芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

川路聖謨の見識

2010年02月02日 | Weblog
御徒(おかち)までしかなれなかった百姓、内藤吉兵衛を父に持つ弥吉は川路家に養子という形で入り、幕吏になり栄達することで川路聖謨を名乗って、「川路を官僚の鑑」とまで言わしめた。
この川路聖謨が有名なのは、ロシアの黒船でやってきたプチャーチンと交渉して、ロシア側を驚かせる交渉力を発揮したことである。時の大老から命令されて、開国をしないということを貫いたが、長崎から江戸に戻ると、大老は、米国のペリーに武力でオドカサレて既に開国していた。
日本はこのときから、米国の武力で開国されて、前の大戦では、武力を行使されて植民地と化したのであった。
米国は、その頃には、西部のフロンティアを開拓し尽くして、海を越えた日本や中国、朝鮮をフロンティアにするための画策をしていたのだ。
英国を背景にした西軍は仏国を背景にした幕府を武力で従わせたが、そのときに英国とも米国ともつながっていたグラバーという武器商人によって、操られていたといっていいのが、坂本龍馬である。坂本龍馬の死後は、急速な日本の軍国化で、自国を冷静に見る目のない人物たちが、そのばそのばの戦争で国民をあおって太平洋戦争で敗北するまでに導いたことになる。