀を行き来させる、度胸試しに失敗したからだった。
(エイリアン2で、ヒューマノイドがやってたやつです)
ただ、普段面白い人気のあった先生にこっぴどく怒られ、凹んではいた。

 その他にも、Tの身に色々な事故怪我はあったけど、呪いなのかと言われればどれも微妙だった。
学校では「Tは呪われているが、それ以上に強い守護霊に守られている」と噂された。
ただB子だけは、「呪われている」と言い続けた。

 ある日、遠足にて川辺の飯盒炊飯をやっていた。
「川には入るなよ」と先生は言っていたが、そう言われて守る者もいなく、食後にはみんな川に入ってばしゃばしゃ遊んだ。
比較的穏やかな流れだったし、そんなに深い場所もなかったので、先生も笑って見ていた。

 しかし、事故が起きた。
B子が溺れたのだ。
川の底にあったガラスの破片を踏んでしまい、パニクったそうだ。
助けたのはTだった。

「 呪われているのは、私かもしれない・・・。」

と泣きじゃくっていたが、Tが、

「 心配すんな。呪いなんかないって。
それに呪われるんなら、俺だろ?
お前は平気だよ。」

と励まし、安堵したようだった。
それ以来、B子はオカルト的な事を言わなくなったし、Tの事も悪く言わなくなった。
というか、絶対好きになっていた。

 ある日、Tと二人で帰っている時に、

「 ねえ、T君は怖くないの?
やっぱ呪いって嘘かな?」

と僕は聞いてみた。
Tはちょっとだけ真面目な顔になって、

「 誰にも言うなよ。」

と前置きをすると、

「 実はあのコックリさんやった日によ、夢の中に狐が出てきた。
んでビビってさ、父ちゃんにお経唱えてもらって、近くのお稲荷さんに油揚げ持っていった。
だけど、その後でも俺、怪我とかしてんだろ。
ってことは、呪いのせいなんかじゃなくて、ただ単に俺が不注意だってことじゃん。」

と言って、Tは恥ずかしそうに笑った。
良く解らなかったが、

「 そ~かァ・・・。」

と、何となく納得した僕でした。
















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月19日(金)のつぶやき

2018-10-20 02:55:02 | _HOMEページ_
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の出来事 10月19日 精神科医チェーザレ・ロンブローゾ

2018-10-19 07:00:00 | A,日々の出来事_







  日々の出来事 10月19日 精神科医チェーザレ・ロンブローゾ







 今日は、チェーザレ・ロンブローゾが亡くなった日です。(1909年10月19日)
チェーザレ・ロンブローゾは、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者です。
1876年、チェーザレ・ロンブローゾは著書である“犯罪人論”で、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を検証しました。
 この著書である“犯罪人論”は、刑務所で処刑された囚人の遺体を解剖し383個の頭蓋骨の大きさや形状を観察、また、刑務所や精神病院で3839人の受刑者の容貌や骨格を、兵士のものと比較し、“犯罪者には一定の身体的・精神的特徴が認められる”との調査結果をもとに、生来的犯罪人説を発表したものです。
 この生来的犯罪人説は、犯罪の原因を生育環境に求める学者から激しく攻撃され、次第に衰退しました。
でも、当時は悪魔の仕業と言われていた犯罪を、実証主義的な手法を導入して分析する大変革をもたらしたチェーザレ・ロンブローゾの業績は高く評価されて良いでしょう。
 さて、現在では、犯罪社会学の立場の“社会環境によって後天的に犯罪者となる”は常識と考えられていますが、チェーザレ・ロンブローゾの先天的なものに原因を求める“犯罪生物学”は死に絶えたのでしょうか。
 1993年のオランダの研究で脳内伝達物質セロトニンと動物における攻撃行動との関係が注目されました。
その後、アメリカで、衝動的な殺人、あるいは計画的な殺人の原因を探る中で、攻撃性のカギとなる因子がセロトニンではないかという研究がされています。
新しい研究分野である分子生物学の発展によって、チェーザレ・ロンブローゾの説を復活させる日が来るかも知れないのです。



チェーザレ・ロンブローゾは色々な分野に影響を与えました。


 チェーザレ・ロンブローゾの言葉

天才と狂人は紙一重 (著書“天才論”より)

ハゲに悪人はいない (著書“犯罪人論”にハゲが無かったから)

ロ~ンブロ~ゾ~!!(黄金バットの悪役ナゾーが登場する時の雄叫び)







  チェーザレ・ロンブローゾ

















☆今日の壺々話










 

    映画“カリガリ博士”



  プロローグ

主人公のフランシスが、世にも奇妙な体験の回想を語り始めます。


  回想

 フランシスは、友人のアレンとカーニバルの見世物小屋に入ります。
見世物小屋の中にはカリガリ博士と呼ばれる人物と、箱の中に23年間眠り続けている眠り男がいます。
 カリガリ博士は、この眠り男を起こし、フランシスたちに“この眠り男は、あらゆる質問に答えられる”と言います。
友人のアレンは笑いながら、冗談で眠り男に“俺の寿命は?”と質問します。
すると、眠り男は、“明日の夜明け”と答えます。
そして、アレンは翌朝、死体で発見されます。
 フランシスと恋人のジェーンは、カリガリ博士を疑い身辺調査を始めます。
そして、カリガリ博士が眠り男に催眠術を掛けて殺人を行わせていたことを突き止めます。
 それを知ったカリガリ博士は、眠り男に催眠術を掛けてジェーンを殺させようとしますが、眠り男は途中で心臓発作で死んでしまいます。
追い詰められたカリガリ博士は、精神病院に逃げ込み、実はその病院の院長であったことが発覚します。
そして、カリガリ博士は、病院の職員たちに取り押さえられ、拘束衣を着せられて独房へ収容されました。


  エピローグ

 妄想を語りながら拘束衣を着せられ取り乱すフランシスに、精神病院の院長であるカリガリ博士が、戸塚宏のように語りかけます。

“ 私なら直せる。”

実は、この回想はフランシスの妄想であったという話です。

                         FIN


 ・・・・・・・・・。


「 えっ!
 この話がどうして、チェーザレ・ロンブローゾと関係があるかって・・・?
 精神病院の院長であるカリガリ博士のモデルが、精神科医のチェーザレ・
 ロンブローゾ・・・では、ありません。
 それはね。
 眠り男の名前が、チェーザレ・ロンブローゾから引用した“チェーザレ”
 なんです。」















     ウシ




男 「 先生、オレほんとはウシじゃないかと思うんです。」

医者「 いったい、いつ頃からそう思い始めたんだね?」

男 「 子ウシの頃からです。」















     院長先生




院長「 彼は自分をコマだと思っているので、この庭で一日中回っていま
   す。」

記者「 なるほど!」

院長「 彼は自分がライオンだと思っているので、この庭で一日中吼えて
   います。」

記者「 う~ん、なるほど!
   院長先生、どうも、ご案内ありがとうございました。」

看護婦「 院長先生、そろそろお部屋に戻る時間です。」














ドグラ・マグラ




息子が「ドグラ・マグラ」という本を持ってます。
表紙のイラストが怪しげです。
裏表紙に[これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。]
とあり、あらすじ的なことは書いてありません
どんな内容なのでしょう?
息子は大丈夫でしょうか?




ベストアンサーに選ばれた回答



夢野久作のドグラ・マグラですね。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
大丈夫です。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
それは単なるキャッチフレーズです。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
「日本三大奇書」と呼ばれるもののうちの一つです。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
記憶を失った男が、自分が精神病院に収容されていることに気づくところからはじまり、それから何だかんだある小説です。
推理小説です。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。
私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。


















病気特有の臭いって怖いな・・・




口臭も含めて、なんか病気によって特有の臭いってあるらしいけど・・・・。

<例>
・ペスト…リンゴのにおい
・腸チフス…焼き立てのパンのようなにおい
・ジフテリア…吐き気をもよおすような嫌な甘ったるい臭い
・黄熱病…肉屋さんのにおい
・麻疹…むしり取ってすぐの羽毛のにおい
・天然痘…腐敗臭
・壊血病…天然痘とは種類の違う腐敗臭
・猩紅熱、結核…独特の特徴的な、言葉では表現しづらい臭い
・リュウマチ熱…酸っぱい皮膚のにおい
・糖尿病…腐ったリンゴのような甘い匂い、アセトン臭
・通風…尿臭
・皮膚病(湿疹)…カビ臭
・精神的な病気…ほこり臭
・汗腺障害…強い汗臭
・蓄膿症…腐った、動物の屍骸に似た、突き刺すような膿のにおい
・肝臓病…アンモニア臭ほか、血液内の芳香性物質増加が口臭に出る
・腎臓病…尿臭、ブタや子ウシの肝臓を用いた料理と同様のにおい
・腸の障害または消化機能の不全…口臭
・腸閉塞…息が糞便臭
・昏睡状態の人…マツ材の香り



これ、怖いな。

病気関係なしに臭いって言われた場合はどうしたら…(´・ω・`)

「雰囲気が臭い」と言われた僕はどういった病気ですか?

足の裏から独特な不快な臭いがするのは何の病気ですか?

強く生きてください。


















精神科
  



 俺の職業は精神科の医者なんだが、この前ゾッとするようなケースに遭遇した。
俺の家の隣に、60代の夫婦と30歳ぐらいのその息子の三人家族が引越して来た。
息子はいわゆる引きこもりらしく、その姿を見かけることはあまりなかった。
まー、その家族の口からは聞けないが、そういう世間体とか気にして越して来たんだろう。
 その息子は日が経つにつれ、外に出る回数も減り、いつしか全く部屋から出て来ない完全な引きこもりになってしまったようだ。
毎晩のように、息子の部屋から母親の怒鳴り声が聞こえる。
玄関先で母親に顔合わせたりすると、笑顔で挨拶してくれるが、明らかにやつれて来ていた。
 隣の息子を見なくなってから、半年くらい経ったある日、隣の父親の方が“明日家の方に来て欲しい”とお願いしてきた。
個人宅に訪問して診察したことはなかったが、近所付き合いもあったし、了承した。
 そして次の日、その家を訪れると夫婦揃って出迎えてくれた。
“こちらです”と母親に案内され、息子の部屋の前まで来た。
母親が“開けるわよ!”とドアを開けるなり、“いつまで寝てるのよ!”と大声をあげながらベッドの布団を剥いだ。
 その姿を見たとき、俺は驚愕した。
ベッドには、顔のない裸のマネキンが1体横たわっているだけだった。
そして、父親にこう言われた。

「 診て欲しいのは、現実を受け止められない私の妻です。」


















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月18日(木)のつぶやき

2018-10-19 02:53:18 | _HOMEページ_
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。

-------大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ-------