宍戸城跡は、元の友部町市街地のほとんどを敷地としていたようですが、遺構のほとんどは残っていません
土塁が残っているのは、笠間市役所の西約1.5km
JR水戸線ししど駅の南東側直ぐの所に
笠間市の観光案内板、旧陣屋です
旧陣屋コミュニティーセンターの前です
史跡 宍戸城址土塁の案内板が有ります
土塁の上には、末廣稲荷神社が有ります
末廣稲荷神社の説明版です
末廣稲荷神社
鎮座地 友部町平町102-1(旧宍戸町)
交 通 水戸線宍戸駅から0.3キロ
祭 神 宇迦之御魂命
祭 祀 初午祭 二月初午日 例祭 十一月二十三日
由緒沿革
創立天保十年、旧宍戸城主松平氏の崇敬社、明治維新で松平氏東京へ移住後は、もとの家臣が維持してきた、
俗「子供稲荷神社」と云い、幼児の健康・成長神徳顕著で尊敬者が多い、昭和二十八年一月二十一日宗教法人
設立、同四十五年十一月二十三日本殿・拝殿・鳥居・玉垣竣功、明治三十に年村上長兵衛氏寄進の神田の処分
代金によった。
神 木 けやきの古木あり
施 設 本殿(西向)流造トタン葺、方1.5間、瑞垣ブロック造り、切妻造りコンクリート柱外壁なし。
拝殿間口三間奥行二間六坪、石灯籠一対、手水石二基、神明鳥居一基(コンクリート造)幟立石(
大正十一年十一月十五日)石段十八段、社号標、聖徳太子碑(昭和三年十一月十日)境内134坪
境外所有地一反歩
宮 司 福田宣清 責任役員 幾浦道弘 川上武男 荒川登
総 代 荒川登 潮田庄吉 加藤重男 海老次順 幾浦道弘 川上武男 橋本新吾 川上昭 海老沢惇 荒
木和裕
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)宇迦之御魂命、宇賀魂命=伊 二尊の御子とも、素戔御命の
御子ともいう、
衣食住、殊に食物を主宰し給う百穀の神、
南側の道路を東へ行きます
県道沿いに宍戸城表門が有ります
説明版です
茨城県指定文化財
旧宍戸城表門 一棟
指定日 昭和五十一年匕月五日
様 式 木造長屋門形式 瓦葺
建 立 江戸時代安政五年(1858)再建
桁行七間半、梁間二間半、入母屋造りのこの長屋門は、元水戸藩の連枝宍戸松平家の陣屋表門であったが
明治初期の廃藩後、現在地に移築されたものである。
宍戸藩は江戸時代初期に秋田氏が入封したが、天保二年(1645)三春(福島県)に国替えとなり、そ
の後藩領は、幕府・旗本の治める所となった。天和二年(1682)徳川光圀の弟頼雄をもって、宍戸松平
藩初代とし、石高一万石であった。代々藩主は江戸詰の定府制であり、陣屋の建築は天明七年(1787)
とあるが、天保十四年(1843)十一月焼失し、安政五年に再建された。
門の構造形式は、向かって左手に居室を二部屋、右に物置を配した長屋門形式である、正面の冠木には、
松平家の家紋が三個(桜材、黒漆塗、金箔押し)飾られている。県内の大名屋敷の門の中では長屋門形式の
唯一の遺構として、茨城県指定文化財となった。
笠間市教育委員会
では、次へ行きましょう
土塁が残っているのは、笠間市役所の西約1.5km
JR水戸線ししど駅の南東側直ぐの所に
笠間市の観光案内板、旧陣屋です
旧陣屋コミュニティーセンターの前です
史跡 宍戸城址土塁の案内板が有ります
土塁の上には、末廣稲荷神社が有ります
末廣稲荷神社の説明版です
末廣稲荷神社
鎮座地 友部町平町102-1(旧宍戸町)
交 通 水戸線宍戸駅から0.3キロ
祭 神 宇迦之御魂命
祭 祀 初午祭 二月初午日 例祭 十一月二十三日
由緒沿革
創立天保十年、旧宍戸城主松平氏の崇敬社、明治維新で松平氏東京へ移住後は、もとの家臣が維持してきた、
俗「子供稲荷神社」と云い、幼児の健康・成長神徳顕著で尊敬者が多い、昭和二十八年一月二十一日宗教法人
設立、同四十五年十一月二十三日本殿・拝殿・鳥居・玉垣竣功、明治三十に年村上長兵衛氏寄進の神田の処分
代金によった。
神 木 けやきの古木あり
施 設 本殿(西向)流造トタン葺、方1.5間、瑞垣ブロック造り、切妻造りコンクリート柱外壁なし。
拝殿間口三間奥行二間六坪、石灯籠一対、手水石二基、神明鳥居一基(コンクリート造)幟立石(
大正十一年十一月十五日)石段十八段、社号標、聖徳太子碑(昭和三年十一月十日)境内134坪
境外所有地一反歩
宮 司 福田宣清 責任役員 幾浦道弘 川上武男 荒川登
総 代 荒川登 潮田庄吉 加藤重男 海老次順 幾浦道弘 川上武男 橋本新吾 川上昭 海老沢惇 荒
木和裕
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)宇迦之御魂命、宇賀魂命=伊 二尊の御子とも、素戔御命の
御子ともいう、
衣食住、殊に食物を主宰し給う百穀の神、
南側の道路を東へ行きます
県道沿いに宍戸城表門が有ります
説明版です
茨城県指定文化財
旧宍戸城表門 一棟
指定日 昭和五十一年匕月五日
様 式 木造長屋門形式 瓦葺
建 立 江戸時代安政五年(1858)再建
桁行七間半、梁間二間半、入母屋造りのこの長屋門は、元水戸藩の連枝宍戸松平家の陣屋表門であったが
明治初期の廃藩後、現在地に移築されたものである。
宍戸藩は江戸時代初期に秋田氏が入封したが、天保二年(1645)三春(福島県)に国替えとなり、そ
の後藩領は、幕府・旗本の治める所となった。天和二年(1682)徳川光圀の弟頼雄をもって、宍戸松平
藩初代とし、石高一万石であった。代々藩主は江戸詰の定府制であり、陣屋の建築は天明七年(1787)
とあるが、天保十四年(1843)十一月焼失し、安政五年に再建された。
門の構造形式は、向かって左手に居室を二部屋、右に物置を配した長屋門形式である、正面の冠木には、
松平家の家紋が三個(桜材、黒漆塗、金箔押し)飾られている。県内の大名屋敷の門の中では長屋門形式の
唯一の遺構として、茨城県指定文化財となった。
笠間市教育委員会
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