
20250316
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(8)メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館
久しぶりのMOMAS埼玉県立近代美術館です。昔は北浦和まで自転車で来られるところに住んでいたし、都内に住むようになってからも、週一回は北浦和からバスで通うところで仕事をしたこともあって、そう遠くには感じていなかったのだけれど、今の住まいになってからは、「行けない距離じゃないけれど、出かけるのがおっくうなところ」になってしまいました。今の住まいから気軽に行ける美術館がたくさんあるので、よほど見たい企画展があるときしか訪問しない。
今回のMOMASの企画「メキシコへのまなざし」展。
フリーダ・カーロの伝記映画を見て、ディエゴ・リベラなどの名を知り、岡本太郎が描いた壁画がメキシコのホテル解体時に行方不明になったのが発見されて井の頭線渋谷駅コンコースに展示されたことなど、メキシコ美術について知っていることはわずかしかありませんでした。2023年7月にタカ氏といっしょに古代メキシコ展を観覧し、メキシコアート遺伝子の継承についても興味が残っていました。
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埼玉県立近代美術館の口上
1950年代の日本では、メキシコ美術が展覧会や雑誌を通じて盛んに紹介され、多くの美術家がその鮮やかな色彩、古代文明や革命の歴史と結びついた力強い造形表現に魅了されました。とりわけ、1955年に東京国立博物館で開催された「メキシコ美術展」は、美術家たちがメキシコに目を向けるきっかけとなります。一方、埼玉県立近代美術館は1982年の開館以来、メキシコの近現代美術を収集し、メキシコ美術に焦点をあてた展覧会をたびたび開催してきました。こうした活動の背景には、埼玉県とメキシコ州との姉妹提携締結(1979年)に加えて、1955年の「メキシコ美術展」を訪れ、メキシコ美術への造詣を深めていった初代館長・本間正義の存在がありました。
この展覧会では、1950年代にメキシコに惹かれた美術家の中から、福沢一郎、岡本太郎、利根山光人、芥川(間所)紗織、河原温の足跡をたどり、彼ら彼女らがメキシコをどのように捉えたのかを考えていきます。また当館のメキシコ美術コレクションとその形成の歩みを、学芸員としてメキシコ美術の普及に努めた本間正義の仕事とともに紹介します。作品や資料、開催された展覧会などを通じて、戦後日本がメキシコ美術に向けたまなざしを、様々な角度から検証する試みです。
この展覧会では、1950年代にメキシコに惹かれた美術家の中から、福沢一郎、岡本太郎、利根山光人、芥川(間所)紗織、河原温の足跡をたどり、彼ら彼女らがメキシコをどのように捉えたのかを考えていきます。また当館のメキシコ美術コレクションとその形成の歩みを、学芸員としてメキシコ美術の普及に努めた本間正義の仕事とともに紹介します。作品や資料、開催された展覧会などを通じて、戦後日本がメキシコ美術に向けたまなざしを、様々な角度から検証する試みです。
「メキシコへのまなざし」展のキャッチコピーは「あの頃、みんなメキシコに憧れた」です。利根川光人、岡本太郎など、メキシコを中心とする南米地域を訪れ、メキシコ美術に魅了された作品が展示されました。
埼玉近代美術館開館時の初代館長を務めた本間正義(1916-2001)は、1962年、国立近代美術館員であったときと渡墨して以来、メキシコのアーティストと親交を深め、1985年に埼玉近代美術館の企画として「メキシコの美術」展を開催。
MOMASのニュースレターを「ZOCALO(スペイン語で広場)」と名付けたのも本間だそう。
第1章メキシコ美術がやってきた。
第2章美術家たちのメキシコ5人の足跡から
第3章埼玉とメキシコ美術
第1章
古代メキシコの遺跡に残る造形の力強さに加えて、近代メキシコでの「革命」の精神性は、それまで西欧へ顔を向けてきた日本のアーティストにとって、新しいまなざしの発見と感じられたと思います。
のちにメキシコ芸術の泰斗となるディエゴ・リベラも、20世紀初頭にはヨーロッパ留学中で、キュビズムの影響を受けた絵を描いていました。1921年にメキシコに帰国し、新しい芸術運動をはじめたリベラの後の作品にもキュビズムの影響は残っていると、福沢一郎は評しているそうです。
ディエゴ・リベラ「スペイン風景トレド」1913

第1章最初の展示。戦後日本美術界、1950年代にメキシコブームともいえる現象の源となった、メキシコアーティストの紹介です。
最初のコーナーは、20世紀初頭の新聞や雑誌に載って人々を鼓舞したメキシコの版画作品がならんでいました。
ホセ・グアダルーペ・ポサダが新聞や雑誌に載せた「エミリオ・サパタの死」は人間の姿で描かれています。マーロン・ブランドがサパタを演じた「革命児サパタ」、昔見たきりなので、アンソニー・クインしか覚えていなかった。脳内変換で、私はクインがサパタを演じたのだと思っていた。
サパタの盟友、メキシコ革命で活躍し第33代メキシコ大統領になったF・マデラは、「骸骨フランシスコ・マデラ」として骸骨姿に描かれました。
メキシコの「死者の日」に骸骨姿で死者がやってくる伝統は、「リメンバーミー(COCO)」で世界中の人が知るようになりました。私も、南米からの留学生に死者の日について聞いたときは、日本のお盆の魂迎えのようなものだと思い、COCOの画面に出てくるようなお祭りとは思っていなかったのです。
ホセ・グアダルーペ・ポサダ「骸骨フランシスコ・マデラ」1912

メキシコの労働者運動は大きなうねりとなり、美術家たちは、「壁画運動」として、公共の建物、学校や役所の壁にテンペラ画を描く活動を続けました。
新聞や雑誌への版画の掲載も続いていきます。
ホセ・クレメンテ・オロスコ「示威行動」1935

北川民次(1894-1989)は1914年に渡米。1923年に渡墨。メキシコで美術学校在籍、児童美術学校教師などを経て以後1936年に妻子をともなって帰国するまで、メキシコ壁画運動などに共鳴しつつ制作と美術教育に携わりました。帰国後は日本の画壇主流とはことなる画風ゆえ「メキシコ派」と呼ばれました。児童美術に貢献することを望み絵本製作に携わりますが、戦争激化の影響で紙不足出版制限があり絵本出版も断念。妻の実家のある瀬戸市に疎開し、1943から1968年まで在住し、のちに東京在住期間もありましたが、91歳で没した地は瀬戸市でした。北川作品の多くは名古屋市美術館が所蔵。
埼玉県立近代美術館は、今展に北川の版画を2点出展していますが、第2章で取り上げる5人の画家との影響関係などについては、特に述べていません。本間正義が収集対象にしていなかったゆえ所蔵品が少ないのかな、と推察。「眠るインディアン」は、画廊経営者からの寄贈作品です。
北川民次「眠るインディアン」1961

第2章は、戦後画壇にメキシコへの憧憬を重ねた岡本太郎、利根川光人、福沢一郎の作品がならんでいます。
岡本太郎がメキシコを訪れたときに買い求めた民芸品、メキシコ各地で撮った写真も展示され、現在私たちが一目みて「これぞタロー」と思う色や構図が出てくるのはメキシコ訪問やシケイロスやリベロから受けた感性が大きかったのではないかと思います。