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ぽかぽか春庭「2001年のゴールデンウイーク 敗者復活」

2013-05-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/12
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(2)敗者復活

 2001年のゴールデンウイーク続き
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2001/05/01 火 晴れ

 ジャパニーズアンドロメダシアター>敗者復活 明けない夜はなかったしい、止まない雨もなかったあ

  華原朋美がこのところ歌番組トーク番組に出まくっている。彼女を自殺未遂状態にまで追い込んだと言われている小室哲哉が、現在組んでいるグループのメンバーと結婚し、まもなく子どもが生まれるというニュースすら「話題づくり」のひとつとして利用してしまうほど、はじけている。小室が結婚してくれたおかげで、彼と「ともちゃん」との恋愛と破局について語るにも何のタブーもないというノリであっけらかんと「フラレ体験」をしゃべりまくることができる、っていうのがテレビ局の「トーク視聴率稼ぎ」のおヤクソク。

  かって、トップアイドル歌手だった中森明菜が、近藤雅彦にふられて自殺未遂事件をおこしたあと、復活をかけてイメージチェンジをはかったが、うまくいかなかった。彼女がどんなにテレビの画面からはみ出そうな笑顔を浮かべて明るい声を張り上げて熱唱しても、彼女の身体にはりついた「男にふられて自殺しようとした女」という暗い記号を払拭することができなかったのだ。マッチが別の女性と結婚し、「明菜は六本木で泥酔状態でいる」というような週刊誌記事がワイドショーで増幅喧伝され、彼女は「過去の歌手」として出演する以外、テレビの「今」を感じさせる存在に復活することはなかった。

  華原が「宿泊先から救急車で病院へ運ばれた」というニュースが伝わったとき、もうこれで「ともちゃん」はテレビの中では過去の歌手になってしまうのだろうと思った。「あの人は今」や「ものまね」の「ホンモノ登場」の扱いになるところだった。華原と明菜の差はキャラクターの違いだけでは片づけられない。まず、時代の差。10年前まで、男が他の女性に乗り換えた後「捨てられた女」のスティグマをはらいのけるには、別の「もっといい男」と結婚する以外に方法がなかった。しかし、現在「恋愛しても結婚に至ることなく破局すること」が女にとって「消しがたい人生の傷」ではなくなっている。これは「処女の価値」がなくなったこと、離婚がタブーではなくなったことと同一平面での変化なのだろう。

  むろん、時代が変化したとはいえ、華原がやつれきった病んだ顔つきでテレビで唄うのを見て、「この先どうやってイメージチェンジをはかるのだろう」と思っていた。しかしながら知恵者はちゃんといたのである。今どきのテレビだもの、何でもあり。「電波少年」に「復活仕掛け人」がいた。華原に「アメリカひとり旅」させる。貧乏生活に耐えさせ、ボイストレーニングを受けさせ「アメリカでCDテビューできたら帰国させる」という条件をつけて数ヶ月をすごさせた。たぶんほかの「電波少年」ストーリーと同じように、「ライブのためのシナリオ」が作られていることは視聴者もわかっている。「この日はお金がなくなって、ハンバーガー1個で一日すごす」とか「この日は声がうまく出なくて衝撃を受ける」とかのシナリオを、わかっていて楽しむ。日本にいる間は「ジュースが飲みたいと言えば、誰かが買ってきてくれるような生活」をしていた若い歌手が、それなりに苦労をして変わっていく「やらせドキュメンタリー」を楽しんだ。

  結果、視聴者は華原が「明けない夜はなかったしい、止まない雨もなかったあ」と高らかに唄うのを認めた。ともちゃんは復活に向けてがむしゃらにしゃべりまくっている。「実は小室とはどうだったのか、アメリカでどうすごしたか」笑顔で語る華原を、視聴者は「私たちが見守って成長させ復活させた歌手」として遇している。「5万枚手売り完売、メジャーデビュー決定」を達成した「モーニング娘。」を「私たちが育てたグループ」感を持って扱ったように、テレビの「ウリの常道」ではあるのだが、とりあえず「ともちゃん復活」ストーリーはうまくいったのじゃないかしらん。

  自民党総裁選に過去2度までも破れ、3度目の挑戦はあり得ないと党内の誰もが思っていた小泉潤一郎が時代を読んだ。ともちゃん復活作戦以上にシナリオは上出来で、地方党員の「このままじゃ夏は惨敗。なんとか新風をふかせたい」という崖っぷちの思いにのっかれた。敗者復活!「勝ち組み、負け組」という二分法なら、一部の人をのぞいてほとんどが「自分は負け組に属している」と感じるであろう2001年。「敗者復活」は何にも勝る時代のキーワードになったのだ。敗者復活戦を勝ち上がることができる者もまた少数であることがわかっていながら、「今、私は負け組だが、いつか必ず敗者復活戦に勝ち残れるかもしれない」という幻想を抱くために、小泉はほえ、ともちゃんは唄う。

  私は真っ暗闇のどん底で「止まない雨」に打たれている。夫の会社の負債、借金地獄、舅のガン入院、伯母をグループホームに入所させなければならなくなったこと、仕事はうまくいかないし、子育ては失敗続きだし。止まない雨の中で「止まない雨はなかったしぃ」と鼓舞してもらう以外にぬれそぼつ身体を保つ方法がない。
  今日、娘の高校の「映画鑑賞の日」。娘は『雨上がる』を見てきた。「クロサワの残したシナリオだからみんなで盛り上がって映画を制作しましょうね、という気分が画面にあふれていて、きれいなシーンが多かった」という娘の批評。本当に雨はあがるのだろうか。私の雨は止みそうにない。
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2001/05/02 水 曇りのち雨
ニッポニアニッポン事情>視聴率78%

  保守党党首扇女史の「さすが芸能界上がり」という発言。世論調査の小泉新内閣支持率について「本当に高い視聴率で」と言ったが、並みいるキャスターたち「こんなことで揚げ足をとったひには、あとでどんなシッペ返しをくらうかわからない」という顔のコメントばかりだった。
 森前首相の発言よりよっぽどからかいやすいネタなのに、だれもからかわないところをみると、テレビ界自主規制はこんなつまらないネタにも発動しているんだ、と思わざるをえない。
  78%!!?大政翼賛会もびっくり。私は22%組。いつも「マイナー族」人生。
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2001/05/03 木 雨(寒い!)
ニッポニアニッポン事情>施行された日

 「すべて国民は個人として尊重される」
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
 「学問の自由はこれを保障する」
 「日本国民は、正義と秩序を祈祷とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」

  一日中雨。寒い。「放棄することを放棄する」が足音たてて、大手をふって「連隊ススメ!回れ右!」。
 去年「日本事情(日本の近代)」のテストに「戦後、5月3日に施行された新しい憲法」は「ア 大日本帝国憲法 イ 日本国憲法 ウ 少林寺拳法」のどれかという問題を出したら、ウを正解とした留学生もいました。
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2001/05/4 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>COCCO

  娘が録画しておいた「ミュージックステーション」をいっしょに見た。コッコのテレビ出演最後だというので、ビデオにとっておいたものだ。Coccoの出番は一番最後だった。トークシーンではタモリの質問にコッコはうなずくだけで、それさえも必死に答えているようすが伝わる。「テレビ出演は嫌い」というコッコにタモリが「じゃ、出ないでいればいいじゃない」とつっこむと、本当に困ったような顔で「でも、出させられるぅ」とやっと言葉で答えた。使役受身形の正しい使い方。

  今時、テレビに出て顔を売りたくてたまらないタレントがひしめいている中で、仮にも「歌つくり」という「「売れてナンボ」の仕事をしていながら、本当にテレビが嫌いな人がいるのかしらとも思いつつ、これまでコッコがテレビで唄うのを何度か見た。テレビになじまない様子は「面白いキャラ」に思えた。「テレビは苦手です、テレビで唄うのはいやです」と言うトークを見ているのは、おもしろい見せ物なのだ。
 絵を作る側はその面白さをねらって、テレビは嫌いというコッコをテレビの画面に登場させる。「最後のテレビ出演」とか言いながら、またすぐ出戻るタレントも多いのだから、まあどういう売り方をするのもこの業界の「なんでもあり」の中のひとつだろう、と思った。

  最後の出演もこれまでと同じく、裸足で唄う。そして唄い終わるとそのまま裸足でスタジオから逃げ出した。「自分の歌が終わったら、一刻もスタジオにいたくない」と背中で語るコッコの後ろ姿を「面白い見せ物」としてカメラはスタジオ出口まで追いかける。「テレビが嫌いなのにテレビで顔をさらして唄わなければならない」というコッコを、私はこの瞬間まで「今時のテレビには向かないというところがテレビ向きのウリセンになるキャラのタレント」として消費していた。
 しかし、スタジオ出口から裸足で逃げ出す姿を見て、さすがに自分たちの「見せ物消費の仕方」のあざとさに苦味を感じる。か細い栄養失調の女の子が手にしているパンのかけらを取り上げて、おもしろがる不良のような気分。

  今時、本当に歌が作りたいから作り、唄いたいから唄っていた人がいたんだな。お金がほしいとか、テレビで売れてチヤホヤされたいとかでなく、ただ自分の気持ちを歌にして自分の声で伝えたかった人だったんだな、それを私は面白いキャラとして消費しようとしていたんだな、と思う。

  娘が図書館から借りているCoccoのCD。「読んでみて。すごい歌詞が多いから」と娘に勧められて、歌詞カードをながめる。『ラプンツェル』『クムイウタ』。『ブーゲンビリア』のラストspecial thanks to「私を捨てた人へ、私が捨てた人へ、私を残して死んだ人へ、私を愛した人へ、私が愛した人へ、私が愛した美しい島へ、心からのキスを込めて」とある。その美しい島へコッコは帰り、心を癒やすだろう。「これからはふるさとの島で絵本を作ってすごす」と話していたが、いつかまた歌を作ったら、テレビじゃないところで聞いてみよう。
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2001/05/05 土 晴れ
ことばの知恵の輪>フラジャイル チルドレン

  coccoの歌詞は、どれもせつなく痛ましく、いとおしい。愛の中で傷つき、傷つく自分を抱きしめている。自己愛と人恋しさと。それでも人の愛を求めずにはいられない存在として生きていくこと。このような傷つけられやすさの中で、首に下げられた「こわれもの注意」の札を手で隠して、女の子たちは愛を求めていかなければならないのだろう。

  たとえば、『ベビーベッド』の一節。
  「あなたに瓜ふたつの生き物がわたしの子宮から出てきたら バンドを呼び集めて舞い踊りその子の誕生を喜ぶわ あなたのように私を捨てないように 鉄の柵で作った檻に入れて眺め乳を与えあやしていつもいつも見てるわ 壊れるくらい愛してあげるの 首輪と足枷でもこしらえて私の名前だけをくり返す....」この追いつめ方は、自傷行為に近い。自傷による自己愛。

  傷つきやすさこそがアイデンティティとなるフラジャイル世代。トラウマを語ることで自己存在証明を行うしかないfrajile children。
  「リストカット症候群」とも言えるような、自分で自分を傷つけることでしか自分の存在を確認できない子どもたち。自傷行為の痛みの中でかろうじて感じられる自己。このような傷つきやすさの中でしか生きられない世代を抱きしめてやるべき年齢でありながら、私は私で、壊れかかる自分自身に絆創膏など貼りまわるのに忙しい。傷つくリスクを背負いきれない思秋期vs傷つくことでしか自己を語れない思春期。

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2013/05/12
 2007~2011に芸能活動休止していた華原朋美は2012年の年末から芸能界復帰。さて、今回で再浮上できるのか。浮き沈みの多いのがあたりまえの芸能界だけど、この人の浮いたり沈んだりも忙しい。再々登場の歌はレミゼラブルの「夢破れて」スーザン・アン・ハサウェイに負けない声を響かせて欲しいです。

 急浮上したスーザン・ボイルの人生もあれば浮いたり沈んだりのトモちゃんの人生もある。さて、私の人生に浮き沈みはあったか?きっぱり、ないですっ。ずっと沈みっぱなしだったから、、、、、、。

<つづく>
コメント (4)
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