天気 晴
写真は、数年前に撮った片栗の花。年によるけれど、今年は何でも早いのでとっくに咲いているかもしれない。隣駅前の都立庭園の狭い土手にたくさん咲く。自生の花を見るためにはかなり歩かねばならないが、ここは駅の改札口を出て僅か数分の庭園だ。毎年のように見に行っていたけれど・・そんな近い場所も、今の私には遠くなってしまった。
お雛様は片付けた。がんを患ってからは毎年、片付ける時には来年飾ることはもうないかも・・と思ったものだ。でも、それから15年。毎年、飾ってきた。なぜか、今年はもうそういうことも考えなくなってしまった。来年、が来なくて当たり前、と思うようになってしまったのかもしれない。
大好きな片栗の花の写真を見ても、咲き揃っているあの光景をまた見に行きたい、とは切望していない。
明日は3.11で、もう13年前のことになる。なんとなくその当時のブログを眺めてみたら、今はもう考えられないようなことが私の周囲にも起きていた。
スーパーの日用品不足。放射線被害騒動、などなど。私は案外用心深くて、当時から災害に備えてのストックはしている方だった。なのに、買い物に行ったついでに列なしているティッシュペーパー売場で買い足したりしている。、万一のためにトイレットペーパーを2ヶ月分くらいストックしていたから、何も慌てることはないのに・・
あれから、熊本でも震災があり、コロナ禍があり、今年また能登の震災。そのたびに防災が叫ばれる。私は今は防災も施設任せだが(安心出来るかどうかは??)それでも水とトイレットペーパーのストックの癖は抜けない。
午後、同じ階のFさんと日向ぼっこしながら久々に話し込んだ。Fさんは私よりも何歳か上で、奥さまを亡くされての1人暮らしに限界を感じて入所した人。足は悪くて歩行器で移動しているが、認知症もないし聴力も何とか保っている、ここでは珍しい男性だ(なぜか男性は耳の遠い人が多い)。
「認知症の人は死への恐怖はないらしいよ」と、彼の話。私はそれは考えたことがなかった。「恐怖がないというより、考えないんだろうな。羨ましいよ」
本当にそうなら、私も認知症になってしまいたいけれど・・
「災害の悲惨さをテレビで見ても理解しないのでしょうねえ」
もしそうだったら、羨ましいけれど。3.11を思い出すのは、被災地の端っこに居ただけの私にも辛い。
一年ののちは思はず雛納む KUMI