駒場地区は、阿智村役場の地区です
国道153号線駒場東一つ飯田市よりの変則交差点を北西側に入ると、南東向きの参道で安布知神社が鎮座します
鳥居脇から参道沿いの車道を進んで境内手水舎そばの駐車スペースを利用させて頂きました
参道入口です
郷社安布知神社です
説明版です
安布知神社
祭神
天思兼命(あめのおもいかねのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
由緒
社伝によれば、人皇16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現れ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより堀ったところ、八花鏡を見いだし、この鏡を御霊代として祠を建てて祀ったのが当神社の創建といわれている。
天思兼命は、高天原で最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃国に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を掌る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。
またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)がおかれたところで、駅馬30頭をおいて剣難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めている。
慶雲3年(706)八幡大神を勧請して相殿に祭り、また天正元年(1573)松尾城主小笠原信貴は甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江国三井寺から勧請して、三間社流れ造り、間口18尺、奥行9尺の善美を尽くした社殿を造営し、天思兼命を主神に、八万神・新羅明神を相殿に奉祭し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。
その後寛文11年(1671)駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重により規模様式共に天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿で、正面の金柱、欄間の彩色等に造営当時の華麗さを偲ぶことができる。なお拝殿は延宝3年(1675)神主林杢大夫の建立で、境内のヒイラギ・サカキと共に村の文化財である。
また江戸時代は徳川幕府から朱印領十石が寄進され、慶安2年(1649)徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
主な恒例祭典
元旦祭 1月1日午前6時
厄除・交通安全祈願祭・勤学祭 1月第二日曜日
入学祭 4月3日
風祭 8月29日
例祭 4月16日(祈年祭)、10月8日
新嘗祭 11月25日
大祓 6月30日、12月27日
除夜祭 12月31日
手水舎です
石段を上がります、拝殿が見えています
狛犬です(猿のようですが・・・)
拝殿です
本殿は覆屋の中です
安布知神社本殿は文化財になっています
説明版です
阿智村有形文化財
安布知神社本殿・拝殿
古代東山道阿智駅跡とされる関田の平坦地を一望におさめる丘陵の中腹、清坂の地に鎮座した本社は、「信濃国に天降りたまい、阿智の祝部等が祖(先代旧事本紀)」とされる天恩兼命を主神に祀る古社で、須佐之男命、誉田別尊を合殿とする。
現存する本殿は、寛文11年(1671)駒場村上町の領主宮崎太郎左衛門公重の造営で、三間社流造、こけら葺、二重垂木、組物は母屋が出組、向拝は連三斗を用い、内陣の間口5,4m、奥行2,4m、飯伊地域でも大規模な社殿に属する。正面階段には各柱ぎとに昇降欄を備え、組物・長押等には極彩色が施され、正面4本の内陣柱は金箔装とし、中、奥は設束を用い、右から唐獅子、波に紅葉、鳩の彩色画が有って、いずれも龍戸の内にあるため退色が少なく、造営当時の美しさがしのばれる。向拝部の蟇股の意匠は、右に唐獅子、左に鳩を透彫りとし、中央は井桁紋(領主宮崎氏の紋章)で、頭貫の左右の木鼻には象頭の彫刻があり、これ等には室町末期の様式の影響が見られる。
拝殿は間口柱間三間、奥行二間、入母屋造妻入で、延宝3年(1675)当社の神主林氏が造営した。周囲は格子造で、軒は一軒疎垂木とし、内部は格天井で格間には彩色画が描かれているがほとんど退色しはげ落ちが多い。
阿智村教育委員会
境内社です
裏参道側には沢山の石塔が並んでいます
では、次は境内の大杉と村天然記念物に指定されているサカキとヒイラギです
国道153号線駒場東一つ飯田市よりの変則交差点を北西側に入ると、南東向きの参道で安布知神社が鎮座します
鳥居脇から参道沿いの車道を進んで境内手水舎そばの駐車スペースを利用させて頂きました
参道入口です
郷社安布知神社です
説明版です
安布知神社
祭神
天思兼命(あめのおもいかねのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
由緒
社伝によれば、人皇16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現れ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより堀ったところ、八花鏡を見いだし、この鏡を御霊代として祠を建てて祀ったのが当神社の創建といわれている。
天思兼命は、高天原で最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃国に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を掌る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。
またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)がおかれたところで、駅馬30頭をおいて剣難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めている。
慶雲3年(706)八幡大神を勧請して相殿に祭り、また天正元年(1573)松尾城主小笠原信貴は甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江国三井寺から勧請して、三間社流れ造り、間口18尺、奥行9尺の善美を尽くした社殿を造営し、天思兼命を主神に、八万神・新羅明神を相殿に奉祭し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。
その後寛文11年(1671)駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重により規模様式共に天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿で、正面の金柱、欄間の彩色等に造営当時の華麗さを偲ぶことができる。なお拝殿は延宝3年(1675)神主林杢大夫の建立で、境内のヒイラギ・サカキと共に村の文化財である。
また江戸時代は徳川幕府から朱印領十石が寄進され、慶安2年(1649)徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
主な恒例祭典
元旦祭 1月1日午前6時
厄除・交通安全祈願祭・勤学祭 1月第二日曜日
入学祭 4月3日
風祭 8月29日
例祭 4月16日(祈年祭)、10月8日
新嘗祭 11月25日
大祓 6月30日、12月27日
除夜祭 12月31日
手水舎です
石段を上がります、拝殿が見えています
狛犬です(猿のようですが・・・)
拝殿です
本殿は覆屋の中です
安布知神社本殿は文化財になっています
説明版です
阿智村有形文化財
安布知神社本殿・拝殿
古代東山道阿智駅跡とされる関田の平坦地を一望におさめる丘陵の中腹、清坂の地に鎮座した本社は、「信濃国に天降りたまい、阿智の祝部等が祖(先代旧事本紀)」とされる天恩兼命を主神に祀る古社で、須佐之男命、誉田別尊を合殿とする。
現存する本殿は、寛文11年(1671)駒場村上町の領主宮崎太郎左衛門公重の造営で、三間社流造、こけら葺、二重垂木、組物は母屋が出組、向拝は連三斗を用い、内陣の間口5,4m、奥行2,4m、飯伊地域でも大規模な社殿に属する。正面階段には各柱ぎとに昇降欄を備え、組物・長押等には極彩色が施され、正面4本の内陣柱は金箔装とし、中、奥は設束を用い、右から唐獅子、波に紅葉、鳩の彩色画が有って、いずれも龍戸の内にあるため退色が少なく、造営当時の美しさがしのばれる。向拝部の蟇股の意匠は、右に唐獅子、左に鳩を透彫りとし、中央は井桁紋(領主宮崎氏の紋章)で、頭貫の左右の木鼻には象頭の彫刻があり、これ等には室町末期の様式の影響が見られる。
拝殿は間口柱間三間、奥行二間、入母屋造妻入で、延宝3年(1675)当社の神主林氏が造営した。周囲は格子造で、軒は一軒疎垂木とし、内部は格天井で格間には彩色画が描かれているがほとんど退色しはげ落ちが多い。
阿智村教育委員会
境内社です
裏参道側には沢山の石塔が並んでいます
では、次は境内の大杉と村天然記念物に指定されているサカキとヒイラギです