善光寺楼門は、石岡市役所の北西約14km、吾国山の南麓に有ります
県道42号線(笠間つくば線)の直ぐ西側です
国重要文化財の楼門です
ようこそ森林浴の道への案内板です
正面入り口です
木組みがわかります
軒下の様子出明日
左の仁王様です
右の仁王様です
裏側の様子です
山門の説明版です
国重要文化財
善光寺楼門
所 在 地 石岡市太田字堂山九四八番地
指定年月日 昭和五八年一二月二六日
小田城主第十二代・小田左衛門尉成治公の母堂は小田家の菩提寺である山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰され
出家の身となり「雪主比丘尼」と号した。成治公は、母堂の願いから善光寺再興を図り、新治群井白郷舘荘太田月光山
山麓を安息の地と選び。文亀元年(1501)「月光院無量寿院善光寺」を建立し、新善光寺を此処に移した。
元禄一四年(1701)十一月、善光寺は現在地の堂山に移されたが、当時を偲ぶ建造物は楼門のみとなってしまっ
た。
楼門とは二階造りの門を意味するが、当楼門は二階部分を造りながらも、何らかの原因により完成を断念した「三間
一戸楼門」の形態である、戦国時代の世相の反映と思われるが、室町後期の細部建築様式を持ち、地方的特色を表した
建造物である。
二階は、縁と内部が一連となる厚板を切目状に並べ、この上に土居を置き円柱を立てている。列柱は上部粽付とし、
台輪をまわし手先肘木の組物を乗せながら、その上部は未完成であるが「楼門」の名称で重要文化財の指定を受けた。
平成五年度から七年度にかけて、楼門の解体修理が施工されたが、建築に関する記録は一切発見されなかった。
平成七年七月 石岡市教育委員会
階段を上って善光寺本堂へいきます
善光寺本堂です!!なんと惨たらしい光景でしょうか
右側の屋根は崩れています
では、次へ行きましょう
県道42号線(笠間つくば線)の直ぐ西側です
国重要文化財の楼門です
ようこそ森林浴の道への案内板です
正面入り口です
木組みがわかります
軒下の様子出明日
左の仁王様です
右の仁王様です
裏側の様子です
山門の説明版です
国重要文化財
善光寺楼門
所 在 地 石岡市太田字堂山九四八番地
指定年月日 昭和五八年一二月二六日
小田城主第十二代・小田左衛門尉成治公の母堂は小田家の菩提寺である山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰され
出家の身となり「雪主比丘尼」と号した。成治公は、母堂の願いから善光寺再興を図り、新治群井白郷舘荘太田月光山
山麓を安息の地と選び。文亀元年(1501)「月光院無量寿院善光寺」を建立し、新善光寺を此処に移した。
元禄一四年(1701)十一月、善光寺は現在地の堂山に移されたが、当時を偲ぶ建造物は楼門のみとなってしまっ
た。
楼門とは二階造りの門を意味するが、当楼門は二階部分を造りながらも、何らかの原因により完成を断念した「三間
一戸楼門」の形態である、戦国時代の世相の反映と思われるが、室町後期の細部建築様式を持ち、地方的特色を表した
建造物である。
二階は、縁と内部が一連となる厚板を切目状に並べ、この上に土居を置き円柱を立てている。列柱は上部粽付とし、
台輪をまわし手先肘木の組物を乗せながら、その上部は未完成であるが「楼門」の名称で重要文化財の指定を受けた。
平成五年度から七年度にかけて、楼門の解体修理が施工されたが、建築に関する記録は一切発見されなかった。
平成七年七月 石岡市教育委員会
階段を上って善光寺本堂へいきます
善光寺本堂です!!なんと惨たらしい光景でしょうか
右側の屋根は崩れています
では、次へ行きましょう