日々の出来事 10月23日 丸山ワクチン
今日は、国際癌学会で日本医科大学の丸山千里教授が“丸山ワクチン”の治療成果を発表した日です。(1974年10月23日)
丸山ワクチンは、もともと皮膚結核、肺結核に対して開発された薬で、後にハンセン病にも効果が確認されました。
そして、この二種類の病気の患者にガンが少ないと言うことから、ガンに対するワクチンの作用を調べる研究が始まりました。
ガン治療に丸山ワクチンを試用した結果、ガンの縮小が見られるもしくは末期ガン患者の中にガンと共存して元気に暮らしている人がいるとマスコミが報道し、ガン治療薬として認可の手続き前に、世論の人気が先行することになりました。
その後、丸山ワクチンはガン治療薬として申請されますが、ガンに対する作用に不明な点が多く、治療薬として認可が下りませんでした。
そのため、治療にかかわっている人たちから認可の嘆願署名運動が起こるなどして社会問題化しました。
現在では、丸山ワクチンは放射線療法による白血球減少症の治療薬として認可されていますが、ガン治療薬としては認可されておらず、有償治験薬と言う位置付けのままの状態です。
そして、開発者の丸山千里教授は、丸山ワクチンがガン治療薬とならないまま1992年3月6日亡くなりました。
碌でも無い所にお金を使わず、国家挙げてガン治療に予算を投入すれば、今あるものより良い薬や治療法が開発されるものと考えられます。
丸山千里
☆今日の壺々話
薬1
町で名医と言われている医者のもとへ、とても美しいご婦人が訪れました。
「 先生、とても恥ずかしいことなんですけど・・・・。
私、おならがとまらないのです。
でも、音もしないし、臭いもまったくしないので、誰も気付かないので
すが・・・。
実は、今、ここでも数回のおならを・・・・。」
「 う~む、分かりました。」
先生は一週間分の薬を婦人に渡しました。
翌週、カンカンに怒った婦人が再び医師のもとを訪ねました。
「 先生、どうしてくれるの!
前より悪化したのよ。
おならは相変わらず出るし、それに耐えられない臭いもするようになっ
たわ!」
医師は少しも慌てずに答えました。
「 宜しい奥さま、鼻は治りましたね。
今度は耳ですな。」
薬2
「 旦那様、旦那様、起きて下さいませ、睡眠薬を飲む時間です。」
薬3
病院でかゆみ止めの薬をもらった。
説明書を見たら副作用に「かゆみ」と書いてあった。
効くのか、これ ・・・・?
WHOと戦って勝ったヤツ
1993年、日本にアジア太平洋地域インフルエンザ・センターが作られた。
それまでアメリカ、イギリス、オーストラリアにしかなかったセンターが、日本に設置されることになったのは、なぜか。
インフルエンザ・ワクチンは、毎年、WHOの専門家会議で、データをもとに今年流行しそうなインフルエンザを決定し、それに基づいて製薬メーカーがワクチンを作っている。
それまで日本はその元になるアジア各国の膨大なデータを収集し、WHOに送付する仕事だけをやっていた。
担当していた根路銘国昭(ねろめくにあき)氏は、これだけの仕事をやってるのに、日本にインフルエンザ・センターがないのはおかしいとWHOに手紙を書いた。
それに対する返事は、
「 WHOも国連の安保理と同じで第二次大戦の戦勝国で構成している。
よって日本は入れない。」
というものだった。
彼はさらに抗議の手紙を送ったが返事は同じ。
それどころか、WHOに批判的人物として、彼と日本に対し冷淡になったという。
ここで普通の日本人ならどうするだろうか。
なんとか謝罪して、今までどおりの扱いにしてもらおうと努力するか、そもそも抗議など最初からしないかもしれない。
だが根路銘氏は違った。
なんと、日本が集めていたアジアのデータを1年間、WHOに送るのをやめたのだ。
インフルエンザの大半はアジアから発生するから、そのデータがないとワクチンが作れない。
WHOは大騒ぎになったという。
そして翌年、根路銘氏にWHO専門家会議への招待状が来た。
その会議で、日本にアジア太平洋地域のインフルエンザ・センターを作ることが決定され、彼が初代センター長に就任することになった。
こうしてインフルエンザセンター長になった根路銘氏だが、WHOはアメリカの製薬メーカーの意向を受けた学者が力を持つ世界だった。
1993年フランスで開かれた国際会議で、アメリカが新開発した生ワクチンを、まず日本で使うべしという議題があがった。
日本は生ワクチンの効果には疑問をもっていて既に使わなくなっていた。
根路銘氏は、“日本を実験台にして、うまくいけば各国で使うつもりだろう”と感じたという。
その会議には日本の学者も数十人参加していたが誰も反対しなかった。
根路銘氏ひとりが、
「 日本は先進国であり、ワクチン政策に君たちの指導を必要とする国ではない。」
と反論した。
そこでアメリカの学者に、君たちのデータをOHPで映してほしいと頼んだ。
そして日本のデータと比較すると、日本のワクチンの方が明らかに効果があるとわかり、他の学者からも“ネロメの方が正しい”と意見があがった。
こうしてこの議題は流れ、日本人がモルモットにされるのを防いだ。
根路銘氏はこうも言っている。
「 この会議の後、対立したアメリカの学者とすごく仲良くなった。
日本人同士だとこうはいかない。」
またジュネーブのWHO本部で12人の専門家によるワクチン決定の投票において、アメリカのワクチン11票、日本のワクチン1票でアメリカ製に決まった。
もちろん1票は根路銘氏のものだ。
根路銘氏は科学的に見てこの結果はおかしいと、閉会30分のコーヒーブレイクのときに、2日間の討議で使った110カ国のデータをつき合わせてコンピュータにかけた。
するとアメリカ製は日本の半分しか効果がないと出た。
彼はこの結果を見せて、居並ぶ学者たちに、
「 君たちは政治家か、科学者か。
科学者ならこのデータをどう見る。」
と問いかけた。
すると議長がテーブルを2回たたいて、
「 私の判断で採決を取り消します。
ドクターネロメが提案した日本の意見に従います。」
と結果をひっくり返した。
“まるで映画のようだった”と根路銘氏は語った。
SARS
SARSの時、北京で隔離生活を経験した俺が来ましたよ。
当時は、結構有名な理系の大学に居たんだ。
北京で大流行する半年ぐらい前は、“なんか香港の方がヤベーらしい”みたいな噂程度のモノだった。
政府の大本営発表もあったから危機感は全くといって無かった。
外食の手洗い場が使われる事もほとんど無い。
ところが、どうも北京でも相当な数の感染者がいるんじゃないかって事がまことしやかに囁かれ始めた頃、政府による重大な発表があるということで,ある日みんなラジオやテレビ、PCに注意していた。
「 北京での感染者は十数名ではなく、800名あまり存在していた事が判明した。」
冷静さをもって語っていただろうニュースキャスターの表情とは裏腹に、北京はあっという間に様変わりしてしまった。
いつも渋滞していたはずの南北に一直線にはしる幹線道路には,猫の子一匹見当たらなくなり、スモッグで視界がぼやけたその道路はまるで永遠に続いてるように見えた。
ほどなくして、大学は外界との接触を避けるため全ての校門を予告無しに封鎖、外に住んでいた学生は締め出しを食らってしまった。
日々増え続ける患者数のニュース、次々と制限されていく活動範囲、寮のすぐ隣に突貫で建てられた煉瓦塀とその中の仮設住宅。
以前とはうってかわって人で溢れかえる食堂の手洗い場、救急車のサイレンで目覚める朝、授業における学生のゾーニング処置、ノイローゼから発熱してしまい、それをルームメイトに知られまいとひた隠す学生。
冷静さを失い、藁にもすがる想いでウィルスに効くとされる線香を灯しまくる人。
“お前が飲まなきゃこっちが迷惑するんだ!”と、無理矢理怪しげな漢方薬を飲ませようとする食堂のオヤジ、寮に帰ってその漢方薬の集団食中毒のニュースを見た時の脱力感。
“SARSに感染しても大学は責任を負わない”とする書類に署名を迫る大学関係者、非現実的な状況に逆にカタルシスを覚えてしまい始終興奮気味のクラスメート、脱走者(しかも後でわざわざご丁寧に大学の塀をよじのぼって帰ってくる)。
文字どおり「見えない敵」がいるわけで、冷静さを欠く人が多かったのが目に付いた。
正しい知識と前準備をしっかり整える事が何よりも重要。
凄い!凄すぎる、だが中国が結構まともに対処していて感心した。
マトモなもんか、超法規的措置のオンパレードだよ。
中国は救急車呼ぶのが自費なんだが、感染が疑われると乞食でも無理矢理押し込められる。
ところがその乞食は払う金が無いから走行中の救急車から飛び出して逃げるんだよ。
キャリアなのに。
地方の人間は都市の方がいい治療を受けられると思ってか、どんどん患者が入り込んでくる。
天津じゃ、市民が自警団組んで都市間の道路を土嚢で封鎖しやがった。
大規模な患者隔離施設が無理矢理作られようもんなら、近隣の住民がそれこそ一揆よろしく打ち毀しに行くんだぜ。
冷静ささえあれば、ほとんどの二次災害は防げたはずなのに。
KOEEEEEEE!
で、こっからが日本にも関係してくる話なんだが···。
あまりの緊急事態にとうとう外務省が帰国勧告を出した。
外務省が勧告というのは、ほぼ命令に近い。
“指示に従って帰国しないと帰れなくなるかもしれません”って事だ。
未練の無い短期留学生は、早々に帰国してる人も多かったが、学部生、研究生は帰るわけにはいかなかった。
だが、ここまできて残り少ないほとんどの日本人が帰国せざるを得なくなった。
俺もそのうちの一人だ。
全てが解決した後再度入国するためビザの申請を行うんだが、申請は学校外にある公安局でしか行えないこともあって、大学が集団申請および航空券購入の肩代わりを行う事になった。
もっとも、この大学側との交渉も難航を極めたんだが。
帰国の日になり、俺らはマイクロバスに揺られながら死んでしまった街を横目にガラガラの空港へと向かう。
ほっと一息つきながらも、ターミナルで搭乗を待つ日本人御一行様。
ところが、予定の搭乗時刻を過ぎても搭乗アナウンスが行われない。
15分、30分……次第に嫌な空気がたちこめてゆく。
小一時間ほどしたところで、ようやくアナウンスがあった。
「 関空行きの便は交換不能の部品に問題が発生したため、キャンセルとなりました。
つきましては、関空へご出発の皆様には成田行きの便にご搭乗頂くか、北京で一泊してもらうこととなります。」
疲れに疲れきって、やっと辿りついた空港で俺らを待ち受けていたのは航空会社からの信じられない裏切りだった。
搭乗数が無いものだから、成田行きと合わせてコストカットしようとする会社の思惑は誰の目にも明らかだった。
無駄だとは分かりつつも、フライトアテンダントとの押し問答が始まる。
早く脱出したいのに北京に留まれとはどういう了見か、関西の人が成田へ行った後どうやって関西へ行けというのか、一体運賃は誰持ちになるのか、そもそも機体の故障なんてフカしじゃないのか。
航空会社の提示した解決方法は、“成田から新幹線もしくは国内線で関西へ行って頂く”との事。
冗談じゃない。
俺らはこの時期に北京から日本に入国しようとしてるんだ、いきなりおいそれと公共の交通機関を使っていいはずが無い。
だが、超法規的な措置は相手が日本人でも通用するようだった。
こんな状況で集団心理に逆らって航空会社に反目できる人などいるはずもない。
俺らは結局航空会社の甘い提案を受け入れてしまった。
早くこの場から立ち去りたいという気持ちは確かにあった、そんな他のみんなに逆らって航空会社の倫理を説く場面でもなかった。
関空行きの便に乗る予定だった搭乗者は皆成田行きの便に搭乗し、羽田で一泊した後各々のマスクをかなぐり捨て、PEKと印字されたトランクのテープを破り、さながら一仕事終えた銀行強盗犯が人目を忍んで帰路につくように国際線に乗り込んだ。
国際線は他の乗客も多く、日本語での喧騒から離れて久しい俺らはまるで自分が非難されているかのような錯覚だった。
そのざわめきから逃げるようにイヤホンをかぶり、ジャックを無理矢理座席に差し込んでも、聞こえてくるSARS関連のニュースが耳から離れなかった。
とまぁ、こんなとこだ。
もし俺らが原因で、日本で感染が拡大なんかしてたら、その航空会社は倒産の憂き目にあってただろうな。
どことは言わんが。
日本は人権がややこしくて、帰国した際もこれといって厳密な検査を受けたわけじゃない。
危機感は持っておいたほうがいい。
SARSのとき空港のサーモグラフィに貼ってあった言葉
『これはテストです、問題を発見する為や人権を無視した拘束を行うものでもありません。』
忍者の薬
小さな定食屋やってるんだけど、近くに研修外国人用の宿泊施設があるので外国の人がよく来る。
で、暑くなりはじめるこの時期になると100円玉もってこっそり私に近づく人がいる。
用件は「忍者の薬をくれ。」
彼らの言う「忍者の薬」とは梅干。
ばあちゃん直伝の梅干を店先で売ってる。
だいぶ前に夏ばて気味の研修外国人に、日本古来の食品で夏ばてにいいんだよとあげたら効いたらしく、「あれはグレイトだぜ・・・」と申し継ぎされているらしい。
しかし、外国人仲間の間では、
「梅干?あれは人間の食い物じゃねえ!
日本人はなんであんな物食うんだろうなHAHAHA。」
とやりあってるらしく、おおっぴらに買えないから、こっそりと私に耳打ちしにくる。
梅干が外国人にも効くのかと、こちらもびっくりだが、彼らの間では私は忍者の女首領扱いになっている。
虫歯
俺は生まれつき虫歯になりにくい体質だった
そのため、ずっと歯医者というものに行ったことが無かった
しかし、高一の夏に部活の帰りの途中自転車で急ブレーキをかけたとき、顔面の口の辺りを自転車のハンドルのフレーム部分に撃ちつけ一本前歯が欠けてしまった。
その他に外傷は無かったが、すごく痛かった。
おそらく歯が欠け、歯の神経がむき出しになったためかな。
そこで、家に帰ってすぐに母親に言って歯医者に連れて行ってもらった。
歯医者についたが、その歯医者にはアンパンマンの絵本やぬいぐるみなどが置いてあり小さい子しかいなかった。
相場は4~12歳で、贔屓目にみても、15までっぽかった
それもそのはず、そこは妹(小4)の行きつけの基本的に子供専門のとこだった。
でも、母親も虫歯になりにくい体質のため、歯医者はそこしか知らなかった。
歯が欠けたのを見てあせっていたのもあって、この歯医者に来たわけだ。
そして、治療が始まった。
歯科助手の可愛い女の人の胸が頭に当たる。
ふにふにと気持ちいいw。
正直歯医者って悪くないなと思った。
しかし、助手の人の適当な処置が終わると、歯医者のおっさんと入れ替わってしまった。
いよいよ本格的に治療が始まるわけだ。
こ・・こわい。
そして麻酔を打たれたわけだが、俺はその地点で泣き出した。
正直、痛かった。
歯医者のおっさんも、周りの歯科助手も幼女も幼児も、16の巨大なおれがたかが麻酔を打たれたくらいで泣いたことに驚いたのだろう。
全員こっちを見ている。
幼女も幼児も全員こっちをみた。
場が凍りついたが、俺はお構いなしに泣きじゃくった。
そして、治療中はずっと泣いていた。
看護助手の人に「いたくないよ いたくないでちゅよ」と赤ちゃん言葉であやされる始末。
歯医者のおっさんはしかめっつらで終始不機嫌な様子(あまり見る余裕はなかったけど)。
そして治療が終わった。
痛かったし怖かった。
看護助士さんが「よくがんばったね」と褒めてくれた。
皮肉で言ったのかも知れないがうれしかった。
しかし、俺は恐怖の後の安心感からまだ泣いていた。
すると、となりに座っていた幼女が俺にペコちゃんのぺろぺろキャンディーをくれた。
(どうやら10歳未満ぐらいの子が飲食可能な場合、治療が終わったらもらえるやつ)
おれは泣きながら「あでぃがどう・・」といってもらった。
けど、おれは麻酔してたから、その場ではそのアメを食べることはできなかったんだ。
医者
まだ自分が赤ちゃんだった頃のことを、親から聞いた話です。
自分は、どうやら生まれながらにして凄いアトピーだったらしい。
だったらしいと言うのは、現在アトピーで無いのと、その頃アトピーなんて、まだ一般的に言われていなかったから。
とにかく頭の天辺から 足のつま先まで、ブツブツとデキモノが出た醜い赤ちゃんだったらしい。
ある日 両親のもとに医者の肩書を持った人物がやって来て治療を任せてくれないかと言ってきた。
聞けば、その医者が開業している病院は、割と近くの場所にあるとか。
次の日 母親が、自分を連れて約束の時間に訪れると、待合室には一人の患者の姿も無く医者自らが出迎えてくれた。
で、色々診察をして 飲み薬を出され「これは毒素を出す薬だ。」とか「必ず時間道理に飲ませろ。」とか、その頃の医者にしては、珍しく細かくアドバイスをしてしてくれたそうだ。
母親が「次は、いつ来たらいいですか?薬が無くなる前の方が…」と言いかけた時、「もう 大丈夫です。これで治りますから。」と言われ 半信半疑で帰って来て、医者のアドバイス通りに薬を飲ませると、3日後には ツルツルすべすべの 赤ちゃん本来の肌に戻った。
余りの嬉しさに 母親は、手土産を抱えて、その医者にお礼を言いに行こうとしたんだけど、何故だか病院が見つからない。
かつてそこに病院があったような空地すら無い。
近くの人に聞いてみても「ここいら辺に、病院なんてありませんよ。」と言われるだけだった。
そんな話を聞かせてくれる度に、「何故、家に来たんだろう?誰かの紹介とも言っていなかったし、病院だって目印のお豆腐屋さんはあるのに、あんな立派な病院が無いなんて・・・。」と不思議がっていた。
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