三ツ木地区は、鶴ヶ島市役所のすぐ南側の地区です
高速道路の圏央道と国道407号線の間です
住宅の点在する中に慈眼寺が在ります
本堂裏側の駐車スペースを利用させて頂きました
参道入口です
普門山 慈眼寺です
本堂です
本堂の右手前に黒這松が在ります
東側から見上げました
説明版です(参道入り口道路脇に有ります)
三ツ木慈眼寺黒這松
市指定天然記念物(昭和57年3月15日指定)
真言宗普門山蓮華院慈眼寺は、「新編武蔵風土記稿」に
「開山栄祐永正2年(1505)寂す。」とあり、このこ
とから近世初頭にはその存在が明らかである。また、行基
の作と伝えられる十一面観音菩薩を本尊としている。
慈眼寺は当初、柏原街道(鎌倉街道枝道)沿に建立され
たと考えられるが、後にこの地域の信仰の中心となり、地
元の人や往来する人々に安らぎを与えたのである。
寺の庫裏の前には、地を這うかのような黒松の老樹があ
る。
これは、伝承によると寺を三ツ木の下(字宮内)から現
在の三ツ木中央(字元屋敷)に移設した際に移植されたと
伝える樹木で、黒松の樹形としては市内において他に比す
べきものがない。
なお、この松は黒松と赤松の雑種で8対2の割合で黒松
が勝っている。
樹 高 2,4m
目通り(幹周り) 1,0m
這 い 枝 約5,0m
平成6年6月30日 鶴ヶ島市教育委員会
改築記念碑です
慈眼寺本堂庫裏改築落慶記念碑
當山は普門山蓮華院慈眼寺と号す。
元は字宮内に寺があったと言い伝えられ、発掘調査で船
来陶器の梅瓶が発見されている。往時の館主の存在は不明
であるが當時の豪族であったことは間違いなく、出土品は
都市鎌倉を経由して當地に請来されたものである。
慈眼寺が開創されたのは、15世紀末期頃である。過去
帳には開山僧栄祐の没年が永正2年(1505)と記録さ
れているので一応の目安になる。
時は戦国の世、守護大名らが各地で戦いに明け暮れし力
を持ち始めたころ、関東では関東管領山内上杉氏と扇谷上
杉氏が覇権を争い、内乱が最も激しさを増していた時代に
あたる。慈眼寺開創の援助した開基者は、扇谷上杉氏配下
の在地勢力者と考えられる。延宝年間には吉見金剛院末寺
として現れる。
明治13年、第29世高顕和尚の折、暴風雨で本堂倒壊
するも、大正15年寳蔵寺住職玄英和尚は、檀徒五十有余
総力をもって起工、昭和2年2月28日竣工する。時移り
本堂いたく荒廃し、本尊並びに佛具危殆に瀕するに至り、
ここに檀徒役員、住職改築を発願し落慶を迎え記念碑を建
立する。
平成9年3月2日
昭和7年の改築記念碑です(詠めませんでしたが平成の記念碑と同様の内容と思われます)
墓地の入り口に六地蔵様です
では、次へ行きましょう
高速道路の圏央道と国道407号線の間です
住宅の点在する中に慈眼寺が在ります
本堂裏側の駐車スペースを利用させて頂きました
参道入口です
普門山 慈眼寺です
本堂です
本堂の右手前に黒這松が在ります
東側から見上げました
説明版です(参道入り口道路脇に有ります)
三ツ木慈眼寺黒這松
市指定天然記念物(昭和57年3月15日指定)
真言宗普門山蓮華院慈眼寺は、「新編武蔵風土記稿」に
「開山栄祐永正2年(1505)寂す。」とあり、このこ
とから近世初頭にはその存在が明らかである。また、行基
の作と伝えられる十一面観音菩薩を本尊としている。
慈眼寺は当初、柏原街道(鎌倉街道枝道)沿に建立され
たと考えられるが、後にこの地域の信仰の中心となり、地
元の人や往来する人々に安らぎを与えたのである。
寺の庫裏の前には、地を這うかのような黒松の老樹があ
る。
これは、伝承によると寺を三ツ木の下(字宮内)から現
在の三ツ木中央(字元屋敷)に移設した際に移植されたと
伝える樹木で、黒松の樹形としては市内において他に比す
べきものがない。
なお、この松は黒松と赤松の雑種で8対2の割合で黒松
が勝っている。
樹 高 2,4m
目通り(幹周り) 1,0m
這 い 枝 約5,0m
平成6年6月30日 鶴ヶ島市教育委員会
改築記念碑です
慈眼寺本堂庫裏改築落慶記念碑
當山は普門山蓮華院慈眼寺と号す。
元は字宮内に寺があったと言い伝えられ、発掘調査で船
来陶器の梅瓶が発見されている。往時の館主の存在は不明
であるが當時の豪族であったことは間違いなく、出土品は
都市鎌倉を経由して當地に請来されたものである。
慈眼寺が開創されたのは、15世紀末期頃である。過去
帳には開山僧栄祐の没年が永正2年(1505)と記録さ
れているので一応の目安になる。
時は戦国の世、守護大名らが各地で戦いに明け暮れし力
を持ち始めたころ、関東では関東管領山内上杉氏と扇谷上
杉氏が覇権を争い、内乱が最も激しさを増していた時代に
あたる。慈眼寺開創の援助した開基者は、扇谷上杉氏配下
の在地勢力者と考えられる。延宝年間には吉見金剛院末寺
として現れる。
明治13年、第29世高顕和尚の折、暴風雨で本堂倒壊
するも、大正15年寳蔵寺住職玄英和尚は、檀徒五十有余
総力をもって起工、昭和2年2月28日竣工する。時移り
本堂いたく荒廃し、本尊並びに佛具危殆に瀕するに至り、
ここに檀徒役員、住職改築を発願し落慶を迎え記念碑を建
立する。
平成9年3月2日
昭和7年の改築記念碑です(詠めませんでしたが平成の記念碑と同様の内容と思われます)
墓地の入り口に六地蔵様です
では、次へ行きましょう