新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

南仏・コートダジュールへ⑮ マティス中 

2022-01-08 | 南仏・コートダジュール

 ニースに戻り、マティス美術館に向かった。

 マティスは1921年に初めてニースのサレヤ広場に居を構え、その後コートダジュール周辺に何度も転居しながら「ダンス」や「ジャズ」などの連作を発表した。

 さらに、前回述べたように「ロザリオ礼拝堂」の仕事にかかり、1954年の死去まで、この地で活動を続けた。そんな活動の一部を展示するマティス美術館は1963年にオープンしている。

 入ってみると、ここにはロザリオ礼拝堂のためのデッサンなどが多数展示されていた。それで、入れなかった悔しさが少しは解消することが出来た。これは聖ドミンゴの像。余計な線を使わずにすっきりと仕上げた人物像は、「すごい!」とうなってしまった。

 こちらも礼拝堂のステンドグラスに使われたデッサンだ。「命の木」と命名された作品。

 この他、代表作ダンスシリーズの切絵もあった。なんか、悔しかった気持ちがスッと落ち着いたような感じで美術館を出ることが出来た。

 帰り際、振り向くと美術館の奥の空がほんのりとピンクに染まっていた。

 その近くにあったシミエ修道院。

 内部は無人状態で、どこか厳かな雰囲気が満ちている。

 外に出ると、林越しに見事な夕焼けが迎えてくれた。

 シミエの丘は高台にあるので、ニースの街並みが見下ろせる。

 山と街とのハーモニーをたっぷり鑑賞できた。奥に真っ白な雪をかぶった山も見える。

実はシミエ・フランシスコ修道院にはマティスの墓があるはずなのだが、暗くなってしまったので、翌日出直した。

 翌朝、遠くの山越しに光っているの地中海を見つめながらマティスの墓へ。

 シミエ地区は広い公園になっていて、緑地が広がる。

 マティスの墓は、多くの墓が集まる場所ではなく、標識に従って階段を下りた全く別の区画にあった。

 マティスの墓にも沢山の石が載せられていた。

 また、別区画にはデュフィの墓も見つかった。

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑭ マティス上 やっとたどり着いた憧れのロザリオ礼拝堂の、ドアが開かない!?

2022-01-04 | 南仏・コートダジュール

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。新年もコートダジュール企画を続行して行きます。

 シャガール編に続いては同じくこの地域に住んだ画家アンリ・マティス編を開始します。

 マティスにもゆかりのヴァンスには、ロザリオ礼拝堂がある。マティスが晩年に心血を注いだ礼拝堂だ。

 この礼拝堂には感動的なエピソードがある。

 マティスがこの仕事を引き受けたのは77歳の時。きっかけは、ジャック・マリーという、ある修道女からの相談だった。彼女はかつてマティスが病に倒れた時に、手厚く看病してくれた人物で、モデルも務めたことがあった。彼女はその後修道女となっていて、新しい礼拝堂の建設を計画したが、なかなか実現は難しい状況だった。

 それを聞いたマティスは、この話を「神からの贈り物」と受け止めた。そして病弱な体をものともせず、1948年から3年をかけて完成にこぎつけた。

 そんな心のこもった礼拝堂にやっと会える!

地元の人に「ロザリオ礼拝堂は?」と尋ねても通じなかったが、「マティスの教会」と言ったらすぐにわかった。

 少し歩くと坂の上にその姿を発見した。白い外壁がまぶしいほど。屋根も青と白のすっきりした色彩だ。

 坂を上って、ようやく目の前に礼拝堂が現れた。

 壁には聖ドミニコと聖母子の姿がマティス独特のタッチで描かれている。

 窓はステンドグラスの光を跳ね返してキラキラ。

 十字架を表現した屋根の上の柱が金色に輝いている。

 マティスは献堂式で「この作品は、私の芸術家人生のすべての結果です」と語ったという。

 さあ、いよいよ礼拝堂に入ろう!と入口に回って見ると、

 何と「22日まで休み」の張り紙が。日本出発前にホームページでチェックした時には「12月は17日まで休み」とあったので、18日に訪れたのだったが・・・・。20日にはニース出発なので、残念ながら今回は難しい状況になってしまった。

 仕方なく、窓から透けて見えるステンドグラスのデッサンを覗いたり、

 光を受けてシルエットとなった十字架を写真に撮ったりして、

 何度も振り返りながら、礼拝堂を後にした。

(なお、トップの礼拝堂内部の写真は、絵葉書の複写です)

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑬ シャガール下 彼の住んだ街の小学校には、シャガールらしい絵本のような壁画が飾られていた

2021-12-31 | 南仏・コートダジュール

 サンポール・ド・ヴァンスの町を歩いていると、道沿いにシャガールの絵が標識となって立てられていた。絵の左側部分に描かれていたのは、まさにサンポールの街並み。

 塔の角度も一緒で、シャガールは実際にこの場所で描いたんだろうな、と実感できる標識だった。

 そんな風景を見ていると、視野の隅に何やら壁画のようなものが映った。

 近づいて行くと、少し下った場所に学校がある。「サンポール小学校」

 校舎脇に大きなモザイク画が掲げられていた。

先生に聴いてみると、この壁画はシャガールの死後、彼のデッサンを基に学校敷地内に造られたものだという。

この地区と、ここに住み、育つ子供たちは、今でもシャガールの大きな愛に包まれて息づいているのだなあ、という気分になってきた。

 翌日、バスでシャガール美術館を訪ねた。1973年シャガールがサンポールに移住してから7年後、彼の生存中に開館した美術館で、フランスの国立美術館第1号だ。

 美術館前のバス停看板はディオールの広告付きのしゃれたもの。さすがフランス!。

 中庭にモザイク画が掲げてあった。「預言者エリヤ」。火の車に乗って天に昇るエリヤの周りを1つの星座が囲んでいる。これも旧約聖書に題材をとった、愛を伝える作品だ。

 開館式の際、シャガールは「人生に必ず終焉があるなら、我々も人生が続く限り愛と希望の色でそれを彩らなければならない」と語ったという。

 この美術館には「聖書のメッセージ」の連作が展示されている。ただ、館内は撮影禁止になっていてカメラに収めることが出来なかった。

 中庭は広々としていて、日差しを浴びながらゆったりとくつろげる空間になっていた。

 

今回が2021年最後の投稿です。

この1年間、温かいコメントも含めいろいろお世話になりました。

また来年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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南仏・コートダジュールへ⑫ シャガール中 晩年を過ごしたサンポール・ド・ヴァンスで墓参り

2021-12-28 | 南仏・コートダジュール

 ヴァンスの次に隣町のサンポール・ド・ヴァンスに向かった。来る時と同じ路線のバスで15分ほど引き返すだけで到着する。

 この町も14世紀に造られた城壁に囲まれた山岳都市だ。朝一で出かけてきたので、少し腹もすいてきた。

 外壁からはどこからでも見晴らしの良い風景が広がる。それで、周辺の景色を眺められる高台に腰掛けて少し早い昼食。

 といってもブリオッシュ、バナナ、ジュースといった軽食だけど・・・。気分が良くなってここから日本の自宅へ遠距離電話をしてしまった。

 この町にはモディリアニ、ボナールなどの芸術家も訪れたし、シャガールも1966年にこの地にアトリエ兼住宅を構えている。

 サンポール・ド・ヴァンスの町は山岳の頂点に教会があり、傾斜と共に住宅群が連なる。その周囲を緑が囲み、柔らかい陽光が街全体に降り注いでいる。

 シャガールはこの光を「最も美しい光」と称賛している。

 当時、2番目の妻ヴァレンティナ(通称ヴァヴァ)との生活を始めており、1985年3月に97歳で息を引き取るまでこの地で創作活動を続け、亡くなった後もこの地で眠り続けている。

 共同墓地は城壁の外にあった。南側の外れで、墓地には門があったがカギが開いておりすんなり入ることが出来た。

 墓石には一番上にシャガールの名前、その下にヴァヴァ、一番下には彼女の弟の名前が記されていた。

 ヴァヴァとは、最初の妻ベラが亡命先のアメリカ滞在中に急死、失意の中でフランスに戻った際に知り合った。晩年のシャガールを献身的に支えた女性だ。

 墓石のうえには小石が載せてあった。これはユダヤ人の習慣なのだという。

 ここも高台にあり、墓からコートダジュールのはるかな風景を見渡すことが出来るロケーションになっていた。

 

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南仏・コートダジュールへ⑪ 南仏のシャガール上 ヴァンスの町で大聖堂のモザイク画を発見

2021-12-25 | 南仏・コートダジュール

 温暖な気候と美しい風景に恵まれたこの地には多数の芸術家が訪れ、またこの地に住まいを定めて作品を生み出した。マティス、シャガール、デュフィ、ロレンス・・・。

 そんな地域を、芸術家の足跡を軸にして歩いてみた。まずはマルク・シャガール。

 シャガールは故郷のロシアからパリに出て才能を発揮、制作活動を続けていたが、第二次世界大戦の際ユダヤ人であることから迫害を受けてアメリカに亡命した。

 終戦後フランスに戻った後はコートダジュールに移って第2の人生を歩んだ。1949年にヴァンスに住居を構え、1966年にはサンポール・ド・ヴァンスに移転した。その間聖書のメッセージを作品化し、ステンドグラスの製作を開始するなど新境地の秀作を世に送り出し、1985年、この地で人生を終えることになる。

 そんな後半生を過ごしたコートダジュールで、シャガールの足跡をたどった。

 まずはヴァンスへ。山岳に連なる家々の町へはバスで。ニースのバスターミナルから400番の路線に乗り込んだ。

 車内からは雪をかぶった山々が間近に見える。

 旧市街入り口で下車した。グランシャルダン広場が街の玄関口だ。城門をくぐると13世紀から続く古い町並みが見えて来る。

 石畳の通りに入る。ちょっと趣のある風景だ。

 人通りは少ないが、所々で立ち話をする町の人達にも出会った。

 町の中心、大聖堂の入口に着いた。入口のタンパンには金色の女神像が立っている。

 中に、シャガールのモザイク画「モーゼの発見」が掲げてあった。貴重な作品だが、特に見学者もなくひっそりと置かれてあった。まずはシャガールの作品発見第1号だ。

 同時にキリスト磔刑像も。シャガールはこの地で11年間を過ごした。この後マチスの礼拝堂に向かい1つのアクシデントに見舞われたのだが、この件はマチスの項でアップすることにする。

 町の端からは微かにもやの掛かる山並みが見渡せる。高い丘に孤立した集落が点在するこの周辺が「鷲の巣村」と呼ばれる地区だ。

 

 

 

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