馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

〓おまQ〓913号武州・上州へgoその37

2016-02-24 21:34:00 | 旅行
【Q】松平信綱は忍城(3万石)から川越城(6万石)に栄転した。

なんで?

イ)赤穂義士処分の手際よさのため
ロ)春日局の親族だった
ハ)島原の乱鎮圧の功績

答えは一番下↓

≪川越へgo≫
2015年5月2日(土)

川越市内を歩いてます


三芳野神社を出て西へ向かう


14時54分、「霧吹きの井戸」

普段は井戸に蓋がしてあるが、
敵が攻めてきた時は蓋をあける。
すると、中から霧がたちこめて城を隠す

ので、川越城の別名は『霧隠城』と呼ばれたとか?

そういや久留里城は霧がかかって雨城と呼ばれてますな

本丸の南西へ向かう。

15時04分、
「田曲輪門跡」

太田道灌が建てた頃は本丸、二の丸、三の丸、天神曲輪、三芳野神社ぐらいだったが、
江戸時代城主となった松平信綱の時、中曲輪・新曲輪・田曲輪などを追加した。

その隣に、
「富士見櫓跡」

小山になってます
石段を登りました


現在はちょっとした広場です

川越城に天守がなかった。
北に菱櫓、虎櫓があった。
この3つの櫓のなかで富士見櫓が一番高かったので
天守代わりとして位置づけられた。

神社がある。

何神社か忘れた…。

富士見稲荷の鳥居

ここから富士山を見ることができたそうです

川越高校のグランドが見える。
ここが本丸の中心部でした

川越高校といえば、この間ノーベル賞受賞された人の出身校ですね。
もう名前忘れてしまった…。


櫓跡を出て真っ直ぐ南下しました



裏通りは誰も観光客いません

15時21分、「浮島稲荷神社」


池に片葉の葦、




太田道灌や川越城にまつわる伝説がある境内です。


そして、

成田山川越別院

15時29分、「喜多院」

ここは観光客が多い



いよいよ今回の旅、最後の訪問地です



続く󾮗



‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡

本日の答え、
『島原の乱の鎮圧』
島原の乱が長期化し、最初板倉重昌が総大将だったが戦死し、
後任に松平信綱が選ばれた。
力攻めは無理とわかり、兵糧攻めにして乱を鎮圧した。

その功績で川越城に転封となった。
川越街道、玉川上水などの改修整備をおこない、
伊豆守にちなんで知恵伊豆と呼ばれた。

松平氏の後、川越藩は赤穂義士事件を担当した柳沢家、
さらに別の松平家、と藩主が変わっていく…。


ブログ(画像あり)
http://blog.goo.ne.jp/hakusiyu/0?guid=ON


Φ(*^ひ^*)Φ
今日、おしっこしたら
2滴、血のようなものが飛び散った

もうダメだ…。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
『週刊安土城110号その3完成』
http://www.youtube.com/watch?v=hf-1fodq8fs&sns=em

6年半かけてようやく完成しました。
普通の人なら2年~3年なので、倍以上かかりました。
マガの発行もあり、仕事との両立はホントに大変だったです。

約20万以上の費用がかかった。
道楽や!
バカや!
子供か?

などなど、周囲からいろいろ言われた
しかし、屈せず頑張りました。

唯一心残りは
父に見てもらえなかったこと。

なんでも器用にこなした父のアドバイスがあれば
もっと綺麗に早く完成できただろう。

天国から、
「相変わらずへたくそな仕上がりや!」
と眺めてくれてるかもね。



馬󾆾ひでにゃん󾆸
(*⌒Q⌒*)ヒヒーン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする