2012/03/09
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>あと1万回の晩飯(1)明治34年の食生活・子規『仰臥漫録』の献立
武者小路実篤の「リッパ」な随筆、声に出して読んでいると、体から笑いがこみ上げてくる、不思議なリズムとユーモアがあって、こういうのは、ワカゾーが出そうとしても出てこない文の芸かも。
ねらって仕上げたのならすごいけど、単なるボケでしょう。天然ボケも立派な芸です。
昨年、調布市の武者小路実篤邸へ2度行ってみました。記念館には、実篤の絵や写真、書などが展示されていました。「新しき村」で野菜作りなどもしてみた実篤ですが、実篤翁の野菜の絵、絵としてはリッパなのでしょうけれど、あまり食べて見たくなるような、おいしそうな野菜ではありません。ナスとカボチャががならんでいて「仲良きことは美しきかな」とかの言葉がついているところがアリガタソーなのでしょうね。
実篤の野菜の絵「我、野菜を愛す」

「あと千回の晩飯」を連載し始めたとき、山田風太郎は古稀を過ぎた年頃。6度目の年男になったあたりだったと思う。72歳で、「晩飯を食うのもあと千回ぐらい」と想定し、実際には2001年に79歳で亡くなった。
私は6度目の年女を迎えたころ、たぶん「あと1万回は晩飯食うぞ」と叫んでいるだろう。食い気だけで生きている女ですから。
グルメ文学は数々あり、おいしそうな食べ物をおいしそうに記録できる文の芸には敬服します。池波正太郎などの大御所のほか、若い作家の小説を読んでも、例えば小川糸『食堂かたつむり』など、書かれているレシピがとてもうまそう。伊吹有喜『四十九日のレシピ』は、私は原作を読んでおらず、テレビドラマを見ただけなのですが、レシピは小説の重要な要素になっています。
そのほか、アリス本の中に出てくる食事のレシピ再現とか、村上春樹文学の中のレシピを再現した本、赤毛のアンシリーズに出てくる料理の本など、枚挙にいとまないほど。
食べたもの記録のうち、近代文学史上もっとも名高いのは、正岡子規のものでしょう。20世紀が幕を開けた1901(明治34)年の9月2日から、子規は『仰臥漫録』に食べたものを記録しています。発表する予定のない私的な覚え書きですが、それだけに病中の心情が赤裸々に描かれています。
日々、食べた大量のメニューの記録は、生きることへのすさまじい執念と、それを支えた母堂(八重:松山藩の儒者大原観山の長女)と妹、律の献身が浮かび上がってきます。

子規の病床の食生活、摂取カロリーは研究によれば平均2254カロリーだそうで、当時の日本人の平均的摂取カロリーからみても、一日中病床にある病人のカロリーからみても、こんなに食べなくても、と思うくらいの量です。実際、食べて食べて消化しきれず吐くこともあったと『仰臥漫録』に書かれています。
標準的な献立は、
朝-飯または粥三、四椀に佃煮、漬け物、牛乳ココア入り、菓子パン数個。
昼-飯または粥三,四椀、刺身、みそ汁、漬け物、佃煮、果物。
間食1-牛乳、菓子パン、果物。
夕-飯または粥三、四椀、刺身か魚料理、野菜の煮物類、漬け物、佃煮、果物。
~~~~~~~~~~
(1901年)
・九月二日
朝 粥四椀 はぜの佃煮 梅干砂糖漬け
昼 粥四椀 鰹のさしみ一人前 南瓜一皿 佃煮 梨二つ
二時過 牛乳一合ココア入り
夕 奈良茶飯四椀 なまり節 茄子一皿 梨一つ
・九月三日
朝 ぬく飯二椀 佃煮 梅干 牛乳五勺ココア交 菓子パン数個
昼 粥三椀 鰹のさしみに蠅の卵あり それがため半分ほどくふ、晩飯のさいに買い置きたるわらさをさしみにつくる うまくなし 食はず
味噌汁一椀 煎餅三枚 氷レモン一杯
夕 粥に椀わらさ煮 旨からず 三度豆 芋二、三 寿司少々 糸蒟蒻 すべて旨からず、佃煮にてくふ 梨一つ
・九月四日
朝 雑炊三椀 佃煮 梅干 牛乳一合ココア入り 菓子パン二個、
昼 鯛の刺身 粥三椀杯 みそ汁 佃煮 梨二つ 葡萄酒一杯
間食 芋坂団子を買来らしむ(これに悶着あり)あん付三本焼一本 塩煎餅三枚、麦湯一杯 茶一椀
晩 粥三椀 なまり節 キャベツのひたし物 梨一つ
・九月五日
朝 粥三椀 佃煮 瓜の漬物
昼 めじのさしみ 粥四椀 焼茄子 梨一つ
間食 梨一つ 紅茶一杯 菓子パン数個
夕 鶏肉 卵二つ 粥三椀余 煮茄子 若和布三杯酢かけ
・九月六日
朝 粥三椀 佃煮不足
昼 さしみ(かつを) 粥三、四椀 みそ汁 梨
間食 今日は『週報』募集句検閲の日なれば西瓜を買はしむ 西洋西瓜の上等なり一度に十五きれほどくふ
夕 粥三椀 あかえ キャベツ 冷奴 梨
(略)
・九月二十三日
朝 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 胡桃飴煮 牛乳五合ココア入 小菓数個
午 堅魚のさしみ みそ汁(具は玉葱と芋) 粥三椀 なら漬 佃煮 梨一つ 葡萄四房
間食 牛乳五合(ママ)ココア入 ココア湯 菓子パン小十数個 塩せんべい一,二枚
夕 焼鰮(やきいわし)四尾 粥三わん ふじ豆 佃煮 なら漬 飴二切
~~~~~~~~~~
死にものぐるいのように食べ続けていた子規ですが、1901年11月からは病勢が進み、病臥の日記を書くこともできなくなる。生涯最後の年、1902(明治36)年になると、食べられなくなっていき、麻痺剤(モルヒネか?)の服用が多くなっていきます。
~~~~~~~~~~~
・三月十一日
朝、ストーブを焚く 大便 牛乳
十時朝飯 粥二椀 鯛のさしみ七切ほど 味噌 腐鮓 蕗の薹と梅干 蜜柑三ヶ
十一時 牛乳ココア入り 煎餅一枚
午後一時半頃 繃帯取替 三時碧梧桐来る 腰骨痛み俄に激しく麻痺剤を飲む 種山人来る直に去る
五時頃晩餐 ごもく飯一椀 をだまき さしみの残り 鱈汁 鱈と人参の煮物
九時頃 牛乳
・三月十二日
十一時半 午餐 さしみ(鯛)金山寺味噌 芹とあげ豆腐 ジャガタラ芋 注文せし「をだまき」来たらず
正午 麻痺剤を服す
午後二時 牛乳二杯 煎餅三、四 繃帯取代 左へ寝戻りてより背腰殊に痛む うとうとすれど眠られず
午後四時 をだまき蒸饂飩 さしみ少々 陸(羯南)よりもらひたる豆のもやしなど食ふ 虚子来る ハム、ローフをくれる 談話 牛乳
十時 麻痺剤を呑む 虚子去る
~~~~~~~~~~
4、5、6月の記載なし。7月の食べたものの記録は、
・七月九日
いわしこ、豆腐
・七月十四日
懐中汁粉
と、あるのみで、九月三日の夜会の草花のスケッチを最後に記録は途絶える。九月十八日永眠。享年34歳。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現代医学の最前線から見ると、この献立と寝たきり療養は、むしろ子規の命を短くした懸念があるそうです。「粗食と運動」このほうが、長生きできるみたい。
粗食ではあるけれど、春庭の大食いぶり、この先収まっていくのやら。とにかく、食うために働きます。
子規にさんざんけなされながらも、律は看病を全うしました。兄の下も世話をし、体中、膿だらけにになった繃帯を取替え、芋坂の団子を買いに行けと命令する兄に逆らって罵倒され、ひっきりなしの来客をもてなしました。
ひたすら兄を食わせるための日常をこなした律。
子規の死後、律は32歳で専門学校に入って裁縫を学び、母子が過ごした根岸の家を裁縫教室として暮らしました。二度不縁となった律は、家名維持のため八重の弟の子忠三郎を養子とし、学費を送り続けました。しかし、養子一家とは一度も同居することなく、晩年は1928(昭和3)年に財団法人子規庵保存会初代理事長となり、子規の文学を残すことに務めました。
正岡律の写真

忠三郎の子、正岡浩による父母、祖母、叔母の思い出の記
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/
<つづく>
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>あと1万回の晩飯(1)明治34年の食生活・子規『仰臥漫録』の献立
武者小路実篤の「リッパ」な随筆、声に出して読んでいると、体から笑いがこみ上げてくる、不思議なリズムとユーモアがあって、こういうのは、ワカゾーが出そうとしても出てこない文の芸かも。
ねらって仕上げたのならすごいけど、単なるボケでしょう。天然ボケも立派な芸です。
昨年、調布市の武者小路実篤邸へ2度行ってみました。記念館には、実篤の絵や写真、書などが展示されていました。「新しき村」で野菜作りなどもしてみた実篤ですが、実篤翁の野菜の絵、絵としてはリッパなのでしょうけれど、あまり食べて見たくなるような、おいしそうな野菜ではありません。ナスとカボチャががならんでいて「仲良きことは美しきかな」とかの言葉がついているところがアリガタソーなのでしょうね。
実篤の野菜の絵「我、野菜を愛す」

「あと千回の晩飯」を連載し始めたとき、山田風太郎は古稀を過ぎた年頃。6度目の年男になったあたりだったと思う。72歳で、「晩飯を食うのもあと千回ぐらい」と想定し、実際には2001年に79歳で亡くなった。
私は6度目の年女を迎えたころ、たぶん「あと1万回は晩飯食うぞ」と叫んでいるだろう。食い気だけで生きている女ですから。
グルメ文学は数々あり、おいしそうな食べ物をおいしそうに記録できる文の芸には敬服します。池波正太郎などの大御所のほか、若い作家の小説を読んでも、例えば小川糸『食堂かたつむり』など、書かれているレシピがとてもうまそう。伊吹有喜『四十九日のレシピ』は、私は原作を読んでおらず、テレビドラマを見ただけなのですが、レシピは小説の重要な要素になっています。
そのほか、アリス本の中に出てくる食事のレシピ再現とか、村上春樹文学の中のレシピを再現した本、赤毛のアンシリーズに出てくる料理の本など、枚挙にいとまないほど。
食べたもの記録のうち、近代文学史上もっとも名高いのは、正岡子規のものでしょう。20世紀が幕を開けた1901(明治34)年の9月2日から、子規は『仰臥漫録』に食べたものを記録しています。発表する予定のない私的な覚え書きですが、それだけに病中の心情が赤裸々に描かれています。
日々、食べた大量のメニューの記録は、生きることへのすさまじい執念と、それを支えた母堂(八重:松山藩の儒者大原観山の長女)と妹、律の献身が浮かび上がってきます。

子規の病床の食生活、摂取カロリーは研究によれば平均2254カロリーだそうで、当時の日本人の平均的摂取カロリーからみても、一日中病床にある病人のカロリーからみても、こんなに食べなくても、と思うくらいの量です。実際、食べて食べて消化しきれず吐くこともあったと『仰臥漫録』に書かれています。
標準的な献立は、
朝-飯または粥三、四椀に佃煮、漬け物、牛乳ココア入り、菓子パン数個。
昼-飯または粥三,四椀、刺身、みそ汁、漬け物、佃煮、果物。
間食1-牛乳、菓子パン、果物。
夕-飯または粥三、四椀、刺身か魚料理、野菜の煮物類、漬け物、佃煮、果物。
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(1901年)
・九月二日
朝 粥四椀 はぜの佃煮 梅干砂糖漬け
昼 粥四椀 鰹のさしみ一人前 南瓜一皿 佃煮 梨二つ
二時過 牛乳一合ココア入り
夕 奈良茶飯四椀 なまり節 茄子一皿 梨一つ
・九月三日
朝 ぬく飯二椀 佃煮 梅干 牛乳五勺ココア交 菓子パン数個
昼 粥三椀 鰹のさしみに蠅の卵あり それがため半分ほどくふ、晩飯のさいに買い置きたるわらさをさしみにつくる うまくなし 食はず
味噌汁一椀 煎餅三枚 氷レモン一杯
夕 粥に椀わらさ煮 旨からず 三度豆 芋二、三 寿司少々 糸蒟蒻 すべて旨からず、佃煮にてくふ 梨一つ
・九月四日
朝 雑炊三椀 佃煮 梅干 牛乳一合ココア入り 菓子パン二個、
昼 鯛の刺身 粥三椀杯 みそ汁 佃煮 梨二つ 葡萄酒一杯
間食 芋坂団子を買来らしむ(これに悶着あり)あん付三本焼一本 塩煎餅三枚、麦湯一杯 茶一椀
晩 粥三椀 なまり節 キャベツのひたし物 梨一つ
・九月五日
朝 粥三椀 佃煮 瓜の漬物
昼 めじのさしみ 粥四椀 焼茄子 梨一つ
間食 梨一つ 紅茶一杯 菓子パン数個
夕 鶏肉 卵二つ 粥三椀余 煮茄子 若和布三杯酢かけ
・九月六日
朝 粥三椀 佃煮不足
昼 さしみ(かつを) 粥三、四椀 みそ汁 梨
間食 今日は『週報』募集句検閲の日なれば西瓜を買はしむ 西洋西瓜の上等なり一度に十五きれほどくふ
夕 粥三椀 あかえ キャベツ 冷奴 梨
(略)
・九月二十三日
朝 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 胡桃飴煮 牛乳五合ココア入 小菓数個
午 堅魚のさしみ みそ汁(具は玉葱と芋) 粥三椀 なら漬 佃煮 梨一つ 葡萄四房
間食 牛乳五合(ママ)ココア入 ココア湯 菓子パン小十数個 塩せんべい一,二枚
夕 焼鰮(やきいわし)四尾 粥三わん ふじ豆 佃煮 なら漬 飴二切
~~~~~~~~~~
死にものぐるいのように食べ続けていた子規ですが、1901年11月からは病勢が進み、病臥の日記を書くこともできなくなる。生涯最後の年、1902(明治36)年になると、食べられなくなっていき、麻痺剤(モルヒネか?)の服用が多くなっていきます。
~~~~~~~~~~~
・三月十一日
朝、ストーブを焚く 大便 牛乳
十時朝飯 粥二椀 鯛のさしみ七切ほど 味噌 腐鮓 蕗の薹と梅干 蜜柑三ヶ
十一時 牛乳ココア入り 煎餅一枚
午後一時半頃 繃帯取替 三時碧梧桐来る 腰骨痛み俄に激しく麻痺剤を飲む 種山人来る直に去る
五時頃晩餐 ごもく飯一椀 をだまき さしみの残り 鱈汁 鱈と人参の煮物
九時頃 牛乳
・三月十二日
十一時半 午餐 さしみ(鯛)金山寺味噌 芹とあげ豆腐 ジャガタラ芋 注文せし「をだまき」来たらず
正午 麻痺剤を服す
午後二時 牛乳二杯 煎餅三、四 繃帯取代 左へ寝戻りてより背腰殊に痛む うとうとすれど眠られず
午後四時 をだまき蒸饂飩 さしみ少々 陸(羯南)よりもらひたる豆のもやしなど食ふ 虚子来る ハム、ローフをくれる 談話 牛乳
十時 麻痺剤を呑む 虚子去る
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4、5、6月の記載なし。7月の食べたものの記録は、
・七月九日
いわしこ、豆腐
・七月十四日
懐中汁粉
と、あるのみで、九月三日の夜会の草花のスケッチを最後に記録は途絶える。九月十八日永眠。享年34歳。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現代医学の最前線から見ると、この献立と寝たきり療養は、むしろ子規の命を短くした懸念があるそうです。「粗食と運動」このほうが、長生きできるみたい。
粗食ではあるけれど、春庭の大食いぶり、この先収まっていくのやら。とにかく、食うために働きます。
子規にさんざんけなされながらも、律は看病を全うしました。兄の下も世話をし、体中、膿だらけにになった繃帯を取替え、芋坂の団子を買いに行けと命令する兄に逆らって罵倒され、ひっきりなしの来客をもてなしました。
ひたすら兄を食わせるための日常をこなした律。
子規の死後、律は32歳で専門学校に入って裁縫を学び、母子が過ごした根岸の家を裁縫教室として暮らしました。二度不縁となった律は、家名維持のため八重の弟の子忠三郎を養子とし、学費を送り続けました。しかし、養子一家とは一度も同居することなく、晩年は1928(昭和3)年に財団法人子規庵保存会初代理事長となり、子規の文学を残すことに務めました。
正岡律の写真

忠三郎の子、正岡浩による父母、祖母、叔母の思い出の記
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/
<つづく>