2013/05/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(5)映画の中のBORO衣裳
田中忠三郎は著書『物には心がある』の中で、さまざまな無名の人々との出会いを記録し、青森の凍える寒さの中に輝く人の心のあたたかさをつづっています。また棟方志功、高橋竹山ら青森人との深い親交も書き残しています。そんな田中の「出会いの旅」の中で、「生涯の誉れ」として書き残しているのが、「夢のような世界のクロサワとの交流」という一章です。
田中は中学1年生のとき、黒澤明監督の「我が青春に悔いなし」を見て大感激。原節子らのまっすぐな生き方にあこがれました。
映画を見終わって、席を立つこともできないほど感動したそうで、「この映画で、人生を一生懸命に生きることのすばらしさを教えられた」と書いています。
戦後の混迷期、1946年に発表された『我が青春に悔いなし』は、滝川事件とゾルゲ事件をモデルにした黒澤の第5作目の映画作品です。GHQと東宝労働組合の間に挟まれて、思い通りの映画には仕上がらなかった「我が作品に悔いあり」でした。
のちに田中が黒澤に「中学生のとき見て人生の指針となった映画が『我が青春に悔いなし』です」と話すと、黒澤は「あの作品は悔いある作品なんだ」と打ち明けたそうです。
黒澤映画の衣裳プロデュサーであった黒澤の長女和子が、田中のもとを訪れ、黒澤80歳の作品『夢』の衣装について、特別な依頼をしました。衣装全体の担当はワダエミですが、「水車のある村」には、青森の野良着を使いたいというのが黒澤明の希望でした。
田中が長年集めてきた青森の野良着は、ようやく有形民俗文化財の指定を受けることができたところで、文化庁の許可無しに外部へ貸し出すことができない。田中は、自腹をきって新たに野良着を集め、黒澤のもとに届けました。「我が青春に悔いなし」を人生の指針とさせてもらったことへのお礼として、無償での提供で「物品借用証」も要らないという「寄贈」での提供でした。
田中が集めた野良着、裂き織りの前だれなど350点は東京の黒澤のもとに送られ、撮影開始。黒澤は「水車のある村」のロケ地(長野県大王わさび農園)に招待して田中夫妻を歓待したほか、それ以後、黒澤が1998年に亡くなるまで、毎年田中を誕生日の集まりに招待したそうです。作品の上ではただ一度のおつきあいであった田中を、そうして生涯「大切な友」として遇した黒澤を知って、映画の世界では「クロサワテンノー」とかワンマンとか言われてきた彼が、周囲の人に対して細やかな心遣いができる人なんだなあと、イメージが変わりました。
田中と黒澤 安曇野のロケ地で

さらに黒澤は、撮影終了後、350点の衣装をそっくりそのまま田中に返還しました。現在アミューズミュージアムには、そのうちの一部が展示されています。
笠智衆を中心とする村の人々が、百歳を超えて亡くなったおばあさんのお葬式に参列して行進するシーンに使われた衣装が並んでいます。
映画を見ていたときは、夢の中の村ですし、ゆったりと水車の廻る美しい風景にみとれるばかりでした。笠智衆らの、あの世とこの世のさかいめなどないような会話の連なりに、衣装をひとつひとつ眺めてみることもしなかったのですが、改めてアミューズミュージアムの展示室に並んでいる衣装を眺めていくと、あるシーンが印象的に観客の目に映るには、衣装や小道具のひとつひとつの存在が一体となって効果をあげていたのだと感じました。
「水車のある村」の農民衣装

地方の文化人としてそれなりに知られ、民俗民具の収集家として知る人ぞ知る存在であったとはいえ、全国的に知られた学者ではなかった田中忠三郎さんですが、私は今年正月にはじめてアミューズミュージアムを訪れ、田中忠三郎という人を知ることができてよかったと思います。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(5)映画の中のBORO衣裳
田中忠三郎は著書『物には心がある』の中で、さまざまな無名の人々との出会いを記録し、青森の凍える寒さの中に輝く人の心のあたたかさをつづっています。また棟方志功、高橋竹山ら青森人との深い親交も書き残しています。そんな田中の「出会いの旅」の中で、「生涯の誉れ」として書き残しているのが、「夢のような世界のクロサワとの交流」という一章です。
田中は中学1年生のとき、黒澤明監督の「我が青春に悔いなし」を見て大感激。原節子らのまっすぐな生き方にあこがれました。
映画を見終わって、席を立つこともできないほど感動したそうで、「この映画で、人生を一生懸命に生きることのすばらしさを教えられた」と書いています。
戦後の混迷期、1946年に発表された『我が青春に悔いなし』は、滝川事件とゾルゲ事件をモデルにした黒澤の第5作目の映画作品です。GHQと東宝労働組合の間に挟まれて、思い通りの映画には仕上がらなかった「我が作品に悔いあり」でした。
のちに田中が黒澤に「中学生のとき見て人生の指針となった映画が『我が青春に悔いなし』です」と話すと、黒澤は「あの作品は悔いある作品なんだ」と打ち明けたそうです。
黒澤映画の衣裳プロデュサーであった黒澤の長女和子が、田中のもとを訪れ、黒澤80歳の作品『夢』の衣装について、特別な依頼をしました。衣装全体の担当はワダエミですが、「水車のある村」には、青森の野良着を使いたいというのが黒澤明の希望でした。
田中が長年集めてきた青森の野良着は、ようやく有形民俗文化財の指定を受けることができたところで、文化庁の許可無しに外部へ貸し出すことができない。田中は、自腹をきって新たに野良着を集め、黒澤のもとに届けました。「我が青春に悔いなし」を人生の指針とさせてもらったことへのお礼として、無償での提供で「物品借用証」も要らないという「寄贈」での提供でした。
田中が集めた野良着、裂き織りの前だれなど350点は東京の黒澤のもとに送られ、撮影開始。黒澤は「水車のある村」のロケ地(長野県大王わさび農園)に招待して田中夫妻を歓待したほか、それ以後、黒澤が1998年に亡くなるまで、毎年田中を誕生日の集まりに招待したそうです。作品の上ではただ一度のおつきあいであった田中を、そうして生涯「大切な友」として遇した黒澤を知って、映画の世界では「クロサワテンノー」とかワンマンとか言われてきた彼が、周囲の人に対して細やかな心遣いができる人なんだなあと、イメージが変わりました。
田中と黒澤 安曇野のロケ地で

さらに黒澤は、撮影終了後、350点の衣装をそっくりそのまま田中に返還しました。現在アミューズミュージアムには、そのうちの一部が展示されています。
笠智衆を中心とする村の人々が、百歳を超えて亡くなったおばあさんのお葬式に参列して行進するシーンに使われた衣装が並んでいます。
映画を見ていたときは、夢の中の村ですし、ゆったりと水車の廻る美しい風景にみとれるばかりでした。笠智衆らの、あの世とこの世のさかいめなどないような会話の連なりに、衣装をひとつひとつ眺めてみることもしなかったのですが、改めてアミューズミュージアムの展示室に並んでいる衣装を眺めていくと、あるシーンが印象的に観客の目に映るには、衣装や小道具のひとつひとつの存在が一体となって効果をあげていたのだと感じました。
「水車のある村」の農民衣装

地方の文化人としてそれなりに知られ、民俗民具の収集家として知る人ぞ知る存在であったとはいえ、全国的に知られた学者ではなかった田中忠三郎さんですが、私は今年正月にはじめてアミューズミュージアムを訪れ、田中忠三郎という人を知ることができてよかったと思います。
<つづく>