常陸国分尼寺跡は、石岡市役所の北西約2kmの、
石岡二高の西側・国府小学校の北側に広がっています
石岡市街地の北側、県道7号線線から東に入った所です
小学校の西側通りから入ると、特別史跡国分尼寺跡・法華滅罪之寺跡石碑です
広々とした敷地が広がります
説明版が有ります
国指定特別史跡 常陸国分尼寺跡
所 在 地 石岡市若松三丁目一番
特別史跡指定年月日 昭和二十七年三月二十九日
国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅命により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた
寺院である。
国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町でまかなわれた。
一般に、国分尼寺は国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多
い。
常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石が基壇上にあって保存され、全国的に見ても、
極めて貴重な遺跡です。
昭和四十四年から四次にわたる発掘調査のにより、各建造物基壇の規模や南大門跡・北方建物跡・西及び北を
限る溝跡などが明らかにされている。
発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが
多い。
また、土器の中では「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罰之寺を証明する資料となってい
る。
昭和六十年一月 石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
(瓦制作地は、ここから北北西約9kmの瓦遺跡等と思われます・このブログの2月13日をご覧ください)
説明版の図面部分です、説明版の建っている所が中門の前です
金堂基壇です
基壇の上には、大きな桜の木があります
北側の講堂基壇です
金堂の南側小学校の建物の傍に南大門が有ったようです
では、次へ行きましょう
石岡二高の西側・国府小学校の北側に広がっています
石岡市街地の北側、県道7号線線から東に入った所です
小学校の西側通りから入ると、特別史跡国分尼寺跡・法華滅罪之寺跡石碑です
広々とした敷地が広がります
説明版が有ります
国指定特別史跡 常陸国分尼寺跡
所 在 地 石岡市若松三丁目一番
特別史跡指定年月日 昭和二十七年三月二十九日
国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅命により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた
寺院である。
国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町でまかなわれた。
一般に、国分尼寺は国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多
い。
常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石が基壇上にあって保存され、全国的に見ても、
極めて貴重な遺跡です。
昭和四十四年から四次にわたる発掘調査のにより、各建造物基壇の規模や南大門跡・北方建物跡・西及び北を
限る溝跡などが明らかにされている。
発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが
多い。
また、土器の中では「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罰之寺を証明する資料となってい
る。
昭和六十年一月 石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
(瓦制作地は、ここから北北西約9kmの瓦遺跡等と思われます・このブログの2月13日をご覧ください)
説明版の図面部分です、説明版の建っている所が中門の前です
金堂基壇です
基壇の上には、大きな桜の木があります
北側の講堂基壇です
金堂の南側小学校の建物の傍に南大門が有ったようです
では、次へ行きましょう