新治郡衙跡は、筑西市役所の北東約6kmの国道50号線の南側にあります
直ぐ東側は桜川市の面しています。
新治廃寺跡の東側に押しボタン信号が有ります、この信号を南に入って
分かれ道を右に進むと、畑の中に史跡碑があります
史跡 新治群莪跡の碑です
史蹟 新治郡家及 不動倉址茨城縣指定の碑です
説明版です
国指定史跡 新治郡衙跡
昭和43年5月20日指定
この遺跡は、奈良時代の常陸国新治郡の郡衙(役所)の跡で、昭和16年と同18年の再度にわたって調査され
その全貌が明らかにされました。
確認された遺構は四群に分かれた建物跡で、東部群に十三棟、北部群に二十五棟、西部群九棟、南部群に四棟の
計五十一棟を数え、その範囲は十二ヘクタールの及んでいたものと思われます。
このうち東部群十三棟は、類聚国史に「弘仁八年冬十月癸亥、常陸圀新治群災、燒不動倉十三宇、穀九千九百九
十斛」とある記事に符号することから、不動倉跡と推定されます。
また、各群とも建物の基礎は砂礫の混じった土を使って地固めをしてその上に礎石を置くが、屋根は草葺きか板
葺きであったと考えられます。
ここ古郡の地は、奈良時代の地方官衙として郡衙跡の調査された遺跡の先駆けでもあり、地名と文献記載記事を
裏付けた遺跡としても重要であるとともに、新治国造系譜をひく新治郡の大領家を中心として栄えた様子がうかが
える貴重な遺跡です。
平成二十五年三月 筑西市教育委員会
東側の様子です
北側の様子です
南側には、筑波山が見えました。
では、次へ行きましょう
直ぐ東側は桜川市の面しています。
新治廃寺跡の東側に押しボタン信号が有ります、この信号を南に入って
分かれ道を右に進むと、畑の中に史跡碑があります
史跡 新治群莪跡の碑です
史蹟 新治郡家及 不動倉址茨城縣指定の碑です
説明版です
国指定史跡 新治郡衙跡
昭和43年5月20日指定
この遺跡は、奈良時代の常陸国新治郡の郡衙(役所)の跡で、昭和16年と同18年の再度にわたって調査され
その全貌が明らかにされました。
確認された遺構は四群に分かれた建物跡で、東部群に十三棟、北部群に二十五棟、西部群九棟、南部群に四棟の
計五十一棟を数え、その範囲は十二ヘクタールの及んでいたものと思われます。
このうち東部群十三棟は、類聚国史に「弘仁八年冬十月癸亥、常陸圀新治群災、燒不動倉十三宇、穀九千九百九
十斛」とある記事に符号することから、不動倉跡と推定されます。
また、各群とも建物の基礎は砂礫の混じった土を使って地固めをしてその上に礎石を置くが、屋根は草葺きか板
葺きであったと考えられます。
ここ古郡の地は、奈良時代の地方官衙として郡衙跡の調査された遺跡の先駆けでもあり、地名と文献記載記事を
裏付けた遺跡としても重要であるとともに、新治国造系譜をひく新治郡の大領家を中心として栄えた様子がうかが
える貴重な遺跡です。
平成二十五年三月 筑西市教育委員会
東側の様子です
北側の様子です
南側には、筑波山が見えました。
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