ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県伊那市、高遠城跡の続きです!!

2017-09-11 10:33:17 | 城跡・館跡・陣屋跡

本丸に問屋門から入ってすぐを左へ進むと堀に橋が架かっています

深いほりです

北側の堀は木々が生い茂っています

説明版です
   南曲輪
     本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住した
    ところと言われている。形状は方形をなし、本丸とは掘内道、二ノ丸とは土橋でつ
    ながっていた。
     本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な
    中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。また、明治30年(1
    897)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるに
    あたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。

更に東へ行きます

白兎橋です

説明版です
   白兎橋
     文政の頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門(1768
    ~1843)は、その号を白兎と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であっ
    た。文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与
    え、大事に至らせずにすんだという。
     また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。
     その曾孫、省三郎(奇壁)は私有地となっていた法憧院曲輪を買上げ、それを公
    園として寄付した。その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曽祖父の俳号にちなん
    で「白兎橋」と名づけたのである。
白兎橋の袂、南曲輪にはモミの大木が在ります、城内には桜の古木や紅葉なども多い中で一番の大木のようです

北側の堀の様子です

白兎橋の上から高遠の町を見下ろしましたが、木々が重なって良く見えませんね~

法憧院曲輪です、大きな記念碑が真ん中にあります

説明版です
   法憧院曲輪
     二ノ丸から掘内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方に
    は幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。
     かつて、ここには法憧院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が行なわ
    れたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、城
    の東、月蔵山のふもとの龍ヶ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。
     この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、
    紅葉のときは新雪が目にも清かに映る。

説明版です
   廣瀬奇壁 河東碧梧桐 句碑
     この碑の表は、高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られて
    いる廣瀬省三郎(俳号奇壁)の句で、遠く東の方、仙丈ケ岳を眺めて詠んだもので
    ある。
   斑雪 高嶺 朝光 鶯 啼いて居(はだれ たかね あさかげ うぐいす ないてい)
     裏面は奇壁と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪の雪形が、駒
    (馬)の姿に見えるようになった情景を詠っている。
   西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を
     また題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ 
    書家でもあった中村不折の揮毫によるものである。
   
では、駐車場へもどって、次へ行きましょう
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長野県伊那市、高遠城跡です!!

2017-09-11 06:06:34 | 城跡・館跡・陣屋跡
高遠城跡は、伊那市役所の東約10kmのところ

国道361号線を東へ、天竜川の支流、峯川右岸を進みます

突き当りの丘が高遠城跡です

右側の公園入口から大手門から城跡へ入ります

本丸手前の広い郭跡が駐車場になっています

説明版です
   勘助曲輪(史跡 高遠城跡内)
      指定 国指定史跡 昭和48年5月26日指定
      所在地 伊那市高遠町東高遠
      所有者 伊那市ほか
     高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)をしたと伝え
    られています。
     勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助から由来しますが、築城当初この曲輪はな
    く、大手口を東側から西側へ移した際、新に造成されたのではないかと言われてい
    ます。かつては、ここの駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋
    敷となっていました。曲輪周囲の堀は、戦後埋め立てられ、旧高遠高校グラウンド
    として使われた後、現在は駐車場と成っています。
     勘助曲輪の広さは769坪(2542㎡)で、曲輪内には櫓や祭事事務所、硝煙
    小屋、稲荷社等がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘
    助稲荷として、西高遠の相生町に祀られました。

二の丸への登り口ですが、大手からの道側にまわります

高遠城跡公園案内図です

国指定史跡 高遠城跡 高遠城址公園と成っています

橋を渡ります

二の丸と大手道の境の堀です

天下第一桜の大きな石碑が有ります

桜の古木が並ぶ二の丸を進みます

本丸へ向かいます

右に曲がると橋が見えて来ます

本丸入口です


左右の堀の中には、木々が繁茂しています

本丸入口の門(問屋門)です

説明版です
   問屋門
     この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
     江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、
    また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。
     高遠の問屋は、2人の名主との合議によって町政にも参与していた。
     昭和20年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門
    が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移
    築したものである。
     現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことのできない景観シンボル
    となっている。

本丸に入ります

説明版です
   高遠城の戦い(古戦場跡)
     天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて
    一気呵成の攻略に転じた。
     伊那口からの嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、恐れをなした伊那谷の諸将は、
    城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高
    遠に迫った。
     時の城主、仁科五郎盛信(信玄の5男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として
    追い返し、わずか3000の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。古来「要
    害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわ
    らず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3000の兵はことごとく城頭の
    花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てた
    と古書伝えている。
     この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の
    戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。

本丸に入って右側の様子です、低い土塁が廻っています

左へ行きましょ

説明版です
   本丸跡
     高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけ
    て二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構をもっていた。
     天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後
    高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃
    藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威
    の象徴たる天守閣はなく、平屋造りの御殿や櫓、土蔵などがあった。
     本丸御殿は政庁であるとともに、藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物
    は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に移植された桜の古木が毎年美しい
    花を咲かせ、幾多の武士の眠るこの地に散華となって降り注いでいる。

南側に櫓が有ります

説明版です
   太鼓櫓
     江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。鼓楼は搦手門の傍らにあって
    楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り
    返した後、時の数だけ太鼓を打って時を知らせていた。
     廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治
    10年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝6時から夕方
    6時まで偶数時を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。
     戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていた
    が、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。

高遠町を見下ろしました

北西隅に神社があります

社殿です

説明版です
   新城(盛信)神社・藤原神社の由来
     天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧は、家臣中村元恒の建議により、天正
    10年(1582)当城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武
    田信玄の5男、仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀
    り崇拝した。
     以前より城内には、先代内藤頼以が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧進した
    「藤原社」があったため、廃藩後の明治12年(1879)この神社を「新城神」
    と合祀して今日に至っている。
     なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在
    高遠町歴史博物館に保管されている。


では、南曲輪に行きましょう
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