セーヌ川左岸のポンヌフとサンジェルマン橋との間、オデオンにつながるグラン・オーギュスタン通りを南に向かうとまもなく、立派な門構えの建物が見えてきた。
たぶん、ここが・・・。
プレートが掲げてあった。「パブロ・ピカソが1936年~1955年、このビルに住んだ。そして1937年にはゲルニカを制作した」。
ゲルニカとはスペイン北部、バスク地方の都市の名前だ。当時ピカソの母国スペインでは、スペイン内乱と呼ばれる戦争が始まっていた。フランコ将軍の依頼を受けてドイツ軍は1937年4月26日、人口7000人の小都市に、3時間にわたる無差別空爆を行った。
それも、郊外にあった戦争資材生産工場の場所ではなく、中心部の市街地を破壊した。死傷者多数。それはバスク民族の戦意喪失を狙った意識的な攻撃だったとされる。
ピカソはこのころ、5月に開幕するパリ万博のスペイン館への出品を依頼されていたが、爆撃の知らせを聞くと、一転してゲルニカ空爆への抗議の象徴となる作品制作を決めた。
制作開始が5月11日、完成が6月4日という超スピードの精力的なものだった。そして出来上がった作品がこれだ。
阿鼻叫喚。悲痛な叫びと悲しみ、そして怒りが渦巻く、唯一無二の絵がそこにあった。
この作品が創られた現場がこの建物にあるアトリエだった。以前はフランス演劇界の大御所ジャン・ルイ・バローの稽古場として使われていた。彼は映画「天井桟敷の人々」のバチスト役を演じるなどの名優。同時にそこは作家ジョルジュ・バタイユが組織した反ファシズムの集会場でもあった。
「ゲルニカ」は大きな反響を呼んだ。しかし、戦いはフランコ軍の勝利となり、スペインはファシズムが支配する国となった。
このためピカソは作品「ゲルニカ」を破壊から守るためにアメリカに避難させた。
長期間の避難状態が続いたが、1975年にフランコ将軍が死亡、政権も交代して1981年になってようやくゲルニカはスペインに里帰りすることが出来た。
その数年後、公開場所のマドリード、ソフィア王妃芸術センターを訪れたが、建物周囲は銃を構えた複数の兵士が警備するという物々しい雰囲気に包まれていたことを、今も鮮烈に覚えている。
そのアトリエ付近をもう少し歩こう。
アトリエの家から少し移動した小道にアーケードがあった。
アーケードを抜けるといかにも歴史がありそうな家。
そしてまたアーチ。向こうはセーヌ川だ。
その建物の壁面にあったモザイク。こんなちょっとした場所にも歴史を感じるものがあって、パリ散歩は全く飽きることがない。
アーチをくぐったら、学士院の雄大なドームが出迎えてくれた。