新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩㊵ 奏楽堂は芥川也寸志ら卒業生の運動で移転を免れ、今も公園で美しい音を響かせている

2023-02-11 | 上野歴史散歩

 開校以来130年もの長い歴史の中で、優れた才能を持つ音楽家たちが育っていった。その代表が滝廉太郎、山田耕作、三浦環らだ。

 建物正面右側には滝廉太郎の全身像がある。彫刻家朝倉文夫の作品だ。

 長い歴史の中で、危機が訪れることもあった。1960年代に建物の老朽化に伴って新たな音楽ホール建設が具体化した。では旧奏楽堂はどうするか ? 協議の末、愛知県犬山市にある明治村に移転することが決められた。

 その時、新たな動きが始まった。「せっかくの日本初の木造音楽ホールを、生きた形で現地に保存するべき」。芥川也寸志や黛敏郎らの芸大卒業生たちが「奏楽堂を救う会」を結成して運動を開始した。

 数年の難航の末、大学ではなく台東区が事業主体となって公園内に移築復原することを決定。1987年にクラシック専門ホールとして、改めての開館を迎えることになった。

 また、2018年には、5年間休館して行った耐震工事も完了し、現在はリニューアルした新しい殿堂でコンサートなどが行われている。

 また、パイプオルガンも奏楽堂の犬山市移転計画の際解体が予定されたが、存続に伴って修理復旧、今も豊かな音色を響かせている。

 実はこのオルガン、イギリスのアボットスミス社製らしく、貴重なものだという。

 ここにもまた、美しい階段がある。ホールへと昇る階段で、気持ちが高ぶる感じだ。

 

 

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上野歴史散歩㊴ 日本初の音楽ホールが誕生したのは1890年。旧東京音楽学校奏楽堂

2023-02-07 | 上野歴史散歩

 旧東京音楽学校奏楽堂。この建物が完成したのは1890年。東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の音楽ホールを備えた校舎として建設された。設計は山口半六と久留正道。

 学校が開学してから3年後のことで、これが日本初の音楽ホールの誕生だった。従って、西洋音楽、つまりモーツアルトやベートーベンなどの作品が国内で初めて鳴り響いたのもこの奏楽堂で、ということになる。

 奏楽堂ホールの天井はヴォールト型の円天井になっていて、床と天井を平行にしないことで、エコー現象を生じさせないように工夫されている。四角の壁もアールが付けられている。

 また、ホールの壁の中には、わら束が詰め込まれている。これは外部音を遮って音楽に集中できるように工夫されたもの。防音効果とともに音を柔らかくする効果を狙ったものという。その一部が資料室に残されていた。

 中央には大きなシャンデリア。当初のシャンデリアは損失してしまったため、移築時に復元された。

 ちょうど訪問時に、ホールで少し前までコンサート用のチェンバロの練習が行われていたため、中央にそのチェンバロが置かれていた。奏楽堂の所有で、17~18世紀にヨーロッパで引かれていた楽器。形の優雅だ。

 また、天井部分には草花の文様があしらわれている。

 資料室には、創設当時舞台中央にあった漆喰飾りも展示されていた。

 

 

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上野歴史散歩㊳ 記念館で黒田清輝の珠玉の作品を堪能する。史上初の日本女性モデルの油絵裸婦像も

2023-02-04 | 上野歴史散歩

 黒田記念館の中を見学する。

 中に入ると2階の展示室に黒田の作品が陳列されている。時期によって内容は変わるが、私が訪れた時には代表作の1つ「智 感 情」がずらりと並ぶ豪華な日だった。

 これは1900年のパリ万博に出品されたもので、銀賞を受賞した作品。当時としては日本人離れとも言えそうなプロポーション。それぞれのテーマに沿った表情ですっくと立つ絵だ。

 万博会場でこれを見たフランス人文学者アルマン・シルヴェストルは次のように感想を記している。(智)

 厳かな三位一体をなして

 女の体が浮かび上がる

 魂の神秘な宝石箱の中で

 美は瞑想する

(感)

 ぼくらの目を惹きよせてしまう

 威厳をどれもがたたえながら

 花かぐわしき3本のバラが

 同じ茎に咲いている

(情)

 ひとつには黎明が涙をおき

 ひとつはほほえみ ひとつは夢見る

 そして素晴らしくも この三つ児の花からは

 どれも同じように 優美が立ちのぼるのだ

 

 この絵は日本女性をモデルに制作された史上初の油彩裸婦像で、また裸婦像についての根強い偏見があった時代の画期的な作品となった。黒田はある意味、女性の理想像を描き上げたものといえそうだ。

 「湖畔」

 後に妻となる照子と箱根に避暑に出かけた時に、彼女をモデルにして仕上げた1897年の作品。夏とはいっても日本の夏はフランス・コートダジュールの海岸のようにからりと底抜けに明るいものではない。少しくすんだ空気、湿気を帯びた風景の中にたたずむ若い女性の清々しさが、余すところなく描き出されている。この作品は国の重要文化財に指定され、切手にも採用されている。

 「読書」

 黒田は1884年から1893年までフランスに留学していた。1891年にパリから南東約60キロのベレー・シュル・ロワンという村の村娘マリア・ビョーをモデルに描いた作品。静けさに満ちた室内の空気がひしひしと伝わってくるようだ。これはパリの権威ある公募展サロン展に初入選した記念すべき作品だ。

 「舞妓」

 留学から帰国後初めて京都を訪れたときに描いたもの。背景となる鴨川の明るい光を浴びて逆光の中で腰掛ける舞妓。若々しい顔立ちの輪郭が、外光派と呼ばれる黒田の特徴を浮かび上がらせているようだ。

 

 

 

 

 

 

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