飯富地区は、身延町役場の南約4kmのところ
国道52号線を南へ、飯富信号を斜め右へ県道410号線です
道なりに南へ進むと、ガソリンスタンドの向かい側(西)に
飯富八幡神社が東向きに鎮座します
少し先の県道わきに車を止めさせていただきました(交通量が多いの境内近くには止められません)
参道入り口鳥居です
村社 飯富八幡神社です
石碑があります
山梨県知事 天野久題額
開田記念碑建設委員会撰文
由来飯富は、土地峡隘にして早川富士川の合流点に位置し、為に年々歳々水禍を蒙り、安住の地とするには余りにも恵まれざるの土地柄なり、農村にして農を専業とすることを辛うじて商工を兼業に、或は他に出稼働にあらぬる苦難の連続なり
し事は今思いたるに過ぐるものあるらむ。
斯る貧困なる追う均境弛却万策として愛郷の士相倚り相諒り増田藤四郎氏等の第一は開田事業は大正初年に奮耕地複奮を遂げ引続いて土橋元三郎氏土橋王作氏思いを最後として二十有余町歩の大開田は遂に其の完成を見るに至っれり。
顧みて大東亜戦争中の食糧窮乏の時代を追想し又昨年の未曽有の大豊作を想赴する時だれかこれ等先覚者の偉大なる遺産に感激せざるものあらんや、余日この意澤に浴する飯富区民の厚生面に及ぼす利益は計り知れざるものあり、之れ偏に関係諸氏の先見の明知と不屈の努力の賜に非ざるはなく其の功績や寔に大なりというべし。
茲に全区民の名に均して記念碑を建て永く其の功績を後昆に傳えんとす。
昭和31年春彼岸建之 飯富区
川崎香洞書
参道石段を上がります
正面に赤い二の鳥居です
右手に目的のクスノキです
手水舎です
拝殿です
本殿を覗くことが出来ました
説明版です
飯富八幡神社の指定文化財 所有者 飯富区
飯富八幡神社本殿 昭和39年5月12日 町指定
本殿は二間社流造、総檜の堂々たる神殿である。向拝欄間にある竜や、頭貫両端にある唐獅子の彫刻、擬宝珠高欄など江戸時代の技法がよく現されている。
祭神は天照皇大神(像高24cm)八幡大菩薩(像高33.5cm)の二体、両像とも背面に「長享2(1488)戌申11月13日五郎敬白」の銘がある。
社殿の創建は長享2年とされ、その後宝暦3年(1753)、天明2年(1782)、文政10年(1827)と三度の火災で、現存の四脚門鳥居を残して全焼した。
今の本殿は、天保14年(1843)の再建で、棟梁は飯富村古屋為右衛門義則と菊花の紋章の裏に記され、厨子内に保存されている。彫刻は、佐野金四郎の手による。
拝殿は元治元年(1864)に上棟したが、明治13年nお大火で類焼し、今の拝殿は、昭和11年に再建された。
二の鳥居は、町内でも古く宝永2年(1705)の四脚門鳥居で、平成27年に改修された。
飯富八幡神社のクスノキ 昭和41年3月1日 町指定
飯富八幡神社境内(七面堂前)にあるこのクスノキは、文久2年(1862)に永久寺26世住職慈明院日普上人が、三島神社境内の大クスより根分けして移植したものと伝えられている。
このクスノキは、移植された年代から推定すると5本が合着したものである。
クスノキは、関東以西に分布し、経2mほどにも成長する常緑高木である。晩春に白く淡い黄緑色の小さな花が咲く。また木材に芳香のあること、材質が密であることから、仏像彫刻の材料に使用されている。そのほか樟脳(枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体)をとり、薬用にも利用される。指定当時の目通り幹囲は5.2m。樹高は25m、枝張りは21mあったが、平成26年の記録的な豪雪に伴って多くの枝が折れたため、保存の為剪定が行われ、現在の樹形になった。
平成28年3月25日
身延町教育委員会
本殿南側の石塔や祠です
拝殿前からクスノキを見ました
西側から
北側から
東側から
境内の七面堂です
稲荷社のようです
北隣の永久寺です
境内のイチョウの大木です
参道を出てきました
では、次へ行きましょう
国道52号線を南へ、飯富信号を斜め右へ県道410号線です
道なりに南へ進むと、ガソリンスタンドの向かい側(西)に
飯富八幡神社が東向きに鎮座します
少し先の県道わきに車を止めさせていただきました(交通量が多いの境内近くには止められません)
参道入り口鳥居です
村社 飯富八幡神社です
石碑があります
山梨県知事 天野久題額
開田記念碑建設委員会撰文
由来飯富は、土地峡隘にして早川富士川の合流点に位置し、為に年々歳々水禍を蒙り、安住の地とするには余りにも恵まれざるの土地柄なり、農村にして農を専業とすることを辛うじて商工を兼業に、或は他に出稼働にあらぬる苦難の連続なり
し事は今思いたるに過ぐるものあるらむ。
斯る貧困なる追う均境弛却万策として愛郷の士相倚り相諒り増田藤四郎氏等の第一は開田事業は大正初年に奮耕地複奮を遂げ引続いて土橋元三郎氏土橋王作氏思いを最後として二十有余町歩の大開田は遂に其の完成を見るに至っれり。
顧みて大東亜戦争中の食糧窮乏の時代を追想し又昨年の未曽有の大豊作を想赴する時だれかこれ等先覚者の偉大なる遺産に感激せざるものあらんや、余日この意澤に浴する飯富区民の厚生面に及ぼす利益は計り知れざるものあり、之れ偏に関係諸氏の先見の明知と不屈の努力の賜に非ざるはなく其の功績や寔に大なりというべし。
茲に全区民の名に均して記念碑を建て永く其の功績を後昆に傳えんとす。
昭和31年春彼岸建之 飯富区
川崎香洞書
参道石段を上がります
正面に赤い二の鳥居です
右手に目的のクスノキです
手水舎です
拝殿です
本殿を覗くことが出来ました
説明版です
飯富八幡神社の指定文化財 所有者 飯富区
飯富八幡神社本殿 昭和39年5月12日 町指定
本殿は二間社流造、総檜の堂々たる神殿である。向拝欄間にある竜や、頭貫両端にある唐獅子の彫刻、擬宝珠高欄など江戸時代の技法がよく現されている。
祭神は天照皇大神(像高24cm)八幡大菩薩(像高33.5cm)の二体、両像とも背面に「長享2(1488)戌申11月13日五郎敬白」の銘がある。
社殿の創建は長享2年とされ、その後宝暦3年(1753)、天明2年(1782)、文政10年(1827)と三度の火災で、現存の四脚門鳥居を残して全焼した。
今の本殿は、天保14年(1843)の再建で、棟梁は飯富村古屋為右衛門義則と菊花の紋章の裏に記され、厨子内に保存されている。彫刻は、佐野金四郎の手による。
拝殿は元治元年(1864)に上棟したが、明治13年nお大火で類焼し、今の拝殿は、昭和11年に再建された。
二の鳥居は、町内でも古く宝永2年(1705)の四脚門鳥居で、平成27年に改修された。
飯富八幡神社のクスノキ 昭和41年3月1日 町指定
飯富八幡神社境内(七面堂前)にあるこのクスノキは、文久2年(1862)に永久寺26世住職慈明院日普上人が、三島神社境内の大クスより根分けして移植したものと伝えられている。
このクスノキは、移植された年代から推定すると5本が合着したものである。
クスノキは、関東以西に分布し、経2mほどにも成長する常緑高木である。晩春に白く淡い黄緑色の小さな花が咲く。また木材に芳香のあること、材質が密であることから、仏像彫刻の材料に使用されている。そのほか樟脳(枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体)をとり、薬用にも利用される。指定当時の目通り幹囲は5.2m。樹高は25m、枝張りは21mあったが、平成26年の記録的な豪雪に伴って多くの枝が折れたため、保存の為剪定が行われ、現在の樹形になった。
平成28年3月25日
身延町教育委員会
本殿南側の石塔や祠です
拝殿前からクスノキを見ました
西側から
北側から
東側から
境内の七面堂です
稲荷社のようです
北隣の永久寺です
境内のイチョウの大木です
参道を出てきました
では、次へ行きましょう
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