芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

愛国心教育

2006年04月16日 | Weblog
かねてから一部政治家たちによって推進されてきていた「愛国心」教育の必要性が現実化して、「愛国心」という言葉を教育基本法に入れることになったという。
「愛国心」は、鬼畜米英を撃つという名目で前の大戦中に戦意高揚のために盛んに使われた言葉である。
しかし、鬼畜米英に負けて、逆に撃たれてしまった日本は、それまでに軍事力によって占領してきた朝鮮、満州、台湾、樺太を返却させられ、太平洋戦争を推進した当時の首相を始めおもだった大臣たちは、東京裁判で死刑、あるいは投獄に処された。
戦争を遂行するため「愛国心」を称揚したものたちは、意気消沈して、そんな言葉を発していたことがないような、忘れた素振りをした。
国会でよく使われる、都合の悪いことを聞かれると「記憶にございません」というやつだ。
戦争に負けたときによく耳にしたのは、「負けてよかった、もし勝っていたら、日本はもっと酷い国家神道の独裁主義国になっていたであろう」という言葉だ。
私が小学校で習った中年の女の先生は、民主主義をありがたそうに教えるのだが、昭和天皇が写っている古い写真を生徒に見せるときは、その写真に向かって直立不動の姿勢になっていた。
敗戦から7年も経った1952年頃のことだが、その様子がおかしかったので、それから50年以上を経たいまでも覚えている。
当時の愛国心は、愛天皇心だったのだ。
敗戦と同時に米国のマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立って、勝利宣言をした。
昭和天皇は、それまであらひと神として、日本国民から愛されていたから、死刑は免れて、人間宣言をさせられた挙げ句に、マッカーサー元帥の日本統治に利用された。
米国の日本研究は、徹底している。戦時中は、米国も日本もともに敵国同士だったわけだから、政府が敵を憎む宣伝を国民にしたのは変わらない。米英語は、日本では、敵性語だから使用を禁止され、野球も米国のスポーツということで、カタカナのアウトやストライクを使用することは禁止だったという。敵性語の禁止だけでなく敵の研究も怠ったのである。
他方、米国も、日本人を収容施設に入れたりして日本と変わらないことをしていたが、それは、あくまで一般米国人向けで、日本研究は強力に推進された。
戦勝国がその研究成果を敗戦国に適用して、大いに搾取するという構図はいつの時代も変わらない。
まず、農地解放により日本を米国農業の余剰農産物の市場にして、日本は牛肉、脱脂粉乳、小麦、米を大量に輸入するはめになる。マスコミを通して動物性タンパク質の必要性を喧伝されて、それまで、四つ足の動物を食う習慣のなかった日本人は、嗜好も変えられて、牛肉を食べるようになり、学校給食には脱脂粉乳という牛乳が大量に配られた。
財閥は解体され、兵器の生産は禁止され、それまであった戦闘機などの兵器は焼却された。
飛行機も米国兵器産業から輸入させられる仕組みになった。兵器に結びつく技術開発は、特許法により米国の許可が必要になったのである。
文化的には、米国映画産業が作ったユダヤ礼賛のハリウッド映画が色鮮やかな宣伝とともに、どっと入ってきた。
米国の植民地下という現在の仕組みのもとで、日本の愛国教育とはどのような意図でされるのであろうか。
植民地日本が、宗主国である米国という虎の威を借りて、米国の敵性国中国、朝鮮と戦うための愛国教育をするのなら、それは、愛米国主義ということになり、現政権の方向性と合致するであろう。
しかし、戦時中の愛国教育も、政府のご都合主義であったし、今回の愛国教育も趣旨は変わらないであろう。