「十二使徒」の板絵。赤、黄の暖色に青を混じらせた、豊かで柔らかい色彩に溢れた絵。 中央のキリストは「全能のキリスト」と比べると、もっと優しく人々を受けいれてくれそうな表情だ。
ここでもキリストは円に囲まれている。アーモンド形の2つの光の輪は、天と現世の両方を支配していることを表しているという。
両脇には6人ずつの使徒、計12人が全員キリストに顔を向けている。その中で、向かって左側の一番キリストに近い使徒は、カギを持っているので一番弟子のペトロであることがわかる。
これもタウル・サンタマリア教会の祭壇パネル。ここにもキリストと12使徒が描かれる。
像の代表格が「ヘルの聖母像」。高さ50cmという小さな木像だが、大きな目でしっかりと前を見つめる聖母のまなざしは、これから襲いかかるであろう我が子キリストの苦難の将来に思いを馳せているかのようだ。 元々は母子とも王冠をつけてたが、今は取れてしまっている。
洗練された衣服の襞や曲線など、高度な技術を思わせるものだ。ジェルのサンタ・コロス教会の守護神だ。
こちらも同様の木彫りの聖母子像。いずれも高い水準を保った作品が並んでいる。
ところで、このような高度の美術品が、なぜわずか900人ほどの小さなポイ谷の村に残されていたのか、という疑問が沸き起こる。調べてみると、その理由は千年もの昔にさかのぼることがわかった。
12世紀ころ、スペインはイスラム勢力に支配され、対抗する国土回復運動(レコンキスタ)が叫ばれていた。その戦いのため、ピレネー山脈に住む住民たちが参戦したが、日頃から過酷な環境に鍛えられていた住民たちは、こうした戦いでも大活躍。多額の報酬を得ることになった。
元々信仰心の強い住民たちは、その富を元手に教会を建て、高度の技術を持つ職人を他地域から呼び寄せて壁画を描かせた。そうして残されたのが、ロマネスク美術群だった。
さらに、もう1つのエピソードがある。20世紀になってこれらの美術品をバルセロナに集中し、再現することに決まった。そして1934年11月美術館開館。だが、間もなくフランコ軍によるスペイン内戦が勃発した。
フランコ軍の傭兵であるモロッコ兵がキリスト教会への破壊略奪を繰り返し、美術館も空襲を受ける事態となった。
そこで美術館は一旦美術品をピレネー山脈玄関口のオロット町に避難。さらにパリで展覧会を開くという名目で、2千点もの作品を国外に移動させた。こうしてロマネスク美術品たちは1年半もの海外生活の末に、内戦終了を待ってようやく、無事に里帰りを果たしたのだった。