ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県筑西市、小栗城跡です!!

2015-02-21 17:23:29 | 城跡・館跡・陣屋跡
小栗城跡は、内外神宮の直ぐ西側にあります

小貝川の蛇行する丘陵のにしの端に城跡が有ります

内外神宮の鳥居脇から西側の道を進むと小栗城跡です

鳥居脇の城跡案内の石碑です

小栗城跡の入口です

入口の西側の様子です、数段に削平されています

入口に説明版が有ります、現在位置の記しの位置が違いましね
   (伝)小栗十五代城主小栗判官平助重公の顕彰由来板
                   並びに小栗城周辺の案内図
桓武天皇の曾孫平上総介高望公から七代の子孫と伝えられる平重家公(平上総介重幹公の四子)は平安時代の
  久寿二年(1155)にこの地方に伊勢皇大神宮小栗御厨(神領)の保司(管理人)となって要害の地であった
  小栗山(筑西市宮本)に築城し、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代まで三百年余りの間、栄
  枯盛衰の歴史の中にこの地方を統治されました。
   その十四代城主であった小栗孫次郎平満重公は、室町時代の永応三十年(1423)八月二日、関東公方足利
  利持氏との激戦に敗れ小栗城は落城しました。
   伝承によれば、この落城により満重公親子(助重)と家臣十名は、一族の小栗貞重等を(美濃、岐阜県大垣市)
  を頼って落ち延びる途中応永三十三年(1426)三月十六日に、相州豪族(神奈川県横浜市)横山氏館での歓
  待宴膳の毒酒によって、満重公と家臣十名は毒殺されて上野ヶ原(神奈川県藤沢市)にすてられたが、幸いにし
  て、時宗総本山遊行寺(神奈川県藤沢市)遊行寺十四代、他阿太空上人の高配によって境内墓地に厚く埋葬され
  ました。
   幸運にもこの大難を逃れ九死に一生を得た小栗助重公は、一族の小栗貞重の元に落ち延びたのち十余年を経た
  嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により再び小栗場に複しました。
   なお助重公が旧領に復した嘉吉年間(1441~1443)のころに、御先祖ご供養のため菩提寺であった、
  天照山太陽寺(筑西市井出蛯沢)を再び新しく建立なり、毒殺と言う非業の死をとげられた父満重公と十勇家臣
  の追善供養のために、境内墓地に大九重層塔と、家臣十人原五輪供養塔十基を建立されたと伝えられています。
   この施主助重公が天照山太陽寺中興の開基で在り、世上有名な小栗判官と称された室町戦国の武将で、小栗十
  五代城主、小栗彦次郎平助重公であります。
   御戒名。  (天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)


堀底道を本丸へ向かいます

堀底道を登り切ります

少し下ると、本丸入口です、見學者の記帳ノートが設置されています

竪堀のような溝を越えて行きます

階段を上がると

腰廓です

虎口のような階段を上がります

北側に回り込む様に進むと

小貝川が見渡せます

虎口状の道を更に上へ行きます

上からの小貝川の眺めです

更に上へ

また腰廓の様です

更に上へ行きましょう

そこにも腰廓状の平場が有ります

平場を南へ進むと送電線の鉄塔が有ります

送電線の手前に本丸への上り口が有ります

北側には土塁が残ります




本丸址です

北側の一段高く成った部分は櫓台でしょうか

南西側の眺めです、小貝川が南へ流れています


南下にも郭が有ります、戻りましょう


送電線鉄塔の下を進みます


東へ進むと土橋に堀跡が有ります

鉄塔下へ戻り、矢印通りに南へ進みます

南下の郭を西へ

階段を下ります

階段が急になって、林の中を抜けると

道路に出ました

ここへ出てきました

東へ進んで、内外神宮へ戻ります

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする