2013/05/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(6)おやつ談義-BOROの美、贅沢貧乏の美
森茉莉の美意識に魅了される女性、私が読んできた範囲ではかなり多い。
台所も自室内にはない、共同キッチンの古アパートで、出来上がる料理はとってもおいしそう。アクセラリーを語っても服の好みをのべても、研ぎ澄まされた感性が超一流の美意識となって、流麗な文体に綴られる。
『贅沢貧乏』『貧乏サヴァラン』などのエッセイにきらきらとその美の世界が描かれ、『父の帽子』などに、「父の娘」として育った至福の中に一生をすごした人であったことが包まず語られる。
私も好きですよ、森茉莉。『私の美の世界』も、ひとつひとつのエピソードを、上等な洋菓子や洋酒を一口ずつ味わうような気分で読みました。
それでも、ときに彼女の美意識に、なんとはなしの反感を感じてしまうのは、鴎外に溺愛され、新婚旅行は「ヨオロッパ」だった「上等なお茉莉」とは真逆の、上品とはほど遠い「一般庶民」のがさつな生活の中で育ってきた者の僻みによるのだとわかってはいます。
森茉莉は、お菓子の思い出について、こう書く。「お菓子の話(「貧乏サヴァラン」より)」
「天長節の日、父親が宮中から持って帰る白木綿の風呂敷包みは、私の有頂天な夢をかきたてた。風呂敷包みを解くと、緋色の練切りの御葉牡丹、羊羹の上に、卵白と山の芋で出来たが透き通ってみえる薄茶入りの寒天を流したもの、氷砂糖のかけらを鏤めた真紅い皮に濾した餡を挟んだ菓子、なぞがひっそりと入っていた。明治の文学者は多くの報酬をえたとはいえない。それらのきらめく菓子たちはたいてい頂き物であって、私たちが常用したのは本郷、青木堂のマカロン、干葡萄入りのビスケット、銀紙で包んだチョコレエト、ドロップ、カステラなぞであった。どこかの遠い知人から送られてくる、白い薄荷糖は甘く、品のいい蜜の味。種のない白い干葡萄。これらは年に一度の楽しみであった」
明治の裕福な家庭で繰り広げられる、溺愛されて育つ娘と文豪の物語。「パッパ」と「お茉莉」の濃密な甘やかさのお菓子たち。
森茉莉がいう「私たちが常用したのは、マカロン、カステラ」と書く、そのマカロンやカステラなどがわが家にとっては「ハイカラなハレの日のおやつ」であって、日常のおやつは、塩煎餅やまんじゅう、黒糖のかかったかりんとうなどでした。
私が「この人の感じ方が好き」と思う佐野洋子は、お菓子や家庭料理について次のように書いている。「伯爵夫人のたいこ(「がんばりません」より)」
「『私の洋風料理ノート』は人事院総裁佐藤達夫氏の夫人昌子さんの家庭料理の本である。
私はこの本で息子の好きな「伯爵夫人のたいこ」を何度も作ったし、デザートの「酒飲み」というお菓子も作った。ずいぶん汚れた。しかしこれは私にとって料理の本というより幸せな上流家庭の小説のように思えた。昌子さんが幼少の頃、父上はヨーロッパからきれいな絵はがきや絹のリボン、ハート型のペンダントを贈り、西洋風なマナーを教え、母上は明治の人でありながら、独逸風お菓子を作るという家庭に育っている、ということがお料理の手順の間にびっしり書かれているのである。そしてそういう家庭の娘がふさわしい格式の家に嫁いで四十年厳しい姑に賢く仕え、その姑がどんなに意地悪だったかというのもバターの香りの間から立ち上ってくる。」(中略)
「私はハンガリアグラーシュなどというしゃれた料理を、その本をめぐりながら団地の台所で作り、幼年時代は絹のリボンはおろか、芋の団子を食っていた。戦後のドサクサの子だくさんの親は西洋風テーブルマナーなど及ぶところではなく、せいぜい「食い物を残すと目がつぶれるぞ」とか「肘を下げろ」とか云ってにらみつけ、その合間に夫婦げんかもなさっていた。これが同じ日本人の立体的構図というものである。貧乏人とはいやなもので、この本の料理の手順の間にみごとに描き出されているいわば上流社会の家庭のあり様を私は何故か、犬養道子の『ある歴史の娘』や『花々と星々と』と同じように、表現が自慢になってしまう人たちと思えてしまうのである。たぶん貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう」
上流階級に育ってしまった女性たちの書くものが「無意識の自慢」であることを、佐野洋子は鋭く見抜く。そして、「貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう」という佐野のことばに、共感してほっと安心する。私など、ひがみとねたみとそねみばかりを書いているのだから。
金持ちと美貌の人と才能を持つ人へのひがみねたみが私の体の90%を作っていることを、それこそ「貧乏人の悲しさ」と思っているので。
むろん、上流育ちの「無意識の自慢」だけでなく、数限りない貧乏話も読んできた。成功者が「昔はこんなに貧乏だった」と書くのも、一種の自慢である。プロレタリア文学とか私小説の赤貧話も、それを文章にできた時点で、私にははるか見上げる才能への、やっかみとなってしまう。
田中忠三郎は、青森の農民の「おやつ」について書いています。
「畑にヒエの種をまくというので見ていたら、畝にまくときに風でとんでいってしまわないように肥料、、、つまりウンコとオシッコを入れた桶に、あらかじめヒエの種を入れて混ぜた上でそれをまくのだという。なるほどこれも生活の知恵である。
老婆はその肥桶の中味を素手でさっと混ぜ合わせたかと思うと、手のひらですくったそれの種入りの肥やしを、畝のうえにピタッ、ピタッと慣れた手つきでまき始めた。初めて見る光景なのでいささか驚いた。
やがてコビキ(おやつ)の時間いなった。お婆さんは、てのひらにこびり付いた肥やしを野良着の裾で二、三度拭くと、茹でてあったジャガ芋をつかみ、うまそうに食べ始めた。」
肥やしのついた手でおやつを食べたあと、夜なべにその手は、針を持ち、ひと針ひと針、ボロを繕うのです。
絹のリボンや黄金の鎖のついた首飾りなどの美しいものを愛する女心が嫌いなわけではありません。ただ、私は、この年になって我が手のしわしわになって指の関節が節くれてきているのをじっと眺めていると、この手には絹のリボンは似合わなかったし、黄金の指輪をこれから指にはめることもないだろうなあ、と思います。
田中忠三郎の収集した青森のドンジャ(夜着)やボド(敷布)の盛大なボロボロぶりは、なんともほっとする「本物の貧しさ」に思えます。絹のリボンは似合わない僻みも黄金の指輪を買えないねたみもすんなり抜け落ちて、そのボロにほおずりしたくなるようないとおしさを感じるのです。
私は「苦役」と呼ばれるほどの労働をしてきたわけでもない。小説のネタになるほどの苦労でもなかった、どこにでもある貧乏な暮らし。そんな暮らしのなかで、それでも、「美しいもの」を愛でていきたい。
その「美しいもの」のひとつに、青森のボドやドンジャの「ぼろ」を加えて下さった、田中忠三郎さん。3月6日に亡くなってから、3ヶ月ちかくが過ぎました。栄耀栄華とは無縁に生きた田中さんですが、大勲位だの恩賜賞とは関わりなく、その生涯を偉大だと感じます。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(6)おやつ談義-BOROの美、贅沢貧乏の美
森茉莉の美意識に魅了される女性、私が読んできた範囲ではかなり多い。
台所も自室内にはない、共同キッチンの古アパートで、出来上がる料理はとってもおいしそう。アクセラリーを語っても服の好みをのべても、研ぎ澄まされた感性が超一流の美意識となって、流麗な文体に綴られる。
『贅沢貧乏』『貧乏サヴァラン』などのエッセイにきらきらとその美の世界が描かれ、『父の帽子』などに、「父の娘」として育った至福の中に一生をすごした人であったことが包まず語られる。
私も好きですよ、森茉莉。『私の美の世界』も、ひとつひとつのエピソードを、上等な洋菓子や洋酒を一口ずつ味わうような気分で読みました。
それでも、ときに彼女の美意識に、なんとはなしの反感を感じてしまうのは、鴎外に溺愛され、新婚旅行は「ヨオロッパ」だった「上等なお茉莉」とは真逆の、上品とはほど遠い「一般庶民」のがさつな生活の中で育ってきた者の僻みによるのだとわかってはいます。
森茉莉は、お菓子の思い出について、こう書く。「お菓子の話(「貧乏サヴァラン」より)」
「天長節の日、父親が宮中から持って帰る白木綿の風呂敷包みは、私の有頂天な夢をかきたてた。風呂敷包みを解くと、緋色の練切りの御葉牡丹、羊羹の上に、卵白と山の芋で出来たが透き通ってみえる薄茶入りの寒天を流したもの、氷砂糖のかけらを鏤めた真紅い皮に濾した餡を挟んだ菓子、なぞがひっそりと入っていた。明治の文学者は多くの報酬をえたとはいえない。それらのきらめく菓子たちはたいてい頂き物であって、私たちが常用したのは本郷、青木堂のマカロン、干葡萄入りのビスケット、銀紙で包んだチョコレエト、ドロップ、カステラなぞであった。どこかの遠い知人から送られてくる、白い薄荷糖は甘く、品のいい蜜の味。種のない白い干葡萄。これらは年に一度の楽しみであった」
明治の裕福な家庭で繰り広げられる、溺愛されて育つ娘と文豪の物語。「パッパ」と「お茉莉」の濃密な甘やかさのお菓子たち。
森茉莉がいう「私たちが常用したのは、マカロン、カステラ」と書く、そのマカロンやカステラなどがわが家にとっては「ハイカラなハレの日のおやつ」であって、日常のおやつは、塩煎餅やまんじゅう、黒糖のかかったかりんとうなどでした。
私が「この人の感じ方が好き」と思う佐野洋子は、お菓子や家庭料理について次のように書いている。「伯爵夫人のたいこ(「がんばりません」より)」
「『私の洋風料理ノート』は人事院総裁佐藤達夫氏の夫人昌子さんの家庭料理の本である。
私はこの本で息子の好きな「伯爵夫人のたいこ」を何度も作ったし、デザートの「酒飲み」というお菓子も作った。ずいぶん汚れた。しかしこれは私にとって料理の本というより幸せな上流家庭の小説のように思えた。昌子さんが幼少の頃、父上はヨーロッパからきれいな絵はがきや絹のリボン、ハート型のペンダントを贈り、西洋風なマナーを教え、母上は明治の人でありながら、独逸風お菓子を作るという家庭に育っている、ということがお料理の手順の間にびっしり書かれているのである。そしてそういう家庭の娘がふさわしい格式の家に嫁いで四十年厳しい姑に賢く仕え、その姑がどんなに意地悪だったかというのもバターの香りの間から立ち上ってくる。」(中略)
「私はハンガリアグラーシュなどというしゃれた料理を、その本をめぐりながら団地の台所で作り、幼年時代は絹のリボンはおろか、芋の団子を食っていた。戦後のドサクサの子だくさんの親は西洋風テーブルマナーなど及ぶところではなく、せいぜい「食い物を残すと目がつぶれるぞ」とか「肘を下げろ」とか云ってにらみつけ、その合間に夫婦げんかもなさっていた。これが同じ日本人の立体的構図というものである。貧乏人とはいやなもので、この本の料理の手順の間にみごとに描き出されているいわば上流社会の家庭のあり様を私は何故か、犬養道子の『ある歴史の娘』や『花々と星々と』と同じように、表現が自慢になってしまう人たちと思えてしまうのである。たぶん貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう」
上流階級に育ってしまった女性たちの書くものが「無意識の自慢」であることを、佐野洋子は鋭く見抜く。そして、「貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう」という佐野のことばに、共感してほっと安心する。私など、ひがみとねたみとそねみばかりを書いているのだから。
金持ちと美貌の人と才能を持つ人へのひがみねたみが私の体の90%を作っていることを、それこそ「貧乏人の悲しさ」と思っているので。
むろん、上流育ちの「無意識の自慢」だけでなく、数限りない貧乏話も読んできた。成功者が「昔はこんなに貧乏だった」と書くのも、一種の自慢である。プロレタリア文学とか私小説の赤貧話も、それを文章にできた時点で、私にははるか見上げる才能への、やっかみとなってしまう。
田中忠三郎は、青森の農民の「おやつ」について書いています。
「畑にヒエの種をまくというので見ていたら、畝にまくときに風でとんでいってしまわないように肥料、、、つまりウンコとオシッコを入れた桶に、あらかじめヒエの種を入れて混ぜた上でそれをまくのだという。なるほどこれも生活の知恵である。
老婆はその肥桶の中味を素手でさっと混ぜ合わせたかと思うと、手のひらですくったそれの種入りの肥やしを、畝のうえにピタッ、ピタッと慣れた手つきでまき始めた。初めて見る光景なのでいささか驚いた。
やがてコビキ(おやつ)の時間いなった。お婆さんは、てのひらにこびり付いた肥やしを野良着の裾で二、三度拭くと、茹でてあったジャガ芋をつかみ、うまそうに食べ始めた。」
肥やしのついた手でおやつを食べたあと、夜なべにその手は、針を持ち、ひと針ひと針、ボロを繕うのです。
絹のリボンや黄金の鎖のついた首飾りなどの美しいものを愛する女心が嫌いなわけではありません。ただ、私は、この年になって我が手のしわしわになって指の関節が節くれてきているのをじっと眺めていると、この手には絹のリボンは似合わなかったし、黄金の指輪をこれから指にはめることもないだろうなあ、と思います。
田中忠三郎の収集した青森のドンジャ(夜着)やボド(敷布)の盛大なボロボロぶりは、なんともほっとする「本物の貧しさ」に思えます。絹のリボンは似合わない僻みも黄金の指輪を買えないねたみもすんなり抜け落ちて、そのボロにほおずりしたくなるようないとおしさを感じるのです。
私は「苦役」と呼ばれるほどの労働をしてきたわけでもない。小説のネタになるほどの苦労でもなかった、どこにでもある貧乏な暮らし。そんな暮らしのなかで、それでも、「美しいもの」を愛でていきたい。
その「美しいもの」のひとつに、青森のボドやドンジャの「ぼろ」を加えて下さった、田中忠三郎さん。3月6日に亡くなってから、3ヶ月ちかくが過ぎました。栄耀栄華とは無縁に生きた田中さんですが、大勲位だの恩賜賞とは関わりなく、その生涯を偉大だと感じます。
<つづく>